Chapter 1 of 12

Chapter 1

広巳は品川の方からふらふらと歩いて来た。東海道になったその街には晩春の微陽が射していた。それは午近い比であった。右側の民家の背景になった丘の上から、左側の品川の海へかけて煙のような靄が和んでいて、生暖かな物悩ましい日であった。左側の川崎屋の入口には、厨夫らしい壮い男と酌婦らしい島田の女が立って笑いあっていたが、厨夫らしい壮い男はその時広巳の姿を見つけた。二十五六の痩せてはいるが骨格のがっしりした、眉の濃い浅黒い顔が酒を飲んでいるためにく沈んでいるのを閃と見たが、気もちの悪いものでも見たと云うようにしてすぐ眼をそらした。対手の態度によって島田の女も小さな河豚のような眼をやったが、これも気もちの悪い物でも見たと云うようにして、すぐ眼を反らして対手の視線を追いながら嘲るような笑いを見せあった。

広巳はのそりとその前を通りすぎた。川崎屋をすこし離れたところの並びの側に空地があって、そこには簀につけた海苔を並べて乾してあった。空地の前には鉛色をした潮が脹らんでいて、風でも吹けばどぶりと陸の方へ崩れて来そうに見えていた。縁には咲き残りの菜種の花があり、遥か沖には二つの白帆が靄の中にぼやけていた。空地に向った右側は魚屋になって、店には鮟鱇を釣し、台板の上には小鯛、海老、蟹。入口には蛤仔や文蛤の笊を置いてあった。そこには藻のむれるような海岸特有の匂があった。

広巳はふと何か考えこんだ。七八人の少年がどこからか出て来た。玩具の洋刀を持ち海老しびの竹屑を持った少年の群は、そこで戦ごっこをはじめた。

「俺は東郷大将だぞ、ロスケに負けるものかい」

「汝はクロバトキンだろう」

「やっつけろ、クロバトキンをやっつけろ」

それは日露戦役の直後で、当時の少年の何人もが東郷大将を夢みている時であった。広巳は足をとめた。

「東郷大将、うう、東郷大将か」物の影を追うようにして、「沙河の戦は、面白かったなあ、俺もあの時、鵜沢連隊長殿と戦死するところだった」

少年の群はその時鯨波をあげて右側の路地の中に入って往った。広巳は気が注いた。

「東郷大将は、もう往っちゃったのか、東郷大将は」淋しそうに笑って、「俺もなあ、あの時鵜沢連隊長殿と戦死してたらなあ」

広巳は歩きだした。広巳の眼の前には落寞とした世界がひろがっていた。

「これが日露戦争の勇士か」

右側に嫩葉をつけた欅の大木が一団となっているところがあった。そこは八幡宮の境内であった。広巳はそこへ入った。華表のしたに風船玉売の老婆がいた。広巳は見むきもしないで華表を潜った。欅の嫩葉に彩られた境内は静であった。右側の社務所の前には一人の老人が黙もくと箒を執っていた。左側に御手洗、金燈籠、石燈籠、狛犬が左右に建ち並んで、それから拝殿の庇の下に喰つくようになって天水桶があった。その天水桶は鋳鉄であった。その右側の天水桶の縁に烏のような水だらけになった一羽の鳥がとまって、それがばさばさと羽ばたきをやっていた。

拝殿の前の金の緒の垂れさがった下には、一人の御隠居様らしい切髪の老媼がこちらへ背を見せて拝んでいた。広巳の眼は烏のような水だらけの鳥へ往った。広巳は鳥の方へ往った。それは鵜であった。長い嘴の上の方の黄ろい古怪な形をした水禽は、境内の左側になった池にでも棲んでいるのか人に恐れなかった。

