一
「私がそこへいったのは、ちょうど医学部の三年になったばかりの頃……二十二の時でしたから、今から三年ばかり前……まだ身体が丈夫で、元気一杯の時だったのです」
と壮健だった時分を愛おしむような調子で、病人は語り出した。何度もいうとおり、声が掠れて低く、時々痰が絡んでぜいぜいと苦しそうに喘ぐのであったから、聞いているのも容易ではなかったが、面倒臭いからそういう病気の描写は、一切抜きにしよう。
「出かけていったのは、雲仙です。詳しくいうと、長崎県の南高来郡ということになりますが、別段友達がいたわけでもなければ、用事があったわけでもありません。
雲仙国立公園のパンフレットなぞを見ているうちに、子供の頃から山が好きなものですから、無性とあの辺の山へ登ってみたくなって……ちょうど学校が休み続きなもんですから、一人でブラッと出かけていったのです。……宮部さん、そこに地図がある。ちょっと取って下さい。そう……その次の抽斗に……」
と、看護婦の差し出した参謀本部の十万分の一の地図を、私の前にひろげさせた。
「もう今では、その時の記念は全部処分してしまって、何にも残っていませんが……」
病人にとっては、懐かしい思い出の地図なのであろう、が、使用した後でもしょっちゅう眺めていたと見えて、紙は皺くちゃになって、おまけに手摺れで真っ黒になっていた。
「あの辺には、相当な山が沢山にあります。吾妻山……鳥甲山……国見岳……山へ登っては温泉へ泊り、温泉へ泊っては山へ登って、一週間余りも遊び暮したでしょうか? 最後に高岩山へ登って、あれから戸石川の渓谷に沿って南有馬へ出て、景色のいい千々石湾の海岸をバスに揺られて小浜、諫早へ出て帰るつもりで計画を立てていたのです。
そのために、到頭一生忘れられぬ記憶を、刻み付けられてしまいましたが……塔沢岳、稲荷山……地図に磁石を当て当て、道を南へ取って進みました。あの辺の山は、そう驚くほどの高さではありません。精々四、五百メートルから七、八百メートルくらいです。北アルプスや立山を踏破してきた身には、何でもありませんが、割合に奥行きが深くて、どこまでいっても山脈が尽きないのです。松や杉の木立が、鬱蒼と繁っています。
私が、一番最後に登った高岩山の麓から、三脱という部落を過ぎて南有馬の町は、まっすぐ南へ直線コースで大体、三里半ぐらいと踏みました。そしてやがて畑や水田や、麦畑が見えるはずなのに、いくら歩いてもいくら歩いても、そんなものが出て来るどころではないのです。叢道の両側は、見上げるような山ばかりで、蓊鬱とした杉の木ばかり、聳えています。二時間歩いていても、三時間歩いても、人っ子一人行き逢わない淋しさです。出ているでしょう? 高岩山からちょっと下ったところに……少し左へ寄って、戸石川というところが……」
なるほど、出ている、出ている、内中尾という側に、戸石川というところが……。
「それを私は、道を間違えて、その辺で東南に下るところを、景色のいい回りの山に騙されて西南の方角へ踏み入っていたのです。ですから、どこまでいっても平坦な道へ出ずに、めった深い山の中へ迷い入っていたのです。そして気が付いた時は、磁石もどこかへ落としていました」
私は十万分の一の地図を眺めているが、もうすっかり頭へ入っているのであろう、病人は細かい地名までことごとく宙で諳じているのであった。正確無比な話であった。
「そうして大分南へ下がっても、人っ子一人行き逢わぬ山の道で、ふと気が付いた時は、今から考えれば、……その地図の下の方に出ているでしょう? 笹田というところあたり、だったかも知れません。もうさっきの戸石川という分岐点からは、二、三里ぐらいも過ぎていたろうと思います。
