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春水やいくつ舟出す三井の僧 水巴
これも近江の琵琶湖を言ったもので、春になって三井の僧が舟遊びをするために或日湖水に舟を浮べた。一艘々々と漕ぎ出て行くところを見ていると、もうおしまいかと思うのにまた一艘漕ぎ出して行った。全体何艘舟を出すつもりなのだろうと言ったのである。三井の僧の盛んな遊びを叙したのである。この句も春水の盛んな光景を捕えたものである。
競漕の旗ひたりけり春の水 景水
これは隅田川のボートレースを叙したものであろう。春の水の上に何艘かのボートが殆んど沈むかと思うように舳を水に突込んで、速力を競って漕いでおる、その一つ一つのボートに在る旗が、いろいろ違った色をしているのであるが、そのうちの一艘のボートの旗は、水の中にひたっているというのである。その旗の水にひたっているところを見つけたところに、春水に親しみあこがれるような作者の心持は現われておるのである。これらは春水に対する作者のなつかしみというようなものが、主な背景を為しておるのである。
地震つて春の沢水溢れけり 青々
地震のために急に水が吹き出したり、また水が涸れたりすることは随分よくあることであるが、しかしこの春水は必ずしもその地震が原因というわけでもあるまい。折節地震がゆった、その地震もそう烈しい地震ではなかった、野沢の水は春になって一面に充ち溢れているというのである。こう考えると、地震もまた景色の一つを為すのみで、春の野沢の水の溢れ充ちてある光景に、更に一つの景色を添えたことになるのである。即ち畏るべき地震もまた豊かな春の野の一点景物となるのである。水巴の句以下は現代の句である。これを以て見ても、今日の句は必ずしも天明時代の句に劣っていないことが判るのである。
下ろし置く笈に地震る夏野かな 蕪村
この句も地震を咏じたものである。或修行者のようなものが、笈を負うて夏野を歩きつつあったのが、其処に笈を下ろして休んでいると、その時地震がゆったというのである。笈に地震るとあるから、その笈が地震のために少し動くのも目に映ったのであろう。この地震も恐らく大きな強震ではなく、ああ地震がゆると言ううちにその笈も少し動くのが見えると言ったような光景であろう。草木なども茂って勢力のうちに籠っているような心持のする夏野が、僅に地震によって力を上部に現わしたような感じがするのである。その点から言ってもこれが大きな地震であると、かえって夏野の大きなゆったりした感じを殺ぐのである。体も大きいし容貌も魁偉で声音も多いという人が、別に大きな声も出さず、僅に微笑をしたところに、かえって偉大な感じを起すのと同様である。
行々てこゝに行々夏野かな 蕪村
これも夏野の大景を言ったもので、何処まで行っても広々とした原野で、なかなか果てしがないことを言ったのである。行って行ってまた行って行って、現在もまだ歩きつつあるのであるが、やはり夏野を越し切らないというのである。「ゆき/\てこゝにゆきゆく」というような畳句が一層その果てしなき夏野の力を強めているのである。前に調子のことをちょっと言ったことがあったが、この句の如きは調子によって趣きを助けている一例と言っていいのである。
たえず人憩ふ夏野の石一つ 子規
これも夏野の広々とした感じである。夏野の中に道があって、その道のほとりに一つの石がある。その石は丁度適当な場処に在って、適当な形をしているために其処を通る旅人はよく休む。一人の旅人が休んで立去ったと思うと、もう其処に他の旅人が休んでおる。――時としては二人も三人もやすんでおることがあるかも知れぬ――何にしてもその石の上に旅人の絶えたことがないというのである。夏野の道を旅人の小止みなく通っていることも聯想さるれば、その石を唯一の休み場処とする夏野の広々とした光景も覗われる。この句もまたこの切字のないような一直線な叙法が、旅人のいつも絶えずに其処に休んでいることを聯想さすに十分の力を持っているのである。この句の作られた時から今日までもまだその野中の石には、いつも入り交り立ち交り旅人は休んでいるような心持がするのである。