「なんだ、鵜か」

鵜は羽ばたきをやめなかった。その眼はきろきろと鬼魅悪く光っていた。

「厭な眼をするない」手を揮って、「おい、こら」

鵜はそれでも逃げなかった。汚い天水桶の上には鳥の柔毛が浮んでいた。右の方の横手の入口に近い処に小さな稲荷の祠があって、半纏着の中年の男がその前に蹲んでいた。広巳は鵜に興味がなくなったので、天水桶の傍をぐるりと廻って、社の横手へ往ってそこの階段へ腰をかけた。

豆腐屋の喇叭の音がどこからかきこえて来た。広巳は腕組をして眼をふさいでいた。二人伴が横手の入口から入って来た。一人は素肌に双子の袷を着て一方の肩に絞の手拭をかけた浪爺風で、一人は紺の腹掛に半纏を着て突っかけ草履の大工とでも云うような壮佼であった。

「なんだ、暢気そうに睡ってるじゃねえか」

「終夜稼いだお疲れか」

二人は斜に拝殿の前の方へ往こうとしていた。広巳の眼が大きく開いた。

「野郎待て」

右側を往っていた双子がちらりと揮りかえった。広巳はついと起った。双子は有意らしい沈静を見せた。

「俺に用があるのか」

「あるとも、俺を盗児と云ったのは、何人だ」

「ぬすっと、何人が汝さんを盗児と云ったのだ」

広巳はずいと進んで往った。

「汝か、伴か二人のうちだ」

双子はそれと見て体を整えた。

「云わねえ、云うものかい、盗児と云うものかい」

「云わねえことがあるか、終夜稼いだと云やがったくせに、云やしないもすさまじいや」

「終夜稼いだと云ったっていいだろう、急ぎの仕事がありゃあ、終夜稼があな」伴の方を見て、「なあ、与ちゃん」

紺の腹掛は頷いた。

「そうとも、そうとも、急ぎの仕事がありゃあ、二日でも三日でも、寝ずにやるとも」

広巳はもう双子に躍りかかった。

「ふざけるない、この野郎」

双子も負けてはいなかった。双子は広巳の拳を避けて広巳に立ち向った。紺の腹掛は双子と力をあわして広巳を撲り倒そうとした。三人の拳は搦みあった。広巳の足は拳とともに閃いた。双子は足を蹴られて倒れてしまった。

「野郎」

「こん畜生」

紺の腹掛と広巳は取っ組みあってしまった。双子は放ねおきて広巳の片頬へ拳を持って往った。

「この野郎」

広巳は紺の腹掛を揮り放そうとした。三人の体は黒い渦巻を作ってぐるぐると縺れあった。

「これ、これ、何と云うことだ、ここで喧嘩をして、神罰を恐れないか、何と云うことだ、これ」

そこには社務所の前で箒を執っていた老人が来ていた。老人は三人を叱って諍闘をとり鎮めようとしたが鎮まらなかった。黒い渦巻を作って縺れあった三人の口からは野獣のような呻きが聞えた。

「これ、これ、これ、よせと云うのに、これよさないか、罰あたり、神様のお咎めが恐ろしくないか、これ、これ」

老人は箒を中へ入れようとしたが、入れることができなかった。同時にもつれあっていた黒い渦巻が眼の前に倒れた。老人は驚いて一足退った。老人の小さな頭には胡麻塩になった略画の烏そのままの髷が乗っかっていた。

「こ、これは、まあ、なんと云うことだ、狼の噛みあうように」

広巳は双子に帯際に掻きつかれながら、俯伏に倒れた紺の腹掛の上に馬乗になっていた。

「く、く、く」

「う、う、う」

「む、む、む」

「う、う、う」

三人はまた獣のように呻きあった。剥きあっている三人の歯が獣の牙のようにちらちらした。

「何人か来てくれ、何人か来てくれ」

老人はもう己の手ではどうすることもできないとおもった。牡丹か何かの花が咲いたようについと来て立った者があった。

「おや、喧嘩してらっしゃるの」

二十七八に見える面長な色のくっきり白い女であった。黒い筋の細かい髪を目だたないような洋髪にして、微黄ろな地に唐草模様のある質実な羽織を被ているが、どこかに侵されぬ気品があった。老人はどこかの邸の夫人が参詣に来あわしたものだろうと思った。

