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死児変相
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死児変相
神西清
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Chapter 5 of 8

5

奉仕の人数は四人でした。もう一人、古島さんといふ教僕が、すすんで手伝ひをしたからです。この古島さんといふ人は、なんでも九十九里あたりの漁村から来た青年ださうですが、奇妙なことには片腕――しかも右の腕が、根もとからありませんでした。その不具の原因は、千恵もたうとう聞き出すことができませんでしたが、決して戦地だの空襲だののせゐではなくて、幼いころ何か大病を患らつたときに切断されたものだといふことでした。そんな不幸な生ひ立ちの人ですから、子供の頃から教育も満足ではなく、信仰の道に入つたことはごく自然の成行きでせうが、もう一つ古島さんには、天成のすぐれた画才がありました。その画才と篤信が、どういふ筋道だつたかは存じませんが司祭さんに見出されて、だいぶ前からN会堂の教僕として住み込んでゐたのです。といふのはその司祭さんが、聖職者には珍らしく洋画(それも聖画ではなしに主に風景画ですが――)の道では、素人の域を脱した腕前を持つてゐたからでした。千恵はついこのあひだ、司祭さんの絵もそれとなく拝見する機会がありましたし、とりわけ古島さんの未完成の絵を見せられて、なんとも言へない感動にとらはれたのです。けれど絵のことは、とりあへず後廻しにしませう。……

その古島さんといふ青年は、見れば見るほど不思議な人でした。左手で立派に絵をかきます。のみならずほんのちよつとしたメモのやうなものを見たことがありますが、その筆蹟もなかなか几帳面で、これが小学も満足に出てゐない人の書いたものかと思はれるほど正しい字づかひでした。しかもその左手で、掃除のバケツも握れば炊事の釜も洗ふのです。千恵はこの人と言葉こそ交はしたことはありませんが、よそ目ながらN会堂の構内で二度ほど行き会つたことがあります。その一度などは揚水ポンプのついた井戸端で洗濯物をしてゐるところでしたが、その片手の使ひ方の器用なことと云つたら、見てゐる方で妙に不気味な感じがしてくるほどでした。痩せ細つて、背はむしろ低い方、両頬がこけて、ちよつとスプーンのやうな妙な恰好をした顎ひげを生やしてゐます。そのため青年のくせに何だか年寄りじみて見えましたが、年は二十七だとかいふことでした。するどい、まるで射るやうな眼をしてゐます。けれどその眼も、たつた一ぺんだけ視線を合はせたことがありますが、こちらがハッとした次の瞬間には、虔ましく地に伏せられてをりました。声も扉ごしにふと耳にしたことがありましたが、それは一言々々尾をひくやうな物静かな柔和な声音で、しかもその底に妙にはつきりした物に動じない気勢が感じられました。

……それはまあさうとして、Hさんも加へた同勢四人の手で、聖堂の浄めは手順よく運んでゆきました。青黒く変色した幾体かの焼死体は、左手の外陣の一隅に片寄せられて、上から真新らしい菰がかぶせられました。左右の外陣の窓の鉄扉はあけはなされて、春の夕暮の風がしだいに異臭をうすめてゆきました。あとは百坪は優にあらうかと思はれるコンクリートの床の水洗ひが残るだけでしたが、これが中々の大仕事でした。うづ高いほど積まれてゐた屍体からいつのまにか泌みだした血あぶらで、床はいちめん足の踏み場もない有様だつたといふことです。しかもそれが、ちつとやそつとの水洗ひではいつかな落ちず、手に手に棒ブラシを持つた四人は思はず顔を見あはせて、深いため息をついたさうです。金色の壁面にさまざまの聖者の像の描いてある聖障は、もちろんぴつたり閉ざしてあります。けれど折からの夕日が西向きのバラ窓から射しこんで、内陣にあふれるその光が高い円天井に反射し、堂内はまるで夢のやうな明るさだつたと言ひます。その光のなかに、いくら拭いても擦つてもぎらぎら浮いてゐる血あぶらの色だけは、とても一生涯わすれられさうもないと、さすがのHさんも話しの途中で殊勝らしく眼をつぶりました。

その夕日の色もだいぶ暗くなつて来た頃のことださうです。ふと何やらけたたましい人声がして、それが仰山に円天井にこだましたので、Hさんがギョッとしてあたりを見廻すと、屍体を片寄せた左手の外陣のあたりを先刻から懸命に洗つてゐた小柄な古島さんが、誰かしら見知らぬ人影とまるで組打ちでもするやうな恰好で争つてゐるのが見えました。その異様な声は、争ひながら古島さんが夢中で立てた悲鳴だつたらしいのです。のこる三人は思はず棒ブラシを捨てて、その不意の闖入者のそばへ走せ寄りました。それは紫色のモンペをはいた、かなり背の高い女でした。防空頭巾もかぶらず、髪をふり乱して、透きとほるやうな蒼白い顔をして、その婦人はぎろりと三人の方を振り向きました。それが……姉さまだつたのです。