失敗った! と、思いました。しかし、もうこの道を、後戻りするのも面倒ですから、なるべく南へ下らずに、北東へ道を取っていっそのこと小浜の町へ、出てしまおうと考えました。そうすれば、今夜はもう仕方がないから、その辺で野宿をして、明日は朝の七、八時頃には、小浜へ行き着けるに違いないと思ったのです」
と言葉を切って、しばらく休んでいた。
「でも、もうそんな山の中の話なぞは、お厭でしょう? 簡単に、申上げてしまいましょう。その晩は到頭その山の中で、野宿をしてしまいました。元気な時でしたから、碌な仕度もせず、碌な食糧一つ持たずに、平気の平左だったのです。
そして、翌る朝は夜が明けるとスグに、歩き出しました。私の辿っている道は、最短距離のつもりでわざと、山の背伝いの細道を、分けていたのです。そして今朝歩き出してからでも、もう三時間くらいは歩いていましたから、野宿したところからでも三、四里ぐらいは来ていたろうと思います。
やっと、吻っとしました。今頂に立って、大きな赤松の枝の間から眼を放った遥かの端れに、涯しもない海が、真蒼な色を見せているのです。地図にも載っていませんから、ここが何というところかわかりませんが、いよいよ海岸へ出端れて来たのです。南高来郡の西端、千々岩湾の海岸へ、抜けることができたのです。この海岸に沿っていけば、小浜の町へ辿り着けることは、もう間違いありません。
まさか、こんなところで野宿しようとは思いませんから、昨日宿を出る時に拵えてもらった、昼の弁当の残りを詰め込んでいるばかり、疲れてもいますが第一、腹が空き切ってペコペコです。が、いよいよ目指す海岸へ出た喜びに、その辺の百日紅の手頃な枝を切って、洋杖なぞを削りながら足も軽やかに、山を降りていたのです。と、岩躑躅の一杯に咲き乱れた、そこの岩陰を曲った途端に、――もうそこは、山の麓になっていたのです。
突然ウーッ! と、地響きのするような猛烈な唸り声を立てて、小牛ほどもある真っ黒な猛犬に、襲い蒐られました。
「呀っ……コラ!」
とびっくりして、私は、持っている岩躑躅を投げ付けました。敵対すると思ったのでしょう、犬は項の毛を逆立てて、眼を瞋らせて、いよいよ獰猛な唸りを立てて、飛びかかって来ます。まだ私は、こんな恐ろしい犬を見たことがありません。小刀を投げ付け、洋杖で右に払い左に薙いで、必死に禦ぎましたが、犬はヒラリヒラリと躍り越えて、私は顔色を失いました。この時ばかりは、駄目だ! と、観念したのです。と、その途端、
「ペリッ! ペリッや、どうしたの? ペリッ!」
と優しい女の声がして、私の眼の前に、ついそこの岩陰から姿を現したのは、立派な白馬に跨った、洋装の若い女です。
「これ、ペリッ! もうわかったからいいのよ、咆えるんじゃないといったら!」
女主人の制止に、仕方がないと諦めたように、犬はウウッーと喉音を立てながら、後退りして行きました。が、驚破といえばまだ躍り蒐らんばかりの、凄まじい形相です。私はやっと吻っとしましたが、こんなところで、こんな物凄い犬に襲われようとも思わなければ、馬に乗ったこんな綺麗な女に出逢おうなぞとは、夢にも思いません。呆気に奪られて私は洋杖を振り上げたまま、夢に夢見る気持で、女の姿を見上げていたのです。
しかも、見れば見るほど何という、美しい女でしょう。年頃はまだ十七、八、あるいは十八、九くらいかも知れません。ふさふさとした亜麻色の髪が、キラキラと陽に輝いて、紛う方ない混血児です。その髪を両耳掻き上げて、隆い鼻、不思議そうに私を見守っている、透き徹るような碧い眸……真っ白なブラウスに、乳色の乗馬洋袴を着けて、艶々した恰好のいい長靴を、鐙に乗せています。
