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砂がき
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砂がき
竹久夢二
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Original Public Domain
Chapter 8 of 9

8

MEMOより

街に住む人々に、時候のかはりめをいちはやく知らせるものは街樹である。私の部屋の窓から見える鈴掛の葉は、毎朝毎に秋が過ぎて冬の早く來たことを知らせる。慌しい生活のひまにこの年も過ぎてゆく。今日も鈴掛の木は道ゆく人に黄色な葉を投げてゐる。

私が子供の頃には海老茶色が流行つた。シヨールなど今のやうではなくロシヤの女がしてゐるやうな大きなのであつた。髮もこの頃のやうな形のわるい束髮でなくずつと前髮をつめた、根の下つた品の好い形をしてゐた。半襟は江戸紫のビロードなど多かつたやうにおもふ。圖按のまづい半襟より無地の方がどんなに好いかわからない。

成裝した少女よりは、さつぱりした常着の少女の方が氣持が好いのは、心の上にも姿の上にも調子がとれてゐるからであらう。たいへん立派な着物をきて反つて品の下つた卑しい感じのする少女がある。服裝がどんなにその人の心持を支配する力を持つかといふことを感じる。またその人の性格がどんなに服裝の趣好のうちに表はれるかといふことも感じる。平和に暮してゆく人はやはり調子のとれた生活をした人であるやうに、調子のとれた服裝をした人は氣持の好いものです。黒い髮の持主が色白く、赤い髮の持主が桃色の面をしてゐることも自然の巧みである。赤い髮の少女が深い紅色の花をさした美しさを見たことがある。形のうへばかりではない、心持のうへにも調子のとれた生活をしたい。これはあなたがたにいふのではない、私自身に言ふのである。

しかし調子の好い人間といふのではない。あまり調子の好いのはたのもしいものではない。私等はあまりたやすくYesやNoを言つてゐるやうにおもふ。心持の調子とれた人は、あらゆる問ひに直に答へられる筈はないとおもふ。太陽は必ずしも赤くはない。霧の多い春先の太陽は青磁の花瓶より青い。よく澄んだ夏の富士川の流よりも、冬の黄色い隅田川の水の美しく見えることさへある。昔から美しいと思はれたものを直に美しいと考へることは間違つてゐる。

王春今昔

春に隣りする心持など、もういつか實感に遠いものになつてゐる。たゞ、年の暮れてゆく姿ばかりが眼につく。

いつもながら、場末の唐物屋にメリヤスの肌着が積まれ、大賣出しの立札がたてられ、三等郵便局の貯金口に人垣が作られ、南京豆の空袋が、風にふかれて露地を走る風景の中では、街角に傾いたまゝ突立つた瓦斯燈よりも、人間は慌しいと思ふことだ。

もしそれ、新開地の洋食店のバルコンで廣告樂隊の奏する「煙も見えず」のマーチでも、うつかり聞されたら、今でさへとんでもない涙を流さうも知れぬ。

といふのは、まだ家を持つたばかりの年の暮れに、その頃W大學の政治科にゐたNが來合せて、細君が鏡臺の引出しへしまつておいた正月餅の料を見付けて、どこかの斜めの細道で、「破門さん」と呼びかけられたのを、けつく好いしほにして、あくる日のまつ晝間、王道坦々と歸つてくると、家の近所の新開の洋食屋のバルコンで、件の「煙も見えず」の音樂だ。氣がとがめて、懐手で、政治科と二人で、空腹でものが哀れで、子供に交つて、ぼんやり樂隊を眺めてゐると、師走の二十九日のことだから、赤い手柄をかけた艶々の丸髷の女が、折も折、にこやかに近づいて來るのだ。それが細君で、讓葉と小松を一本、心ばかり淋しく提げた風情を今も忘れない。

依然、その日暮しの破門さんは、シルクハツトを被つて伺候する光榮も持たない代りに、年始の禮を缺ぐ謂れもない。だから東京の新年の記憶と言へば、街ががらんとして、大禮服を着た兵隊が晴がましく歩いてゆくのを思出すくらゐなものだ。昔下宿屋の二階でよんだ、紅葉や一葉の作物の中にある東京の春の抒景は、もう古典になつたほど、今の東京の新年は、商取引と年期事務としてあるに過ぎないと、思はるる。

