Chapter 1 of 5

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サイラス・キュー・スカダモーア氏は、單純な、惡氣のない、若い亞米利加人だつた。この男の生れた新英蘭は、同じ新世界のうちでも、特にさういふ性質が缺けてゐると言はれてゐる地方なので、その點が一層彼の信用を増すもととなつてゐた。この男は非常な金持だつたが、自分の小遣と云へば、いつも克明に小さな紙製の手帳につけてゐた。そして羅甸區の所謂家具附ホテルの七階から、巴里の人氣場所などをあれかこれかと調べて樂しみにしてゐた。彼の吝嗇は大方習慣から來てゐた。そして仲間の間で特に有名になつてゐるこの男の長所は、主として遠慮深いといふ事と、年がまだ若いといふことであつた。

彼の部屋の隣りには一人の婦人が住んでゐた。この婦人の態度にはひどく人を惹きつけるところがあつて、またその身だしなみは極めて上品だつたので、彼が初めてこゝに來た時には、これは伯爵夫人に相違ないと思つた程だつた。だがそのうちに、この婦人がその名をゼフィリーン夫人と呼ばれてゐる事や、この世の中にどんな身分を占めてゐるのか知らないが、肩書などのある人ではないといふことが解つて來た。ゼフィリーン夫人は、大方この若い亞米利加人を迷はせて見たいとでも思つてか、階段で出會つた折などは、丁寧に腰を屈めたり、勿論言葉をかけたり、その黒い眼で相手を惱殺するやうに眺めたりして、これ見よがしに男のそばを通つて、それから衣ずれの音をさら/\ときかせて、見事な脚と足首とを見せて、やがてその姿を消すのが常であつた。だがこんな誘ひの手も、スカダモーア氏の心をそゝり立てるどころか、却つてその勇氣を沮喪させて、益しり込みをさせるばかりであつた。彼女はあかりをつけさせて貰ひたいとか、自分の尨犬が盜まれたやうな氣がしたのは空想に過ぎなかつたのだ、などゝいひわけなどをして、度々彼の部屋にやつて來た。だがかういふ素晴らしい人の面前では彼の口は閉されて、佛蘭西語も急に出なくなつて、たゞ相手をぢつと見つめて、部屋から立ち去るまでぶす/\吃るだけの事であつた。二人の交際はこんな心細いものだつたが、サイラスは男ばかりの友達の中で、何の心配もいらぬと思ふ時などには、この光榮至極に感ぜらるゝ話を仄めかさない事もないではなかつた。

この亞米利加人の部屋の反對側の部屋には――といふのは、このホテルには一階に室が三つ宛しかなかつたが――どちらかといふと評判の香ばしくない、年をとつた英吉利人の醫師が住んでゐた。ノーエル博士といふのがその人の名前だが、倫敦で開業してゐて、仕事もだん/\繁昌して來たのに、餘儀なくそこを立ちのかねばならぬ事になつたのであつた。そしてこのやうに住所を更へねばならなくなつたのは、警察から促がされての事だといふ噂であつた。かうしてたうとう、若い頃にはその道で相當名を現はしたのに、今では羅甸區で全く單純孤獨な生活をつゞけて、專ら研究にその朝夕を委ねてゐた。スカダモーア氏はこの醫師と近づきになつた。そして二人は時々筋向ふの料理屋へ出かけて行つて、一緒に質素な食事をする事があつた。

サイラス・キュー・スカダモーアは、相當念入りなちよつとした惡癖をなか/\澤山持つてゐた。そしていろ/\な變な癖で、それに耽り出すと、うまくそれを切り上げる事が出來なかつた。その弱點のうちで最も甚しいものは好奇心だつた。彼は生れつきの無駄話家だつた。そしてこの世の中の事、殊に自分がまだ經驗した事のない方面のことには、殆ど狂熱といつていゝ程度の興味を感じてゐた。彼は出過ぎた、始末にをへない穿鑿家で、どこまでも粘り強く、無分別に、探し求めるのであつた。例へば郵便を出しに行くにしても、自分の手の上でその目方を量り、幾度も引つくり返して調べ、そして宛名を注意深く吟味するといふ風であつた。そこで、自分の部屋とゼフィリーン夫人の部屋との間の仕切に小さな隙間を見付けた時には、彼はそれを塞がうとはしないで、却つてそれを大きくして、その孔を具合よく繕うた。そして隣の樣子を窺ふ覗き孔に利用したのであつた。

