Chapter 1 of 20

欧羅巴に於ける神話学の研究は、嘗て所謂比較神話学派の勃興せし当時に於て、甚しく隆盛を極めし反動の勢未だ止まずして、現今に於ては、寔に微々として、甚振わざるの観なきに非ず。然れども、これ表面の観察のみ。趣味多面の欧羅巴学界は、決してこの興味ある学科の研究を等閑に附せしには非ず。自然科学万能主義の時代は既に去りて、人文科学の研鑚は、今や旭日東天に昇るの勢を以て、進歩しつつあり。人文科学の一分科としての神話学の研究は、今日に於ても尚、依然として行われつつあり。唯その外観に於て、往日に於けるが如く、人目を惹くことの著しからざるのみ。

翻て、明治の学界に於ける、斯学の研究の状態を見よ。明治の人文科学は、果してその凡ての方面に於て、完全に発達しつつありや。著者は、之に答えて、直ちに然りと答うる能わざるを憾む。人文科学の範囲は、極めて広大なり。その分科として数え得可きもの、亦た実に少からず。然れども、明治の学界は、その各の学科に関して、少くとも若干の専門的著述を有し、各の分科はまた、其研究に従事する専門の学者を有す。独りわが神話学に関しては、二十世紀の今日に及ぶも、未だ之に関する唯一個の著述だも出でず、専らその研究に従事する、一人の学者も之なきは、決して明治学界の名誉たる所以に非らざるべし。

欧羅巴に於ては、神話学の発生は、古代文献学の研究に負う所頗る多し。歴史は屡ば、同じ事を繰返す。日本に於ても亦た、神話学は同様の経路をとりて、発達す可かりしが如し。顧みれば既に十余年以前、日本古代史の研究甚だしく隆盛を極めし当時に於て、神代史研究の必然の結果として、日本神話の研究も亦たまさに、其萌芽を発せんとしつつありしなり。不幸にして、云うに忍びざる或事件の発生によりて、神代史研究の発達に、一頓挫を来せしより、学者亦た再び神代史に就て議論せざるに至り、惜いかな、神話学は遂に発生するに至らずして止みぬ。欧羅巴の文学の研鑚は、古代並びに中世の文化民族の神話の知識を予想するが故に、かの文学の研究の、次第に我国に於て盛なるに従い、かの神話の知識も亦た、聊か普及せしが如く見ゆるも、実際に於ては、この知識を有するものは、少数の熱心なる研究者に止まり、多数の者は殆んど云うに足らず。かの少数者もまた、唯僅かに、泰西の神話の知識を、有するを得たるのみにして、未だその研究に興味を有するに至らず。学者は唯奇禍の其身に及ばんことをのみ恐れて、祖国の神話に関して、全く顧みることなく、之に対して極めて冷淡の態度を取れり。

此の如きこと、殆んど十年の久しきに及べり。

明治三十二年の春に至りて、故高山樗牛の筆に成れる日本神話に関する、一個の小論文、突如として『中央公論』に出でたり。同じ年の夏、姉崎嘲風『帝国文学』紙上に於て、素盞嗚尊の神話を論じて、併せて樗牛の論文を評す。同じ年の冬、嘲風の論文中の一個の問題に関して、著者の手に成れる、一個の論文同じ雑誌に出で、翌年に至りて、之に対する嘲風の弁駁と、これに対する著者の答弁と、同じ紙上に出でたり。此の如きのみ。一般批評家は、之に対して、甚だ冷淡なりき。其後今日に至るまで、『帝国文学』紙上に於て、引続き公にせられたる、神話学上の種々の問題に関する、著者の手に成れる多くの論文を外にしては、五十個月の間、未だ一人の神話学に関して、議論せしものあるを聞かず。されば、心ある少数の者を外にして、一般読書社会が、今日に於ても尚、神話学の何物たるやを解せず、その性質と職掌とに関して、殆ど何等の概念をも有せざるは、蓋し怪しむに足らざるなり。或人著者に問うて曰く、何が故に神話学を研究するや、何の必要ありて、神話に関して、議論するや、神話学は果して如何なる効用ありやと。著者を目して、神話狂となす者は之あり、著者の論文を掲ぐるの故を以て、『帝国文学』を冷笑する者は、之あり。然れども、神話学の何物たるやを知らんと欲する者は、多からざるなり。