夏野尽きて道山に入る人力車 子規
夏野を人力車で越していると、随分長い夏野の路ではあったけれども、漸くもう野を越えてしまって、それから道がまた山に入るようになった、人力車はやはりその山路を通るべく其処へ引き入った、というのである。これらは夏野を正面から描かず、広い夏野は遠景の方にぼかしてしまって、目前の景色はその夏野の果になって、これから山路にかかろうという所に、一人の旅人を乗せた人力車を描き出したのであった。人力車が夏野を過ぎて山路にかかるところに、よく旅で出会わす情景が浮び出るのである。この句は夏野を正面に描いていないにかかわらず、やはり夏野の広大な感じは想像されるものである。
実方の長櫃通る夏野かな 蕪村
蕪村は夏野というような大景を句にすることにおいては、たしかに儕輩に卓越しておった。太祇や几董などにはこの種の題の句は余り沢山なく、あってもそれほど自由でないが蕪村は自由である。ここらが蕪村の大家たるところであろう。そこで今一句蕪村の夏野の句を解釈して他に移ろう。この句は実方中将が、宮中で物争いをしたために「歌枕見て来れ」というような勅諚の下に東北の方に追いやられ、仙台近くの笠島という処まで行って、落馬したのがもとで死んだというその憐れな故事を材料にしたもので、とにかく公卿の旅行の事であるから、その旅荷物として長櫃位はあったろう、その長櫃が、とぼとぼと実方の夏野を歩いて行くあとについてやはり夏野をかくれて行くというのである。前きの『隅田川』の狂女の句と同じように、こういう歴史的の句を作るという事もまた作者の一技倆ではあるが、しかし下手にやると見られぬものになってしまう。先ず蕪村などは比較的上出来の方と言ってよかろう。
笠島やいづこ五月のぬかり道 芭蕉
この句は『奥の細道』中に在る句で、次のような文章がある。「奥州名取の郡に入りて中将実方の塚はいづくにやと尋ね侍れば、道より一里半ばかり左の方笠島といふ処にありと教ふ。降り続きたる五月雨いとわりなく打過ぐるに。」即ちこの文章にある通り、旅行のついでに芭蕉はこのあわれなる歌人のあとを弔おうと思ったけれども、何分五月雨が降りしきって不本意ながらも行けなかったのである。さて句意は、笠島は何処ら辺であろう、その方向を見渡して見ると唯五月雨のぬかり道が見えるばかりであるというのである。実方中将の句にはなお次の一句がある。
実方中将の墓にて君が墓筍のびて二三間 子規
この句は作者が「はて知らずの記」と題する紀行文をものした奥羽行脚の時の句である。同じく夏ではあったけれども、芭蕉と反対に親しく笠島に実方中将の墓を弔うて触目した光景をそのまま言ったのである。実方中将に向っていうような心持で、君の墓には二、三間にも延びた筍が突立っておるというのである。「はて知らずの記」にはこの句は載っていない。あとで作ったものか、あるいは収録するに足らぬ句として入れなかったものか、いずれかであろう。「はて知らずの記」の文章をここに引用して置くことは無用の事でもあるまい。
巡査一人草鞋にて後より追附かれたり。中将の墓はと尋ぬれば我れに跟きて来よといふ。道々いたはられながら珍らしき話など聞けば病苦も忘れ、一里余の道はかどりて其笠島の仮住居にしばし憩ふ。地図を開きて道程細かに教へらる。いと親切の人なり。野径四、五町を過ぎ岡の上杉暗く生ひこめたる中に一古社あり。名に高き笠島の道祖社なり。京都六条道祖神の女の商人に通じて終にこゝに身まかりたりとかや。口碑固より定かならず。
われは唯旅すゞしかれと祈るなり