「ほんとに困っちまいます、私が云ってもだめですから、どうか夫人が」

どうか夫人がとは夫人が引き別けてやってくれと云うのであった。女はちょっと老人の方へ眼をやるようであったが、対手にはならなかった。その時広巳は二人の対手を膝の下に押し敷いていた。

「豪いわ、ねえ」と云って気が注いたように、「おや、貴下は」

貴下は何某ではないかと云う知っている人を探し求むる詞であった。広巳は拳を揮いながら眼をやった。それは知っている人ではなかったが、どこかで逢ったような気がするのであった。広巳はきまりが悪かった。広巳は二人を放して立った。広巳の口元には血があった。広巳にとりひしがれていた二人は、それと見て飛び起きて広巳に躍りかかろうとした。二人の眼はぎらぎらと光っていた。紺の腹掛の左の頬は血だらけになっていた。女はついと広巳の前へ出て広巳をかばって立った。

「およしなさいよ、この方は、もう手を引いたではありませんか、それに貴下方は二人じゃありませんか」

二人で一人にかかって往くのは卑怯だと云うのと同じであった。紺の腹掛は立ち縮んだ。双子の眼は依然としてぎらぎらと光っていた。

「もういいではありませんか、さっぱりなさいよ、男は斬り結んだ刀の下で笑いあうと云うではありませんか」

双子は進めなかった。

「私が仲裁するのですから、男らしくさっぱりなさいよ、それでもいけないと仰しゃるなら、私がお対手をいたします」

女の口元には威厳があった。それに腕節の強い男を向うにまわして、お対手をすると云うからには武術の心得があるか、それとも懐に何か忍ばしているか。双子も立ち縮んでしまった。女はくるりと体の向きをかえて広巳を見た。広巳はその顔が眩しかった。

「もういいから、お帰りなさい、だが、気をおちつけて、人と喧嘩をなさらないようにね、貴下はいい方だが、この比気がたってらっしゃる、それには事情もおありでしょうが、よく気をつけてね」

広巳は母親から何か云われているように思った。

「では、お帰りなさい、心配なすってらっしゃる方がおありでしょう」

広巳の頭は覚えずさがった。

「へい」

広巳はそうしてお辞儀をするなり、体をかえして正面の華表の方へ歩いた。そこにはあちこちに喧嘩と知って集まって来ている人の顔があった。広巳はきまりが悪いので急ぎ足になって外へ出た。そして、方角の見当もつけずに歩いているうちに、

(おや)

と云う気もちが浮んで来た。その気もちは、面長な色のくっきりと白い、黒い筋の細かい髪を洋髪にした女につながっていた。

(あれじゃないか)

広巳はぴたりと足をとめた。広巳の眼の前には初春の寒い月の晩海晏寺の前の大榎の傍で、往きずりに擦れ違った女の姿が浮んでいた。

(どうもあの女だ)

大榎の女はさながらの錦絵になって、火照ったようなその唇は、その晩の詞を口にするのであった。

(今晩は)

広巳は女に逢いたくなった。

(参詣に来たのなら、まだいるだろう)

広巳は眼を開けた。そこは海晏寺の前のあの大榎の見える処であった。

(おや、反対に往ってたか)

広巳はすぐ引返そうとしたが、醜い争闘を引き別けてもらったばかりの女に逢うのはきまりも悪ければ、争闘を見ていた者がまだその辺にうようよしているようで足が進まなかった。しかし、ぐずぐずしていて女に往かれては、どこの何人と云うことも判っていないので、また今度逢おうと思っても何時逢えるやら判らなかった。

(今逢って、居所をつきとめておかないと、また逢おうと思っても逢えやしない)

広巳は気まりの悪いことには眼をつむらなくてはならなかった。

(くそっ、本渓湖の戦の思いをすりゃ、なんでもねえや)

