花鳥諷詠
俳句でない他の文芸に携わって居るものが「花鳥諷詠」を攻撃するなれば聞えるが、俳句を作っている者が「花鳥諷詠」を攻撃するということはおかしい。
俳句は季題が生命である。尠くとも生命のなかばは季題である。
されば私は俳句は花鳥(季題)諷詠の文学であるというのである。
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一時俳句にも季題は不必要だ、なくってもいいという説もあった。今でも少数の人はそう言って居る、が、それでは俳句というものの特色がなくなって来る。俳句だと強いて主張するのがおかしくなって来る。自然その説は有力であり得ない。
季題というものにこだわっているのはばかな話である、文芸は人の心を詠うもの(詩は志なり、という言葉があるように)である以上、何も季題に束縛される必要はないではないか、という議論は、詩論としては正しい。が、俳句論としては成り立たない。季題というものを除いては俳句はあり得ない、それは俳句ではないただの詩となる。詩としては成り立つが俳句としては成り立たない。
が、それらの人はなおこれを俳句と称えたがって居るようである。それは詩として存在が薄弱であるから、俳句という母屋を借りてその軒下に住まおうというのである。それは弱い。弱い人のする事だ。
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生活派とか人間派とかいわれている人はなぜ自分の志を詠おうとする場合に俳句を選むのであるか。それを私は不思議に思う。十七字という型に離れられない因縁があってそれで何処までも十七字の俳句に拠るのであろうか、恐らくそうであろう。
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それはそれでよいとして、なぜ季題というものが付き纏うている俳句を選むのであろうか。
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俳句は季題(花鳥)というものを切り離すことの出来ない文芸である。
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生活派人生派、というような人が、その志を詠おうとするのに季題が必要なのであろうか。私の考えでは季題はむしろ邪魔になるのではなかろうか。たまたま季題が役に立つ場合があるかも知れないがそれは極く少い。季題に頓着なく詠う方が深刻でかつ自由であろうと思う。
人生を詠う詩として季題が必要なのであろうか。つき詰めた人生を詠う場合に季題が必要なのであろうか。
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俳句は自然(花鳥)を詠い、また、自然(花鳥)を透して生活を詠い人生を詠い、また、自然(花鳥)に依って志を詠う文芸である。私はそう考えて居る。
俳句は生活を詠い人生を詠う文芸としては、そうつき詰めたせっぱ詰まった(他の或文芸が志しているような)ことは詠おうとしても詠えない。それはなぜかと言えば季題があるからである。たまには詠える場合もあるが総じて季題があるから詠えないという場合が多い。
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総じて自然現象(花鳥)はわれわれの生活にゆとりを与える。これは否めない事実だ。それで苦しい極み、貧しい極み、生活を否定しようとするような場合、世の中に絶望したような場合、深刻な悲痛な情緒を愬えようとする場合にでも、天然現象(花鳥)に心を留めると忽ちゆとりが出来る。尠くとも諷詠しようとする人の心にはゆとりが出来る。
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俳句は激越な文学ではない。それは先天的に極まった性質である。それは季題というものがあるからである。
よくそこを考えねばならぬ。先天的にきまった性質は変えようと思っても変えることは出来ない。
俳句はその先天的性質に適した文芸であるべきである。
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自然(花鳥)と共にある人生、四時の運行(季題)と共にある人生、ゆとりのある人生、せっぱ詰らぬ人生、悠々たる人生、それらを詠うのに適したのが我が俳句の使命であると思う。
花鳥(自然)諷詠という事は俳句それ自身の謂である。
これは俳句未生以前本来の面目である。
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いわゆる生活派人生派と称える人の俳句をよんで見ても、格別刺戟を受くるものはない。これは季題を用いているため、勢いそうならざるを得ないのである。
季題の拘束のない他の文芸に赴けばよい。
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季題と素材と感情とが別々になって何の事か解し難いものがある。
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なかには調子もととのうたものもある。それはとりもなおさず花鳥諷詠詩になっている。(『玉藻』、二七、二)