杉の中道横に曲りて薬師の堂を下れば、実方の中将馬より落ち給ひし処大方こゝらなるべし。中将は一条天皇の御時の歌人なり。ある時御前にて行成卿の冠を打ち落しゝより逆鱗にふれ、それとなく奥羽の歌枕見て来よと勅を蒙り、処々の名所を探りて此処にかゝり給ひし時、社頭なれば下馬あるべきよし土人の申しゝに、扨は何の御社にやと問ひ給ふ。土人しか/″\の旨答へしかば、そは淫祠なり馬下るべきにも非ずとて阪を上り給ひしに、如何はしたまひけん馬より落ちて奥州の辺土にあへなく身を終り給ふとぞ聞えし。田畦数町を隔てゝ塩手村の山陰に墓所あり。村の童にしるべせられて行けば、竹藪の中に柵もてめぐらしたる一坪許りの地あれど、石碑の残欠だに見えず。唯一本の筍誤って柵の中に生ひ出でたるが丈高く空を突きたるも、中々に心ある様なり。其側に西行の歌を刻みたる碑あり。枯野の薄かたみにぞ見ると詠みしはこゝなりとぞ。ひたすらに哀れに覚えければ我行脚の行末を祈りて、
旅衣ひとへに我を護りたまへ
塚の入口のかなたに囲はれたる薄あり。やう/\一尺許り生ひたるものから、かたみの芒とはこれなるべし。云々。
この筍の句がいかなる光景を読んだものであるかという事は、この文章と照し合わして見ると一層よく判るのである。芭蕉の句が五月雨の句であったのを縁にして、元禄以来の五月雨の句を少し評釈して見よう。
五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
これもやはり『奥の細道』に在る句で、折節五月雨の降る頃であったので、最上川の水勢を増してもの凄い勢で流れているのを咏じたのである。降り続く五月雨のために水嵩の増しているのを「五月雨をあつめて早し」と言ったのである。広い国原に降る五月雨をこの最上川だけに集めているような感じがするところに、この句の強味があるのである。
五月雨の雲吹きおとせ大井川 芭蕉
これも大河と五月雨との配合であるが、大井川は人も知るように昔東海道でよく川止めなどのあった難所の一つ。その大井川に芭蕉が行った時に、あたかも大変な出水で、いつ五月雨が晴れそうにも見えぬので、どうか晴れてくれればいいと祈る心から、五月雨を降らすその雲を大井川の中へ吹き落としてしまえと言ったのである。そうすれば空が晴れて、雨も止み自然この出水もなくなるであろうというこころである。以上二句は芭蕉の五月雨の句としてよく壮大な句の例に引合いに出されるのである。
五月雨に家ふり捨てゝなめくじり 凡兆
これは五月雨の大景というよりは、むしろ小景を見出したのである。五月雨の降る中をなめくじりがよく出歩いているのは人の見る通りである。木の幹などはいうに及ばず窓の縁や縁側や時としては鴨居までにおる、なめくじりは雨を喜ぶあまりに自分の栖家もふりすてて高歩きをしておるというのである。この句の場合は右の家の中などにいる場合ではなく、竿の先とか竹垣とか、その他雨の降り灌ぎつつある中を出歩いている場合であろう。
髪剃や一夜に錆て五月雨 凡兆
五月雨の降る頃は凡てものが錆びやすい。砥ぎすました剃刀が一夜の間に錆びてしまったというのである。これも五月雨の大景を見出したのではなく、小さい或事実をつかまえて来たのである。けれどもこの句も前の句もその小さい事実を通して五月雨の降り続いている湿っぽい天気が十分に想像が出来る。
馬士の謂次第なりさつき雨 史邦
これは五月雨の降る中を歩いていた旅人が、終に道の悪いのに堪えかねて馬に乗った場合の句である。こちらの足許を見すかされているのであるから、万事馬方の言いなり次第で、賃はもとよりの事、急ぐ旅であっても何処かの茶店で暫く休むといえば、それも聞入れねばならず、その他万事客でありながら少しも頭が上らぬのを言ったのである。雨中の困難というような事がこの句の背景となっているのである。
縫物や著もせでよごす五月雨 羽紅
羽紅というのは凡兆の妻だという説がある。尼羽紅とあるところから見てもとにかく女には相違ない、この句も女らしい句である。縫物をどういう風にした場合かという事はこれだけでは判らぬが、あるいは風呂敷にくるんで雨中持って歩いておるような場合でもあろうか。何にせよまだ著物として手を通しもしないのに五月雨のためよごしたというのである。五月雨のために天も地も家の中も湿っぽくなってしまったような心持で、新らしいと言ってもまだ著物にも仕上らない縫物にまで泥をつけた、といって嘆息するのである。以上は皆元禄の五月雨の句である。