広巳の耳には砲弾の唸りがよみがえり、かたかたと鳴る機関銃の音がよみがえった。砲煙、銃火、連隊旗、剣、赤鬼のような敵兵。

(左の脇腹に擦過傷を一つ負うただけで、金鵄勲章をもらって、人からは日露戦争の勇士だの、なんだのと云われるが、なにが面白い)

広巳の感情はたかぶって来たが、それでもその感情の前方には錦絵の女があった。広巳の感情はすぐやわらいだ。広巳は八幡宮の前へ往っていた。

(ここだ)

広巳は入ったがすこし後めたくなった。広巳は眼をやった。あの風船玉売の老婆が、二三人集まって来ている小さな女の子に、商売物の風船玉を見せびらかしている他には何人もいなかった。広巳は安心して華表を潜って往った。華表を潜りながら拝殿の方へ眼をやった。拝殿の方から嬰児を負った漁夫のお媽さんらしい女が出て来るところであった。

(もう、帰ったのか)

広巳は社の左右へ眼をやった。稲荷の祠の傍には岡持を持った小厮と仮父らしい肥った男が話していた。

(それとも、あの二人に何か因縁をつけられて、どうかしたのだろうか)

因縁をつけられて料亭へでも伴れて往かれているとなると、黙ってはいられなかった。

(聞いてみようか)

広巳は社の右側へ廻って往った。さっき己が腰をかけていた右側の階段に、あの箒の老人が傍へ箒をもたせかけて腰をかけていた。広巳は急いで老人の前へ往った。

「爺さん」

老人の眼はつむれていた。老人は仮睡をしているところであった。

「おい、爺さん」

老人は吃驚したように眼を開けて広巳を見た。

「あ、今の壮佼か」

広巳は冗漫な口を利きたくなかった。

「それよりも爺さん、今の女を知ってるかい」

老人はけげんそうな顔をした。

「今の女、今の女って、私が話していた女のことかな、二十七八の脂の乗った、こたえられねえ年増だが、ありゃ水神様だ、人間がへんな気でも起そうものなら、それこそ神罰で、眼が潰れるか、足が利かなくなるか」

老人の話はたわごとに近いものであった。広巳はいらいらした。

「そ、そんなことじゃねえのだ、今の、それ、あの女のことだよ」

老人はおちつきすましたものであった。

「あの女って、水神様のことだろう、今まで私の傍にな、こんな梅干爺でも平生の心がけがいいからな、神信心をして、嘘を吐かず、それでみだらな心を起さずさ、だから神様が何時でもお姿を拝ましてくださるのだ、あのお池の中に祭ってござる水神様だ」

広巳は老人の横面をくらわしてやりたいように思った。

「何云ってるのだ、爺さん、俺の云ってるのは、今、喧嘩のとき、仲へ入ってくれた女のことだよ、何人だい、ありゃ、なんだか俺を知ってるような口ぶりだったじゃねえか、この辺の人かい」

「なに、喧嘩の時、仲へ入った女、そ、それが水神様じゃないか」

「水神様だなんて、神様じゃないよ、色の白い、夫人のような女じゃねえか、判らなかったかい」

「判ってるから、水神様だと云ってるじゃないか、まさか汝さんがそれを拝むのじゃねえだろう」

たった今の事実を、それも傍にいながら明瞭覚えていないのは、頭がぼけているのだろう。

「爺さん、すこし、ぼけてるね」

老人の眼はいきいきとした。

「おい、壮佼、気をつけろ、私がぼけてる、眼は秋毫の尖もはっきり見える、耳は千里のそとを聞くことができるのだ、汝なんざ無学だから、こんなことを云っても判らないだろうが、私はこう見えても、安井息軒の門にいたのだ、西郷さんの戦に、熊本城に立て籠って、薩摩の大軍をくいとめた谷干城さんも、安井の門にいたのだ、私は運が悪くて、こんなことになっちまったのだが、それでも谷さんとは同門の友人だ」