此の如きは、到底堪う可からざるなり。

著者は何が故に、神話学を研究するに至りしや。著者自ら之を知らず。其之を知らざるは、何が故に此世に生れ来りしやを、知らざるが如し。著者は唯、神話学の、著者に取りて甚だ興味ある学科たるを知るのみ。世人は稍もすれば、直ちに必要と云い、効用と云う。これ甚だ愚なり。殊に神話学に関してのみ、かく問うに至りては、更に愚なり。歴史は何の必要ありや、文学は何の必要ありや、天文学、地理学、人類学乃至総ての科学は、果して何の必要ありや。抑もまた、必要とは何ぞ。何の必要ありて、宇宙あり、太陽系あり、地球あり、何の必要ありて、人類は存在するや。苟くも人文の存せん限り、人間に知識慾のあらん限り、科学の研究は止ることなかる可し。一個の科学に向て、直ちに其必要を問うことを止めて、先づ、この科学の研究が、総体の科学に対して、何等の貢献を為し得たるや、また為し得るやを問えよ。苟も慎重なる態度を以て、誠心誠意、祖国の人文に貢献せんとの志あらん者は、決して神話学に対して、かくの如く冷淡なること能わざる可し。決して今日の状態に、満足すること能わざる可し。今日の如き状態は、到底久しく忍ぶ可からざるなり、到底久しく堪う可からざるなり。

之を救うの途、果して如何。

神話学に関する一般普通の知識の普及を図り、世人をして、神話学の何物たるやを了解せしめ、神話学の極めて興味ある人文科学の一たることを知得せしめ、この興味ある人文科学が、総体の人文科学に対して、今日まで、幾何の貢献をなし得たるや、また将来に於て、幾何の貢献を為し得る余地と希望とを有するやを知らしむるは、今日の急務なる可し。著者がこの目的を達する方法の一として、神話学に関する一小冊子を公にせんと志せしは、決して今日にはじまりしに非ず。云う能わざる或事情の為に妨げられて、今日に至りしのみ。今や、久しき間待ちに待ちたる時期到来して、著者の希望を実現するを得るに至る。これ豈独り著者の幸福のみならんや。

今度博文館に於て、『帝国百科全書』の続編一百冊を刊行せんと企てたるに際して、著者に嘱して、神話学に関する一書を草せんことを以てす。依りて、嘗て世に公にしたる数篇の論文と、未だ世に公にせざるものとを集めて、幾度も改竄修正を加え、足らざるを補い、誤れるを正し、更に幾分を増加して、この小冊子となしぬ。紙数限りありて、云わんと欲する所のことを、悉く云う能わず。稿なりて、再読するに際して、自ら意に適わざる点の、少からず存するを発見せしも、時日切迫して、更に稿を新にするの暇なし。遂に意を決して、『比較神話学』と題して、之を公にすることとなしつ。若し足らざるところ、正しからざるところは、更に他日を待って、之を訂正補修せんことを期す。

神話学上論ず可き興味ある問題、何ぞ限あらん。僅々三百五十頁のこの小冊子に於て、到底此等の問題を悉く網羅するを得ず。然れども、その重なるものは、論じて多く遺さざりしを信ず。本書の目的は、既に前に云いし如く、神話学に関する一般普通の知識の普及にあり。祖国の人文に対する大なる貢献の如きは、固よりその期する所に非ず。唯この小冊子によりて、かの目的の幾分にても達するを得ば、独り著者の幸福のみに非ざるなり。今日に於て、著者は敢て多きを望まざるなり。豈敢て多きを望まんや。

熊本に於て明治三十七年十月著者識す

神話学に関して、未だ一個の著書をも有せざる明治の学界に、此冊子を出すに臨みて、

爾の責任は重く、爾の前途は遠し。

爾の先に、未だ爾の行く可き途を行きし者あらず。

焉でか疾く、爾の後に、爾に続く者あるを知らんや。

爾の途は、いと荒れたり。風あらん、波もまた有らん。

さらば吾小冊子よ、幸に健全なれ。

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