プロロオグ
私はよく夢をみる。楽しい夢よりも、苦しい――胸ぐるしい夢の方がずつと多い。さめたあとで、ほとんど全経過をたどり直せるほど、はつきり覚えてゐる夢もある。さめた直後は、思ひ出す手がかりすら見失はれて、それなり忘れてゐたのが、かなり後になつて何のきつかけもなしに、ぱつと記憶に照らし出される夢もある。後者には概して楽しい夢が多いやうだ。
同じ主題がしばしば繰り返されるのは、苦しい夢の場合に多い。その主題の立ち返りは、ほとんど一定の周期をなしてゐるやうにさへ思はれる。なかでも一ばん頻繁にあらはれるのは、胸ぐるしい夢で、その堪へられぬほどの圧迫感、むしろ窒息感をかもしだす情景は、私の場合は何よりもまづ、船室の棚床のなかに仰向けに横たはつてゐるうちに、上の棚がだんだん降りてきて、つひに一寸の隙間もなく圧しかかつてしまふのである。私はもう死ぬと思ふ。それなら一刻も早く死なしてもらひたいと思ふ。だが、もう呼吸する空気は尽きてゐるのに、私は死ねない。その苦悶の絶頂で、私はやつと目をさます。この船室の棚床には、勿論いろんなヴァリエーションがある。トランク詰めにされたり、突然お棺の中で気がついたりする。しかし一ばん多く出てくるのは棚床なので、私はこれが原初の形態であることを、久しい前から承認してゐる。
棚床に寝た経験は、思ひだせば幾らもある。汽車の寝台もさうだし、青函連絡船や関釜連絡船もさうである。だがさういふものに私が寝たのは、かなり成長してからのことで、その時すでに私の内部感覚には、事前に体験された形で圧迫感や恐怖感が横たはつてゐた。それは現在なほ尾を引いてゐて、この年になつても私は、なるべくならば汽車は寝台に乗りたくないのである。そこで、「棚床」の胸苦しい第一体験は、かなり幼少の頃にあつたものと見なければならないが、私は先日ふと、同じ性質の或る悪夢から覚めたあとで、十歳のころの最初の船旅の経験を、びつくりするほどまざまざと思ひだした。私は、ああ、あれだ、と思つた。きれいさつぱり忘れてゐた夢が、ぱつと照らし出されるあの瞬間に似てゐた。それに伴なつて、夢の細部が驚くべき明確さをもつて生き生きとよみがへつてくるやうに、私には少年時代の或る時期のうすれ果てた記憶が、悦びよりはむしろ一種の恐怖をもつて、ありありと立ち返つて来た。いかに忘れ果ててゐようとも、原罪はあつたのである。
それがまた薄れ消えて行かないうちに、私は急いで書きとめておかうと思ふ。もちろん記憶の闇にむかつて焚かれた瞬間的な照明は、不完全きはまるものに違ひなく、明暗の対比がどぎつすぎたり、露出が必要以上に強調されたりする惧れは多分にあるだらう、それはもう致し方もないことなのだ。……
その最初の船旅は、前にも言つた通り私の十歳のとき、内地から台湾へ向つての海路である。季節ははつきりしないが、夏の終りか初秋ではなかつたかと思ふ。つまり颱風期に遭遇したわけである。父は暫く休職官吏として退屈な月日を送つたのち、母の伯父にあたる宮中の有力者の力添へで台湾総督府に椅子を得た矢先であつたから、出発の日どりなども加減する余裕はなかつたのだらう。神戸から乗船したやうな気もするが、あるひは馬関(つまり下関)だつたかも知れぬ。先祖の墓所が山口にあつて、父は明治の人として、外地への赴任の途次かならずや展墓を忘れなかつただらうからである。船は信濃丸といつた。たぶん日露戦役で名高いあの信号船と同じ船だつたらう。紺碧の空に白い船体をうかべ、おだやかな海波を切つてゐるその絵葉書を、私は長いこと愛蔵してゐたが、いつのまにか失くしてしまつた。だが、この船旅についての実際の記憶となると、のちに私の潜在意識の底ふかく根をおろすことになつた密閉感覚ともいふべきものを他にすると、全然ないといつていい。最初の一日ぐらゐは、ひよつとすると晴れて平穏な海路だつたかも知れない。デッキチェアに腰かけた父が、傍に立つてゐる小さな私にライスカレーを一さじ二さじ食べさせながら、その都度わたしが顔をしかめるのを興がつて笑つてゐる声を、私は妙にありあり覚えてゐるやうな気がするからだ。あるひはこれは、馬関までの汽車の中だつたかも知れない。とにかくこの父子像のあひだに、心配さうに差しのぞいてゐる母のおだやかな微笑があつたことだけは確かである。
しかしそのあとは、幾日の船旅だつたか知らないが、徹底的に颱風にもてあそばれどほしだつた。三千五百噸の巨体は木の葉のごとく……などと、小学生の作文じみたことも言ひたくなるが、実際はそんなことではなかつた。横ゆれもかなりだつたが、更に怖ろしいのは縦ゆれで、船室の棚床に小さくちぢこまつて寝たつきりの私には、少なくとも二三丈はある上下運動として感覚された。それが終日終夜、いつ果てるともなく続いたのである。くぐーと吸ひこまれるやうな下降感覚の不気味さ。それにもまして、同じだけまた揺り上げられるときの、息づまらんばかりの圧迫感。……のちに私の見る夢の呪はれた主題になつたものは、たしかにこの後者なのである。
母は何ひとつ喉をとほらず、しかも嘔吐しつづけた。その嘔吐は私にも感染した。同じ船室に祖母もゐたはずだが、これは全然わたしの記憶から欠落してゐる。父だけが至極元気だつた。開けはなしたままの船室のドアの向うに、食堂らしい広間が見え、テーブルも椅子も残らず片隅に寄せかけてロープで固定したあとの空間を、父がむしろ楽しげな足どりで巧みに平均をとりながら、飲水をとりなどに去つてゆく後姿を、私ははつきり覚えてゐる。父は頗る楽天家であつた。
航海の最後の日になつて、やつと海は静かになつた。そして船はその日の夕方ちかく、基隆にはいつた。