安井息軒の名は判らないが、谷村計介の話で、谷干城の事は知っていた。広巳はつい釣りこまれた。

「谷さんと朋友かい」

「朋友だとも、だから痴にするものじゃないよ、こう見えても、経書はもとより、史子百家の書に通じてるのだ、つまり王道に通じているのだ、この王道とはとりもなおさず神の道だ、今度の日露の戦争だってそうだ、日本には神の道に通じているものがいるから、夷狄の露西亜に勝ったのだ、鉄砲を打ったり、人を殺すことが豪かったから、勝ったと云うわけのものでない、王道つまり神の道だ、だから私には水神様が時どきお姿を拝ましてくだされるのだ」

広巳はその女が水神社の方にでも往ってるのではないかと思いだした。広巳はいきなり老人の前を離れて、拝殿の前を横ぎって池の方へ往った。池の周囲を石畳にして蒼どろんだ水を湛え、その中に小さな島をおいて二つ三つの小さな祠をしつらえてあった。広巳は島へ渡した石橋を渡った。島には何人もいなかった。それは橋を渡らなくても一眼に見わたされる島であった。前の端の祠が水神社であった。広巳がその前へ往った時、雪のような物がぼろぼろと落ちて来た。

(おや)

それは八重桜の花片であった。広巳は四辺に眼をやった。一方から欅の嫩葉の枝が出て来ているばかりで、桜らしい樹はなかった。

(間部山あたりからでも飛んで来たのか)

広巳の眼は水神社の古ぼけた木連格子へ往った。そこに水神社と云う小さな木札をさげてあった。

(これが水神様か、こんなうす汚い水神様がお姿をあらわしたところで、たいしたこともねえだろう)

広巳が口元に嘲りを見せた時、黒い物の影が落ちて来た。それは鳶か烏かの影のようでもあった。

(前刻の鵜か)

広巳はまた空を見たが何も見えなかった。広巳の眼は池の水の上へ往った。しかし、そこにも鳥らしいものはなかった。

(なあんだ、ばかばかしい)

広巳は引返した。広巳は他に女のことを尋ねる手がかりがないので、もう一度老人に逢って確めようとしていた。

(どうも、この辺の人らしいぞ、あれが、まさか、水神様の化身でもないだろう)

広巳はまた嘲りを浮べながら老人のいる処へ往った。老人は略画の烏の髷を見せて稲荷の前を掃いていた。

「爺さん」

「ほい」

老人は吃驚したように箒の手をとめた。広巳はおかしくてたまらなかったが笑わなかった。

「前刻の女のことだが、ほんとに知らないかい」

老人はまたけげんな顔をした。

「前刻の女って、なんだな」

「俺が喧嘩してた時に、仲へ入ってくれた女さ、ありゃこの辺の女じゃないかね」

「見かけない女だよ」

見かけない女と云うことは女を認めてのことで、さっきのように夢をごっちゃにしたような返事でもなさそうであった。

「そうかね、ほんとに知らないかね」

「知らないよ」

「そうかね」

それ以上聞いたとて何にもならない。広巳は何か己の頭の中の物を無くしたような気もちになってふらふらと歩いた。

広栄は縁側に近いところで店男の定七と話していた。土地の大地主で、数多の借家を持ち、それで、住宅の向前に酒や醤油の店を持っている広栄の家は、鮫洲の大尽として通っていた。

そこは表の客座敷の次の室で、定七の腰をかけている縁側の敷板は、木の質も判らないまでに古びて虫蝕があり、これも木目も判らないまでに古びた柱によって、その家が如何に旧家であるかと云うことが窺われるのであった。もう一時を過ぎていた。広栄は左の脚の故障があるので、室の中でも松葉杖をはなさなかった。松葉杖は傍にあった。広栄はセルの単に茶っぽい縦縞の袷羽織を着て、体を猫背にして両脚を前へ投げだしていた。広栄は広巳の兄であった。

