Chapter 1 of 14

はしがき

「その時わたくしは、下町のフォーゲル街で父の遺した家に母と暮していましたが、四月初め頃のある朝、……まだ日陰には雪が残って、その中から……ミルザの花が咲いていましたから、三月末頃だったかも、知れません。ある朝事務所の前に、すばらしいイスパノスイザの高級車が停まって、頬髭いかめしい年輩の執事が訪れて来ました。中央公園のドラーゲ公爵家から来たものだが、お願いしたいことがあって、大奥様がお待ちになっていらっしゃるから、すぐ御足労願われまいかという、口上だったのです」

とイングリード・アイネス嬢は、話し出した。……というところから書き出すと、簡単なのだが、それでは何のことやら読者には、わからない。そこで、イングリード・アイネス嬢とは、いかなる婦人ぞや! ということを、初めに申し上げておくことにしよう。

今から三十年ばかり前、一九二四、五年代に、聖林で一代の天才とうたわれた、アスタ・ニールゼンという名女優を、読者は御記憶であろうか? この女優は独逸の生まれであるが、その名の示すごとく丁抹の人である。

ニールゼン嬢は殊に、ストリンドベルヒの戯曲、伯爵令嬢ジュリアの役を、得意としたものであるが、初めてアイネス嬢に逢った瞬間、私がそのニールゼン嬢の俤を思い出したと言ったならば、この婦人の持つ美貌、殊に理智的な美しさや、金髪の波うつ生際、幾分憂鬱な眼光は見せながらも、全体に抱きしめてもみたいほど、若さと健康の匂った愛くるしさなぞが、少しは読者にわかってもらえるのではなかろうかと、考える。

これが今、丁抹で持て囃され、ひいては欧州一般にまでも名を轟かせている二十七歳の女探偵であろうか? と、いくたびか私に眼を瞠らせずには措かなかったのであるが……と申し上げたら、これでようくおわかりになったであろう。すなわち嬢は、丁抹切っての有名な婦人探偵なのである。

二年ばかり前、仏蘭西へ行ったついでに、北欧三カ国へも足を延ばして丁抹を訪れ、警視庁から頼まれたこともあって私が同嬢とも、しばしば会談する機会を持った時のことであったが、コペンハーゲン市の山の手ニュールンベルグ街端れの、有名なゲンテフテの森に近い嬢の家へ行くと、応接間の暖炉棚から右側の壁を埋めた、飾り戸棚の中一杯に、政府や個人会社等から贈られた、勲章、賞牌、徽章等が無造作に押し込んである。

中に一つ豪華な、物凄く人目を惹く、金目の置き物があった。十吋幅くらいの部厚な銀台に精巧な頸飾りを彫刻して、ほんものの幾つかの小粒のダイヤが鏤められ頸飾りの輪を結んだ上には、大鷲の掴んだ青銅板の中に、「深甚なる感謝をもって、イングリード・アイネス嬢へ、ドラーゲ公爵家より」と刻まれてある。

「ほう、これはすばらしい、これは素敵だ」

と感嘆して、ためつすがめつ、私は眺めていたが、一体このドラーゲ公爵というのは何ですか? と問うたのに対して、

「年代を、見て下さいな、もうかなり、以前のものですわ」

と何かこの飾り物には、触れるのを好まぬらしい様子であった。年代は一九四八年、私の訪問に先立つさらに、四年ばかり以前のものと思われた。

この物語は、その時根掘り葉掘り、しつこく私が穿くり立てたのに対して、初めは幾分羞恥と躊躇の色を見せていたが、そのうち諦めたのか苦笑しつつ、到頭詳しく話してくれたところを、今私が順序立てて、物語に拵えようとしているものである。と、これだけのことを付け加えさせておいてもらおうか。

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