三月の末のある日のこと、彼は例の氣儘にしてゐる好奇心が募つてくるまゝに、隣の部屋の他の部分までも見えるやうに、孔を前よりも少し大きくした。その晩、いつものやうにゼフィリーン夫人の樣子を覗いて見るつもりで、孔のところへ行つて見ると、驚いたことには、その孔は向ふ側から妙なやり方で見えないやうにしてあつた。そしてその邪魔物が俄に取り除けられて、くすくす笑ふ聲が聞こえて來た時には、彼は一層氣まりが惡くなつた。確かに剥げ落ちた漆喰のかけらから、相手はこの覗き孔の秘密を知つたに相違なかつた。そして隣りの人も同じやうにして仕返しをしたのであつた。スカダモーア氏は非常に困つたといふ氣持になつた。彼は酷たらしくゼフィリーン夫人を咎めだてゝ見たり、また自分を責めて見たりした。だが翌日になつて、夫人の方では少しも彼の好きな慰みの裏をかかうなどゝしてゐなかつたといふ事が分つて見ると、彼は夫人の無頓着をいゝ事にして、つゞけてその馬鹿げた好奇心を滿足させるのであつた。

その次の日、ゼフィリーン夫人の處へ、一人の背の高い、五十ばかりになる、サイラスのまだ見たことのない、だらけたからだ付の男が訪ねて來て、長い間話してゐた。そのツウィードの着物と、色がはりのシャツと、それからもじや/\した頬髯とで、その男が英國人だといふ事が分つた。またその鈍い灰色の眼は、サイラスに冷いやうな感じを起させた。その男はひそ/\と囁くやうに話してゐたが、その話の間にも、口を左右に、またぐる/\と歪める癖があつた。この若い亞米利加人には、二人の身振がどうも自分の部屋をさしてゐるかのやうに幾度も思はれた。だが極めて細心の注意で讀みとる事の出來た只一つのことは、その英國人が、恰かも女の不承知または反對の言葉に答へるかのやうに、幾らか高い調子で言つた言葉だつた。

「私はその男の趣味を精しく研究しました。そして繰返して云ふが、あなたより外に私が見付けたいと思ふ女はないのです。」

ゼフィリーン夫人はその返事として溜息をついた。そしてその身振を見ると、資格の無い當局の前に屈する人のやうに、已むを得ず言ひなりになるといふやうな樣子であつた。

その日の午後觀測所はたうとう塞がれてしまつた。向ふ側のその孔の前に箪笥が持つてこられたのであつた。これはてつきりあの英國人の意地の惡い入智慧に相違ないと考へて、サイラスがこの不幸を嘆いてゐる時、門番が彼の處へ一通の女文字の手紙を持つて來た。それは綴りの餘り正しくない佛蘭西語で記されて、署名は無く、そして頗る熱烈な言葉で、この若い亞米利加人に、その夜の十一時にヴィエー舞踏場のある場所へ來て貰ひたいと招待したものであつた。彼の胸の中では好奇心と臆病とが長い間鬪つてゐた。ある時は全くしをらしい氣持になり、またある時はすつかり熱烈な大膽な氣持になつた。そしてたうとう、その夜の十時にはまだ大分間があるのに、サイラスは申分のない服裝をして、ヴィエー舞踏場の入口に現はれて、相應に面白くない事もないやうな向ふ見ずの惡戲氣分になつて、入場料を拂つたのであつた。

それは謝肉祭の時節で、舞踏場は人が一ぱいで、頗るざわめいてゐた。その華やかな燈火や、群集の騷がしさで、吾等の若い冒險家は始めはいさゝか尻込みを覺えたのであつた。しかしやがて頭の中が何だか醉つたやうな氣持になつて、自分の本來の持前よりもずつと元氣が出て來たのであつた。彼は惡魔とでも取組むやうな氣持になつて、舞踏の名手然とした態度をして、舞踏場の中を氣取つて歩いてゐた。かうして大氣取りで歩きつてゐる間に、彼はゼフィリーン夫人と、例の英國人とが、柱の蔭で何か相談してゐるのに氣が付いた。するともう、立ち聽きしたいといふ猫のやうな心が抑へ切れなくなつて來た。彼はうしろからそろ/\と二人の方へ忍び寄つて、たうとうその話のきこえる處まで行つた。

「あの男ですよ。」と、英國人は言つた。「そら、あの長い金髮の――緑色の着物をきてゐる娘と話をしてゐる。」

サイラスは小柄の非常に美しい一人の青年に氣が付いた。確かにそれが二人の話してゐる當の人物に相違なかつた。

「まあようござんす。」と、ゼフィリーン夫人は言つた。「出來るだけの事はやつて見ませう。ですがようござんすか、誰が當つて見ても、かういふ事は失敗するかも知れませんよ。」