「汝は知らないのか」

「それでございますよ」

定七は皺だらけの馬のように長い顔を見せていた。定七は広栄兄弟が生れない前からそこの店にいる番頭格の老人であった。

「どうしたと云うのだろうな、汝はどう思う」

「そうでございますよ、旦那が御心配なされているようだし、私もへんに思いますから、せんだって、それとなしに聞いてみたのですが」

「聞いたら、何と云った」

「俺は、べつに何もないのだ、兄は俺を小供のように面倒をみてくれるし、不足も何もあるものかと云うのですよ」

広栄は親子ほども年の違う広巳を、己の小供のように可愛がっているところであった。

「それじゃ、何だろうね、凱旋して来た当座は、やっぱり昔のとおりだったが、どうしたと云うのだろうな」

「それでございますよ。若旦那がへんにしだしたのは、昨年の暮比からでございますよ、元は無邪気で、きびきびして、始終旦那に小遣をねだって、旦那が煩がると、私が仲へたってもらってあげるものだから、戦争から帰ってらしても、私に、今日は兄の機嫌はどうだなんて、よく仰しゃってたものですよ、それが昨年の暮比からみょうに黙りこんで、厭な物でも眼前にいるようにしてるのですよ」

「女のことじゃないだろうか」

「旦那がせんだっても、そう仰しゃるものですから、それとなしに壮佼に聞かしたのですが、何人も知らないのですよ」

「そうか、この比は、私に顔をあわすのも厭と云うように、私をさけるのだよ」

「ほんとにどうしたと云うのでしょう、あんな無邪気な、きびきびしてた方が」

「どうしたと云うのだろうな、それで、昨夜から帰らないのか」

「そうでございますよ」

「そうか」

広栄は後の煙草を点けて庭の方へやるともなしに眼をやった。白沙を敷いた広い庭には高野槇があり、榎があり、楓があり、ぼくになった柾などがあって微陽が射していた。

「おう」

広栄は庭に何物かを見つけたのであった。それは見るべくして見ることのできなかった物を見つけたような容であった。それと知って定七の眼も広栄の眼を追った。

「おう、これは」

庭の右の隅になった楓の老木の根方に一疋の蛇がにょろにょろと這っているところであった。それは三尺近くもある青黒い中に粉のような丹い斑点のある尻尾の切れた長虫であった。広栄は眼を放さなかった。

「それじゃ、明日は雨だな」

「そうでございますとも、神様がお出ましになったら、雨でございましょうよ」

「今朝から生暖かい、どうも天気が落ちたと思ってたが、やっぱりそうだったか」

「御神酒をあげましょうか」

「そうだ、そうしてくれ」

「へい」

定七は腰をあげた。蛇は二人の正面になった柾の方へにょろにょろと這っていた。定七は蛇の方を見い見い斜に往って表庭と入口の境になった板塀の方へ往って、そこにある耳門の桟を啓けて出て往った。広栄は顔を右斜にして背後の方を見るようにした。

「おい」

それは女房を呼ぶところであったが返事がなかった。

「おい」

それでも返事がなかった。広栄はすこしじれた。

「おい、お高、お高」

「呼んだのですか」

それは気のない返事であった。

「ちょっとお出で」

「ちょっと待ってくださいよ」

「何かしてる」

「衣服の始末をしてるのですよ」

「衣服ならいいじゃないか、ちょっとお出で、お出ましになったのだから、あの楓の」

「そう」

「だから、ちょっとお出でよ」

「ちょっと待ってくださいよ」

「衣服は後でもいいじゃないか」

「だって」

広栄はちょっと顔をしかめたが、もう何も云わないで蛇の方へ眼をやった。耳門の方へ往っていた蛇はその時こちらの縁側の方へ方向をかえた。それは何かを暗示しているように思われた。