富士山の見える四日市場に、紀州の蜜柑船がつくのさへもう見られまい。

生れた國の方では、年の暮になると、母親の里から、姉の嫁入先から、男の子のために破魔弓を贈られるのを樂んだものだ。あゝいふ素朴なペザントアートがまだ田舍には殘つてゐるであらうか。今の子供達もあゝいふ心持で正月を待つてゐるであらうか。奥の座敷の炬燵へもぐつて、皮のすこし苦酸い雲州蜜柑を食べながら、酒倉の方で、もとをかく杜氏の唄を聞きながら、暦をまく老人の心境とはまた異つた心で、もういくつ寢たらと指を折つたものであつた。姉の嫁かぬ前には播州室津からきてゐた師匠が、いつも炬燵の女王で、「やしよめ、やしよめ、京の町のやしよめ」を唄つたものだ。

ある年、祇園の蒼求詣に、一家女中まで引連れて、蒼求の火を持つたまゝ、終夜運轉の京阪電車が嬉しさに、道頓堀のおそい茶屋で年越そばを祝つて、住吉へお詣りすると、ほのぼのと夜が明けはなれ、太鼓橋の上で初日出を拜んだ。ほがらかな心持でとうとう和歌浦までいつてしまつた。三ヶ日の雜煮もそこで祝つて、

「正月にはどうも生れた土地の米が食べたい」そんな事で、大阪から女中だけ京へ歸して、岡山まで、正月の餅を食べにいつたものだ。親も兄弟もそこにゐるのではなかつたが、心豐かな友達がゐて、その山莊へ私達を迎へて、匂のなつかしい備前米を食べさせてくれた。それから病みついて(それが原因でといふ意味ではない)有馬の湯に二週間ばかり、京へたどりついたのは、二月の下旬でもあつたらうか。

「それまで蒼求の火を消さないで持つて歩いたといふお話でせうね」とこの話をきいた友達がある時言つたが、蒼求の火はもとより、その時の道伴れであつた家刀自はもはやない。

「年の名殘りも心細けれ、亡き人の來る夜とて魂まつるこそ、あはれなりしか」とあるものの本を思出すのである。

附記。蒼求の火といふのは、祇園社に大晦日の宵から元朝寅の刻へかけて行ふ削掛の神事に、一切の凶惡を除祓ふために、この削掛の火を參詣の人が蒼求(不祥を除く草にて火繩のごとく作りたるもの)に移して、その火を消さぬやうに持つて皈つて、元朝の羮を炊ぐ。そして火を一年中絶さないやうにすると幸福があると言はれてゐる。

ある眼

「あんな娘をどこが好いんだ、と訊かれると、さあ、ちよつと一口に言へないが」さう云つて、畫家のAは話し出した。

彼女はただ普通のモデル娘として、私の畫室に通つてきてゐたのです。私も特別、彼女に注意を拂つてもゐませんでした。それほど、彼女は、ただの娘でした。年は十七八だつたでせうか、身體が大きいからと言つて、そのころ肩揚をおろしてゐました。

彼女は、見たところそんな風で、人物にも性情にも特長のない娘でしたが、人から何か話しかけられたり、訊かれると返事のかはりに「まあ」と言つて、少し笑つた眼で相手を見返す癖がありました。

その眼は、たいしてコケテイツシユなものではなかつたが、やはり年頃の娘ですから、黒く濡れてゐて、その眼が一種間のぬけた好もしい感じを與へました。

そしてこの「まあ」といふ返事が、イエスでもノーでもないやうな、それでゐて、相手の言ふことをすつかり呑込んで、上手に受流したやうにも見えるのでした。だからある時などは、とても聰明な才女にさへ見えるのでした。さうかと思ふと、とてもとんちんかんな「まあ」であることもありました。

私の製作は二週間の豫定でした。なんでも最初の一週間が過ぎた日曜だつたと思ひます。私は、繪の具の買ひ足しにいつて、外から歸つてくると、そのモデルはこちらへ横顏を見せて、出窓のところへぢつと坐つてゐるんです。

よく電車の中などで、人に見られてゐることを少しも意識してゐないやうに見える女性の、自由な開放せられた美しさや、また反對に、女性が持つてゐる肉體的な無意識の嫌惡や謙讓や羞恥が反つて、肉感的な吸引力になつてゐることを、屡々見かけます。

また人が誰にも見られないで、たつた一人で何かしてゐるのを覗き見ることに惡魔的な喜びを感じることがあります。ことにそれが女性である場合、眠つてゐない限り、何等かの不思議な美しさを見せてくれるものです。丁度そんな機會だつたのです。