「あ、Sの奥さま!」と、Hさんは思はず叫び声をたてました。湯島の同じ町内で、Hさんは姉さまの顔をよく見知つてゐたからでした。そればかりか罹災のつい二三日前にも、ちやうどHさんが夕方ひとりで店番をしてゐた時、姉さまが心配さうな蒼い顔をして、小児用のイチジク灌腸を買ひに見えたのださうです。もう都内の薬局は何によらず品薄になつてゐた頃で、もちろんイチジク灌腸もその例外ではありませんでしたが、普通ならにべもなく「お生憎さま」で済ますところを、Hさんは姉さまの真剣な顔つきに気押されて、気前よく手持ちのなかから半ダース譲つてあげたのださうです。そんなことがあつたので、尚のことHさんの眼は敏感にはたらいたわけなのでした。

そのHさんの叫び声に、姉さまはじいつとHさんの顔を見つめましたが、そのまなざしは全くうつろな、感動の色も識別力の気配も全然ない、いはばほうけきつたやうな眼だつたさうです。

そんな眼つきで暫くHさんの顔を見てゐた姉さまは、やがてにたりと不気味な薄笑ひを蒼白い顔にうかべると、その時までしつかり掴まへてゐた古島さんの片腕をはなして、すうつと足音も立てず出口の方へ出ていつてしまつたのでした。駈けつけた三人は呆然とその後ろ姿を見おくりました。ふとHさんが気がついてみると、古島さんはいつのまにかまた棒ブラシを拾ひあげて、そのくせ床を拭きはじめるのでもなく、ぼんやりと眼の前の屍体の一つを見つめてゐたさうです。……

あとで古島さんが司祭さんに打明けたところによると、古島さんが姉さまの姿をその堂内で見かけたのは、その夕方がはじめてではなかつたのでした。何べんといふことははつきり覚えがないにしても、その眼つきのするどい、背のすらりと高い、色の抜け出るほど蒼白い婦人の姿は、たしかに三度か四度は屍体引取りに来た人の群のなかで見かけた記憶があつたさうです。もちろん身寄りの誰かれの屍体をたづねてN会堂を訪れた人びとは、もしそれが女ならば、みんな一様に血走つた眼つきをし蒼ざめた顔をしてゐたに相違ありません。が、そのなかで姉さまのお顔や眼だけがそんなふうに古島さんの印象にはつきり焼きついてゐたのには、もとよりそれ相応のわけがあるに相違ありません。一体なぜだつたのでせうか? それは「あのかたの眼でした」と、古島さんはきつぱり言ひ切つたとHさんは語りました。千恵はそれを聞いたとき、思はずつい一時間かそこら前に廊下の窓からじいつと室内をのぞきこんでゐた姉さまの凝視を、まざまざと思ひ浮べました。さうです、いかにもあのかたの眼つきに相違ありません。あのなんとも言ひやうのない凝視を一度でも見た者は、もはや決してその持主を思ひちがへる筈はないのです。

それにしても、姉さまは一たい誰をさがしてゐたのでせうか。Hさんのお祖母さんは道ばたの防空壕のなかで焼け死んだと言ひます。そんな聯想から、千恵はひよつとしたらS家のお母さまの行方が知れないのではあるまいかと一応は考へてみました。もちろんこの考へ方がほんの気休めにすぎまいことには、千恵も初めから気がついてをりました。行きがた知れずになつたのが、あの確かその頃六つだつたはずの潤太郎さんだといふことは、今ではもう色々の理由から千恵は疑へなくなつてをります。S家のお母さまなら、疎開などではなしに、とうから御殿場の別荘にお住みだつたはずではありませんか。じつは千恵は、姉さまもとうに湯島の本宅は引払つて、もとより仲違ひをしたSのお母さまのところではないにしても、どこか軽井沢か五色か、あの辺の山小屋みたいな別荘へ疎開してらつしやることと思ひ、むりやりさう信じようとしてゐました。けれどこれは、はかない空頼みにすぎませんでした。現に姉さまは、ちやうどその頃Hさんの店へ、イチジク灌腸を買ひに見えたといふではありませんか。そして恐らく方々の屍体収容所を探ねあぐねた末に、N聖堂の中をまで一度ならずうろついていらしたといふではありませんか。潤太郎さんはきつと何かの病気だつたに違ひありません。その病気の潤太郎さんと、姉さまはあの騒ぎの中ではぐれておしまひになつたに相違ありません。潤太郎さんは若い気の利かない小女か何かの手に抱かれたまま、どこかで一緒に焼け死んだのかも知れません。