「ちえつ!」と、相手は舌打ちをした。「私が責任を負ひますよ。三十人の中からあなたを選んだのぢやありませんか。やつて下さい。だが殿下には用心して下さいよ。どうした風の吹きしであの人が今晩こゝへやつて來たのか、私にはさつぱり分らない。まるでこの巴里には、學生達やお店者などの暴れつてゐるこんな處よりほかに、もつと氣のきいた舞踏場はないとでもいふやうですからね。殿下の坐つてゐる處を御覽なさい。休暇をとつてゐる王子といふよりも、寛いでゐる陛下とでもいつたやうぢやありませんか。」

サイラスは今度も仕合せだつた。彼はどちらかといふと體格のがつちりした、極めて美しい、そして非常に堂々としてゐて、態度の丁寧な人物が、幾らか年下の、矢張美しい青年と、テーブルに着いてゐるのに氣がついた。その青年は非常に謙遜な態度で相手の人に話しかけてゐた。殿下といふ名は、民主國民であるサイラスの耳には、何となく有難いものゝやうに響いた。またその名前で呼ばれた人物の樣子は、いつもの通り彼の心に興味を起させずには置かなかつた。彼はゼフィリーン夫人と英國人の方はそのまゝにすてゝおいて、群集の間を縫ふやうに進んで行つて、殿下とその親友とが腰をおろしてゐるテーブルに近づいた。

「ねえ、ジェラルディーン、」と、その人は言つた。「あの事はどうも狂氣じみてゐるよ。君自身が(私は有難いと思つてゐるが)君の弟を選んで、この危險な仕事に向けたのだから、君は弟の行爲を保護してやる義務があるよ。本人は巴里に幾日もだら/\してゐる事に同意したが、當人が取引しなければならぬ相手の性格を考へると、それが既にもう不謹愼だと思ふね。だが今出發までにもう四十八時間しかなく、そして決審までに二三日しかない時に當つて、ねえ君、こゝは當人がぐづ/\してゐていゝ處かね? 今は道場へ行つて大いに練習してゐなければならないのだ。十分に眠つて、適度の散歩を試み、白葡萄酒やブランデーなどはやらないで、嚴格な食事をとらねばならないのだ。あの男は吾々が皆で喜劇でもやつてると想像してゐるのかな? これは實に容易ならん事だよ、ジェラルディーン。」

「あれの事は私よく存じて居りますが、捨てゝ置いて結構でございますよ。」と、ジェラルディーン大佐は答へた。「御心配遊ばさないで結構でございます。あれは殿下の御想像遊ばされる以上に用心深い人物でございますし、また不撓不屈の精神を持つて居ります。問題が女のことになりますと、私もさうまでしつかりした事は言へませんが、しかしあの會長の事でしたら、私は少しも心配しないで、あれと二人の從者に任せて置けると思ひます。」

「さう言つてくれゝば私も滿足するが、」と、殿下は答へた。「でも、まだ私は安心出來ないよ。成程あの二人の從者はなか/\熟練した間諜だ。ところで、あの曲者はもう三度も二人の眼褄をのがれる事に成功して、何か秘密の、極めて危險性のある仕事に何時間も使つて來たではないか。素人なら手ぬかりで相手に逃げられるといふ事もあらうさ。しかしルードルフとジェロームが撒かれたといふ事になると、それはわざとさうされたので、しつかりした理性と異常な策略のある人間にさうされたに違ひないよ。」

「問題は今は弟と私自身の間のものと思ひますが、」と、ジェラルディーンは、言葉の調子に幾分不快の色を見せて言つた。

「そりやさうだらうと思ふ。」と、フロリゼル殿下は答へた。「恐らくそれでこそ、君は尚更私の忠告を受け容れなければならんと思ふよ。だがもうよさう。あの黄いろい着物をきてゐる娘は踊りがうまいね。」

そこで話は轉じて、謝肉祭の頃の巴里の舞踏場にありふれた話題に變つて行つた。

その時サイラスはふと自分がどこにゐるかといふ事を思ひ出した。また自分が約束の場所に行つてゐなければならぬ時間がもう近づいてゐる事も思ひ出した。考へれば考へるほどこれから先の事が面白くなくなつて來た。丁度その折も折、群集の渦卷が彼を戸口の方へ押して行つたので、彼は抵抗しないで運び去られるまゝになつてゐた。すると渦卷は彼を棧敷の下の片隅に押し上げてしまつた。ところがそこへ行くと、直ぐ彼の耳にゼフィリーン夫人の聲がきこえてきた。彼女は、半時間足らずの前に、例の奇妙な英國人が指してゐた金髮の青年と、佛蘭西語で話してゐた。

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