客観写生(客観写生―主観―客観描写)
私は敢て客観写生ということを言う。それは、俳句は客観に重きをおかねばならぬからである。
俳句はどこまでも客観写生の技倆を磨く必要がある。
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その客観写生ということに努めて居ると、その客観描写を透して主観が浸透して出て来る。作者の主観は隠そうとしても隠すことが出来ないのであって客観写生の技倆が進むにつれて主観が頭を擡げて来る。
客観写生に熟練して来ると、知らず識らず作者の個性が隠そうとしても隠すことが出来なくなり、その鋭鋒が客観描写という袋を突いて出て来る。
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修行の道程としてはまず客観写生に基礎を置いて、そこからだんだんと進んで行って、遂に作者の主観をそのうちから汲みとることが出来るようなものに到達するのである。
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今日われわれ仲間の句であって主観の濃厚に出ている句であっても、なおそれは客観描写の基礎に立っているいわゆる客観写生の修行の出来た上の句であることを看取せねばならぬ。
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客観写生という事を志して俳句を作って行くという事は、俳句修業の第一歩として是非とも履まねばならぬ順序である。
客観写生という事は花なり鳥なりを向うに置いてそれを写し取る事である。自分の心とはあまり関係がないのであって、その花の咲いている時のもようとか形とか色とか、そういうものから来るところのものを捉えてそれを諷う事である。だから殆ど心には関係がなく、花や鳥を向うに置いてそれを写し取るというだけの事である。
しかしだんだんとそういう事を繰返してやっておるうちに、その花や鳥と自分の心とが親しくなって来て、その花や鳥が心の中に溶け込んで来て、心が動くがままにその花や鳥も動き、心の感ずるままにその花や鳥も感ずるというようになる。花や鳥の色が濃くなったり、薄くなったり、また確かに写ったり、にじんで写ったり、濃淡陰影凡て自由になって来る。そうなって来るとその色や形を写すのではあるけれども、同時にその作者の心持を写すことになる。
自分の心持を諷う場合にも花鳥は自由になる。
それが更に一歩進めばまた客観描写に戻る。花や鳥を描くのだけれども、それは花や鳥を描くのでなくて作者自身を描くのである。
俳句は客観写生に始まり、中頃は主観との交錯が色々あって、それからまた終いには客観描写に戻るという順序を履むのである。
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こう言ったばかりでは、はっきりわからないかも知れんが、絵に例をとってみる事にしよう。絵も始めはその対象物を向うに置いて形なり色なりを研究するに始まって、その形や色が出せるに従って自然々々にその対象物と作者との距離が近くなって来て、自分の心に感ずるような形や色が自由に描けるようになって来る。一つのモデルであっても十人が十人描いたものは皆違っておって、自然にその人が、即ち作者自身が、その上に現れて来る。たとえて言えば、その対象物が真直ぐに写されているものもあるし、いびつに写されているものもあるし、柔かい線で描かれているものもあるし、強い線で描かれているものもある、少し暗いものもあるし、少し光っているものもある。そういうのは対象物を向うに置いて写す間に、自然々々にそれが作者に近づいて来て、対象物を写すのではあるが同時に作者を写すことになるのである。それがいよいよ進んで来ると、如何にもその作者でなければ描けないというものになって来て、純粋な客観写生の作品であるけれどもその中に作者の人格が現れているというようになって来る。こうなって来ると主観の影が内に沈潜してまた客観写生の様相を備えて来るのである。主観を喜ぶ時代は必ずあるものである。がその主観の時代を経過すると、また何時か客観に戻って来る。
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俳句は宿命として絵画と甚だ似通ったものである。絵画が色や線で形を現すと同じく、俳句は文字を以て景色や事件を現すのである。
しかしながら絵画は形態を描くばかりでなく、その描くところの形や色を透して、作者の好み、感じ、匂い、こころを描くのである。同じ林檎一個でもこれを描く人によって違うのである。その人というものは隠すことは出来ない。それと同じく、俳句も描くところの人によって読者の受ける感じは違う。これは即ち形を描くのみでなく、その作者自身を描くことになるのである。
隠そうとしても隠すことの出来ないところのものである。
客観写生といっても決して客観写生に終るものではない。
客観写生というのは写生の技を磨くものである。客観写生の技を磨くことはやがてその作者そのものを充分に描き得ることになるのである。
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決してそれは大きな事実でなければならぬということはない。
勿論大きな事実が描かれておるために、大きな感銘を得るということはあるのであるが、如何に微細な平俗な事実であってもそれを透して大きな作者の主観がぬっと頭を出しておる、というような俳句であれば結構なのである。だからして必ずしも大きなものにたのむことは要らん。その事柄は平俗なことであっても、そのうちにひそむ主観が大きければそれでよいのである。
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その小さいことを透して大きな主観が泌み出るということは、作家の技倆に依る。作者が一句を仕上げる上の多年の修練、その人の天才、ひらめき、つまりその句が玉成されているか、あるいは瓦礫に終っているかによって極まるのである。
言葉の複雑ということも、場合によっては効果的であるが、しかし多くの場合は言葉の単純ということが大事なことである。省略に省略を重ねて一塵をとどめないところに到ることが極意である。即ち、なるべく単純に、その句から受ける表面的な事実は少しも心を労せずして流れる如く心に受取って、その下から起り来たる作者の主観が読者の心に響き渡る、というようにありたいものである。
不可解難渋であっては、その事に読者の心が労されて、作者の主観を受取ることが出来ぬ。
俳句を作ることの年の浅い人は得てこういう弊におちいる。
年の浅い人は平易な句はもの足りなく思う、その奥にひそむ主観を解し得ないからである。それらの人もだんだん修練を積んでくればおのずからそれがわかって来るのである。
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中には自分の感じを諷おうとして手っとり早く作者の主観を述べた句、若しくは作者の主観に依って事実をこしらえ上げた句等は、私等から見ると外道である。
思いをひそめ考えをめぐらし、苦心惨澹するのは勿論そうあるべきである、がしかしこれを現す時にはこれを客観写生の上に立って、自然に、円滑に、その感懐を運ぶに足る事実の描写をすべきである。
感懐はどこまでも深く、どこまでも複雑であってよいのだが、それを現す事実はなるべく単純な、平明なものがよい。これが客観描写の極意である。
主観の匂い、主観の光り、というものはその単純な平明な描写の中から出て来るのである。
その単純に似たる客観の描写のうちに図らずも作者の深い複雑な主観を捉え得たときは、読者はそれから深い感銘を得るのである。読者はその単純に似た事実の描写のうちから大きな作者の主観を感得するのである。
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今日世間で評判されるものは主観の暴露されているものである。そうでないと一般に分らないのである。
私は最もそれを忌む。
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描写は茫洋として大海の如きものであれ。そのうちから遠く深く主観の光を認めよ。
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ゴツゴツと主観の壁にぶつかる如き作品は私は嫌いだ。(『玉藻』、二七、一)