不吉な予想です。それは重々わかつてをります。ですが千恵は、現にその姉さまの一人ぼつちの姿も見、その怖ろしい眼ざしも現にこの目で見、またHさんの物語も聞いてしまひました。これはもう予想ではありません。それでも母さまは無理に陽気な笑ひごゑをお立てになるのですか? 千恵はもしそんな母さまだつたら心からお怨みします。……古島さんの話によると、その夕方ふじゆうな片腕で一心に棒ブラシを使つてゐた古島さんは、ふと外陣の暗がりの中でうごめいてゐる人の気配を感じて、ぎよつとしたのださうです。死人が蘇へつたのではあるまいか――と、咄嗟にそんな錯覚をさへ感じたさうです。それがその婦人なのでした。姉さまはいつの間にかこつそり忍び込んで、残る幾体かの青黒い屍体を、身をかがめて一つ一つ覗きこんでゐたさうです。古島さんが呆然としてその姿を見守つてゐると、とつぜん足もとまで這ふやうに寄つて来てゐた姉さまが、矢庭に片手で古島さんの二の腕をつかみ、のこる手を背の低い古島さんの顎へかけて、ぐいぐい恐ろしい力で突きあげながら、「ああ坊や、坊やだつたのね、ほんとに坊やだつたのね。お母さんは……」とまで言ひかけて、あとははらはらと落涙したのださうです。古島さんはもちろん無我夢中でした。あの落ちついた物に動じない青年が、夢中で悲鳴をあげたのでした。それでもさすがに古島さんは、驚きうろたへながらも、上からまじまじと自分を覗きこんでゐる婦人の眼を、ほんの束のま見返すだけの余裕があつたさうです。その眼の印象を古島さんは、前にも記しました通り、「それはあのかたの眼でした、確かにあのかたの眼でした……」と司祭さんに告げたのでした。この「あのかた」といふのが誰を指すものか、Hさんの話を聞いた当座の千恵には分りませんでした。Hさん自身にしても分つてゐなかつたのでせう。けれど、やがてあとになつて……

いいえ、千恵はなんだか頭がこんぐらかつて来ました。窓を、窓をあけようと思ひます。……

………………………………………

夜気が流れこんで来ます。まるで霜のやうに白々とした夜気です。北の空は痛いほど冴えかへつて、いつのまにか母さまのお好きなあの七つ星が中ぞら近くかかつてゐます。もう夜半はとうに過ぎたのでせう。なんの物音もしません。しんしんと泌みこむ夜気を、千恵の頭はむしろ涼しいやうに感じます。しばらく、向ふの森かげから覗いてゐる焼けただれた工場の黒々とした残骸に、千恵はほうけたやうに見入つてをりました。

だいぶ頭が冷えて来ました。まだ頭の芯は妙にもやもや火照つてゐますけれど、でももうあと一踏んばりです。千恵はこの手紙をとにかく最後まで書きあげて、封をしてしまはないことには、とても今夜は眠れさうもありません。あとほんの少しです。母さまももう暫くがまんして下さい。……

どこまで書きましたかしら? ああさうさう、「あのかた」といふ文句で千恵は爪づいたのでした。

Hさんの話によると、姉さまの姿はその後もちよいちよいN会堂の構内に見受けられたさうです。残りの屍骸は約束どほりその翌る朝には全部はこび去られ、聖堂の浄めもすつかり済んだあとでは、日ましに烈しくなる空襲のもと、正面の鉄扉は再び固くとざされてしまつたので、もちろん姉さまは堂内にはいつてわが子の屍体をさがし求める機会は二度と再びありませんでした。その頃はもう通り抜ける人影も稀な上に、植込みのそこここには空掘りの防空壕も散在してゐようといふ荒れさびた聖堂の構内を、姉さまは当てもなくうろつくだけのことでした。その時間も、十分二十分と行きつ戻りつするならまだしものこと、時によると一時間ちかくも構内をさまよつてゐたことさへあつたと云ふことです。当のさがす相手も、もはや幼な子の惨死体などではなくて、まぎれもないあの古島さんの生ける姿だつたらしいことは、姉さまの挙動や眼つきを遠目ながら窺ふ機会のあつたほどの人なら、異口同音に断言したさうです。もちろん古島さんはすつかり怖気をふるつてしまつて、姉さまの紫色のモンペ姿がちらりと見えようものなら、血相かへて自分の部屋へ逃げこんでしまふのでした。それでも出逢ひがしらに危くつかまりさうになつたことも、一二度はあつたさうです。

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