そして、細い革鞭を持って、娘の方でも思いがけぬところへ現れた私の姿に、びっくりしているのです……手綱を絞られたその馬のまた、逞しく大きくて、立派なこと! まったくこんなところでこういう人に出逢おうとは、夢にも思わぬことでした。昨日から山の中ばかり歩いて、人の姿というものを……いいえ、人の姿どころか! 人家一軒見当らないのです。山を降りて、豁然として視野の開けた今でも、まだその辺見える限りは、ただ小高い丘や野草の咲き乱れた、高原ばかり! 断崖と見えて、もう海は見えませんが、ただ、荒涼として、落莫として、人家一軒眼に入らないのです。その荒涼寂寞たる中へ、突然この犬や人が、現れようとは! 穴のあくほど人の顔を見守っていた後、
「これ、ペリッ」
ともう一度振り返って、また咆えかかった犬を叱り付けました。
「貴方は、どこへいらっしゃるの?」
咎めるようにいった言葉は、立派な日本語です。
「僕は、小浜へ行きたいんです……」
「小浜は、向うよ」
と娘は、グルッと鞭で半円を描いて、指さしました。
「まだ六里もありますわ」
「六里?」
と私は、途方に暮れました。
「じゃ、仕方がありません、どこかこの近所に……食事をさせて、休ませてくれるようなところは、ないでしょうか?」
「食事?」
と、娘はびっくりしたように眼を瞠りました。
「村へ行けば、ないことはありませんけれど……でも、一番近い村だって、三里ぐらいはありますわ」
「三里……? まだ三里も?」
といよいよ私は、途方に暮れました。
「ここは何というところですか?」
「東水の尾……水の尾村の東水の尾というところよ……でも、ここは、わたしの家があるだけよ。村のあるところは、もっとずっと向うですわ」
鞭の指さしているのは、今私の降りて来た躑躅山の、もっとずっと左側の、雑木林の奥の方! ここが一番近くて、それすら三里離れているというのです。そして小浜は、遥か左手の霞んだ、海岸線の北の方! この疲れと饑えの足で、まだ六里では私は落胆しました。もう足が意地にも、進まないのです。が、今来た道をその水の尾という村へ戻る気には、どうしてもなれません。
ここから四里ばかり離れて、小浜の町へ行く途中に、大野木という村があると聞いて、私は歩き出しました。その大野木まで行けば、小浜行きの乗合が出るということですし……仕方がない、草臥れても饑じくても、大野木まで行くほかはないのです。
艾や芒を分けて、私の歩いて行く後方から娘はゆったりゆったりと、馬を打たせて来るのです。まだ時々、胡散臭そうに唸っている犬を制止しているようでしたが、どんなに美しくても、珍しい混血児でも、こんなに落胆した気持の時では、もう何の興味でも好奇心でもありません。夢見心地でぼんやりと私は、肉刺のできた足を引き摺っていましたが、その姿が哀れだったのかも知れません。
「どこからいらしたの?」
と背後から声をかけられました。
「あの山の向うから、来たんです」
と、私は山を指さして、また歩き出しました。しばらく馬の跫音が続いていました。
「じゃ、豊沢の方から……?」
ややあって、また聞こえてきました。
「そんなところ、僕、知りません。僕は雲仙から来たんです。南有馬へ出るつもりで、道を間違えて……」
「まあ、雲仙から?」
「道を間違えて、面倒臭いから小浜へ出ようと思ったら、また間違えて、昨夜は野宿しちまったんです」
ぼんやりと俯いて歩いていましたから、もう、娘が何を聞いたかを、覚えておりません。歩いていたら、娘がまた、呼んでいるのです。
「そっちへ行くと、違うわよ! ……こっちの方、こっちの方!」
いうことが飲み込めなくて、立ち停まって顔を眺めていたら、
「じゃ、家へ寄って、休んでらっしゃるといいわ……パパに、そういいますから」
娘の家は、その辺から曲るのか、大分離れた草原の中に馬を立てて、こっちを眺めているのです。私もぼんやりと、娘の姿を眺め返していました。あんまり草臥れて、ガッカリした時には、急に礼なぞは出てこないのかも知れません。
「わたしの家へお寄りになるんなら、こっちよ」
そういうわけで私は、碌々礼もいわずに、この娘の後に跟いていったのです。