「何かおぼしめしがあるのか」

耳門が啓いて定七が小さな白木の三宝へ瓦盃を二つ三つ載っけて入って来た。

「定七、塩もいいか」

「よろしゅうございます」

「そうか」

定七は庭の隅の楓の下へ往った。楓は微紅い嫩葉をつけていた。定七はその楓の根元へ三宝を供えて、その前へ蹲んで掌を合せた。

「定七、上を見てみな」

「へい」

定七は腰を延ばして片手を額にかざして梢の方へ眼をやった。

「どうだ」

「神様がお出ましになったから、きっとおつれあいも」

定七は幹から左側の枝へ眼をやった。その左側の枝の中央に一疋の蛇が巻きついていた。

「おう、やっぱり」

「いらっしゃるか」

「いらっしゃいます」

「そうか」

「あらそわれないものでございますよ」

広栄のいる室の背後の襖が啓いて、円髷の肉づきのいい背の高い女が出て来た。それがお高であった。お高は長方形の渋紙に包んだ量ばった物を抱いていた。

「出たのですの」

「そうだよ、お出ましになったのだ」

「どこ」

庭の方へやったお高の眼に、縁側の近くまで来て、それから右の方へ方向をかえている蛇が見えた。

「ああ、そうね」

「ありがたいことだ、もったいない」

「そうね」気のなさそうに云って、「やっぱり尻尾が切れてるわね」

広栄は顔をしかめた。

「そ、そんなことを云うものじゃない、そんなことを」

お高はちらと嘲りを口元に見せた。

「我家がこうしていけるのも、神様のおかげだ、おろそかに思ってはならない」

「そうね」

定七は楓の下からお高の方を見た。

「夫人、おつれあいも、お出ましになっておりますよ」

「そうかね」

「お庭へ、ちょっとお出でになっては」

「わたし、これから冬着の始末をしなくちゃならないからね」間をおいて、「平どんにでも手伝わしておくれよ」

「すぐでございますか」

「すぐさ、こうして持ってるじゃないの」

「よろしゅうございます、それでは、平吉を呼んでまいります」

「すぐだよ」

「よろしゅうございます」

「それじゃ、わたしは、土蔵の前にいるからね」

「へい」

定七は急いで出て往った。お高はすまして立っていた。

「ちょっと手間がかかるのですが、ほかに用はないのですか」

「ない」

「それじゃ、ちょっと手間がかかりますよ」

「いい」

広栄は蛇の方を一心になって見ていた。蛇は表座敷の前から右の方へ姿を消して往った。

「例年のとおりだ、もったいない」

お高は広栄の詞を聞きながして引込んで往ったが、間もなく裏手の三つ並んだ土蔵の右の端の口へ往って立っていた。お高の頬はつやつやしていた。お高の眼は物置と庖厨の間になった出入口へ往っていた。と、十七八の色の白い小生意気に見える小厮が土蔵の鍵を持って来た。

「早くいらっしゃいよ、なにをまごまごしてるの」

小厮はすました顔をしていた。

「鍵が見つからなかったものだから」

「鍵が見つからないなんて、平生の処に置いてあるじゃないの」

土蔵は三戸前ともに古かった。土蔵の入口にはそれぞれ厚ぼったい土戸が締っていた。小厮の平吉はその戸の錠口へ鍵を入れて錠を放したが、重いので手ぎわよく啓けることができなかった。