私は庭の方から窓の下へ歩みよつて、ガラス戸の外からモデル娘を覗いて見ました。娘は一生懸命に前髮の毛を指で引張つてゐるんです。それをどうするつもりなのか見てゐると、その髮の毛を鼻の上まで持つてきてそれを眼で見てゐるんです。自然兩方の眸がまん中へ寄つて、仁木彈正が忍びの術を使つてゐる時の、その眼をしてゐるんです。

私はあぶなく笑ひ出しさうになつたが、すぐに、何か不思議なものに打たれて、眞劍な心持ちになつてきました。

それはその眼のためではありません。自然のポーズでもありません。私は默つて見てゐられなくなつて、窓の外から「お光ちやん」と呼びかけました。その娘は、お光といふ名でした。

お光は、びつくりして振り返つて、親愛の心持をみんなその眼に集めたやうな眼ざしで私の方を見ながら立上りました。そして例の「まあ」を言つたものです。

あの、ちらと影をさして、すぐ消えていつた瞬間の美しさは、その二週間に、こつこつと描きあげた作品の中には、たうとう捕へることが出來ませんでした。

市朝雜記

1

冬は紀州から蜜柑を積み、夏は團扇、扇子など商ふ紀友といふ老舖が日本橋七日市にある。

地震の際、主人何より先きに出入の職人の所へ樣子を身に往つた。着のみ着のまゝ避難してゐた職人を見て、まづ道具はと訊ねると

「如才はございません」と懐からバレンと刷毛を取出して見せたといふ。紀友主人の感じていふ。さすが名人は違つてゐます、と。これが下職の名もない奴だとどさくさと逃げ後れたり、どちをふんできつと死んでゐるといふ。

そんな職人を抱へてゐる紀友の主人も、さすが名人だとおもふ。

聞く所によると、バレンなどといふものは、竹の皮のある時節のを採つてきて、たんねんに、纎をぬいて、それをより合せて長い綱にしてそれをぐる/\卷きこんで作るもので、とても手數と精進のいるものださうだ。そしてその刷る繪の線により面によつて、バレンの作り方も違つてゐるのださうだ。寫樂の不思議な鼻の線と、歌麿の脛のしなやかな線と、廣重の空の面を刷るバレンも手も違つてゐたのであらう。

刷色もまた、毛が切れて毛の尖端が割れてくるまで使ひこなしたのでないと、使へないものださうだ。

2

これも榛原の主人の話だが、小間紙をたつ職人がやはり地震の時、牛めし屋になつてゐるので、就いてきくと、たち庖丁を燒いたので、その邊の出來合では間にあはず、堺までいつて自分で自分の腕に合ふのを買ひにゆく旅費はなし、身に染みない仕事をするより、いつそ牛めし屋の方が氣樂ですからと、言つたと言ふ。この職人の自信もまたうれしいと思ふ。

3

ある學校の教師の話に

「ある學科を教へるに一時間では短いとおもふ。生徒も教師もその學科にやつと入つてこれからいう所で、ベルが鳴る。あれで一日に數時間、責任のない教授をしたつて、生徒は徒らに頭を掻亂するに過ぎないし、教師はただ申譯の時間を過すだけです」と。この話もおもしろいと思ふ。

4

間にあわせの文化生活、文化建築、バラツク文明、活動寫眞のセツトのやうな都市、そして活動のフヰルムのやうな生活者達。

5

かりの住居に植ゑた業平竹が今年の春は、もう欝然とした藪の趣きを持つてきた。たま/\古い落葉をかいてゐると、素足の足の裏をさすものが至る所にある。四月十六日。それは筍だ。去年の竹の秋に植ゑたのも、一昨年二三本植ゑたのも、一齊に今年は筍を出してゐる。その根はもう三尺四尺の長さにまで地中にはびこつてゐる。その忍び忍んだ營みの嬉しさ。

筍のすい/\と初夏の空へのびてゆく、生一本なそして澄み切つた美しさ。竹の葉の、鋭くてもすすどくない、微風にもなびくが、しかし弱くない。枯淡でも偏らない趣き。また朝の日に冴え返つた竹の影の、寂びながら、淋しくない美しさは、一年生の西洋草花の持たない深い美しさだ。

6

東洋の藝術は天のもの、西洋の藝術は地上のものだと、誰だつたか西洋人の言つたことだが。この言葉が語る意味や心持も、さう言つた西洋人の理解と、それを肯定する日本人の心持には違つたものがあるのであらう。

Chapter 8 of 9
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