「弱虫ね、このひとは」

「だって、なかなか、この戸は、ね」

「男の癖に、そんな戸が重いなんて、だめだよ」

お高の詞はひどくはすっぱであった。

「だって、この戸は、なかなか千人力でないと、あかねえのです」

戸はやっと啓いた。戸は二重戸になっていて土戸の次には金網戸があった。

「だめだよ、口端できいたふうな事を云ったって、からっきしだめじゃないか、しっかりおしよ」

「へッ」

平吉はとぼけるように云って金網戸の錠を啓けた。金網戸は錠前も軽ければ戸も軽かった。お高は石段の上へ履物を脱いで中へ入った。

「鼠が入るから、早く入って、お締めよ」

「へい」

平吉は後から急いで入るなり、内から金網戸を締めた。諸道具をぎっしり積みあげてある土蔵の中は微暗かった。

「用心がわるいから、鍵をかけるのだよ」

「へい」

平吉は手さぐりに鍵をかけた。

「かけたの」

「へい」

「それじゃ、二階へ往って窓を啓けておくれよ」

「へい」

平吉が左の方にある階段へ眼をやった時、お高はまたはすっぱな声をだした。

「だめよ、汝、手ぶらで往っちゃ、これ持ってくのよ、お婆さんに持って往かして」

それは抱きかかえている渋紙包を持って往けと云うのであった。

「へい」

「そうじゃないの」

「へい」

平吉はまたとぼけるように云って渋紙包を受けとった。

「ぼやぼやしてると落っこちるよ」

「へいッ」

平吉は階段をあがって往った。お高はその平吉の厚子の下から露出している蒼白い足端のちらちらするのを見ていた。そして、その蒼白い足端が見えなくなったところで、ごとごとと云う音がした。それは窓の戸を啓ける音であった。同時に二階の昇口が明るくなった。

「啓けたのですよ」

「そう」

お高はあがって往った。二階は昇口の処に三畳敷位の空間をおいて箪笥や長櫃を置いてあった。平吉は窓の傍に渋紙包を持って立っていた。

「なにをぼんやりしてるの」

平吉は眼に微笑いを見せていた。

「胡蓙を敷いておくれよ」

お高は渋紙包に手を持って来た。

「ここへ」

「そうよ」

平吉は渋紙包をわたして胡蓙を探した。胡蓙はすぐ傍の箪笥の横手に巻いて立てかけてあった。平吉はそれを執って敷きかけた。

「ここには、御一新前からの埃があるからね」

「へい」

「気をつけてね」

「へい」

胡蓙が解けるとともにもう薄すらと埃が見えた。お高は片手を団扇にして顔の前を煽いだ。

「云わないことか、それ、こんなに埃が立つじゃないの、しっかりおしよ」

「へい」

「へいじゃないよ、ほんとだよ」

「へい」

平吉は平気で胡蓙を敷いた。胡蓙は二枚あった。

「ほんとに厭、ねえ」

お高は渋紙包を胡蓙の上においてその上へ横すわりに坐った。

「これから衣服の始末をするから、手伝うのだよ」

平吉は昇口の方を背にして立ちながら何か嗅ぐようにしていた。

「臭いなあ」

お高も鼻をやった。

「黴じゃないの」

「黴でしょうか」

お高は艶かしい笑いを見せた。

「汝、黴の匂を嗅いで、へんな気がしやしないこと」

平吉には判らなかった。

「黴の匂ですか」

「そうよ、黴の匂を嗅いで、何か思いだしやしないこと」

「べつに、何も」

「ないの」

「ねえのです」

「私は思いだすよ、私は黴の匂を嗅ぐと、娘の時のことを思いだすよ」

「へえ」

「汝はぼくねんじんね」

「へえ」

「痴ねえ、この人は」

「へえ」

「いいから」窓の左側になった箪笥へ指をやって「あの引抽を開けておくれよ」

「へい」

平吉はうごかなかった。平吉はなにかしら主婦から重大なものを求められそうな気がしているので、箪笥の引抽を開けると云うようなあっけないことをする気になれなかった。

「あの引抽だよ、上から二番目だよ」

「へい」

平吉はしかたなしに箪笥の前へ往って二番目の引抽に手をかけた。

「そっくり脱いて来ておくれよ」

「へい」

平吉は引抽を啓けた。中には単衣らしい女物が入っていた。平吉はその引抽を脱いてお高の前へ持って往った。

「やっと持てたね」

お高は何かしら平吉にからむのであった。

「へえ」

「これをすましたら、佳い物を見せてあげるから、ね」

「なんです」

「立ってもいてもたまらないと云うものだよ、どう」

「へえ」

お高は引抽の中の衣服を手早く胡蓙の上へ出して、傍の渋紙包を解き、その中の畳んで二つにしてあるのを延ばし延ばし引抽の中へ入れた。平吉は主婦の詞を待っていた。

「ぼんやりしてないで、引抽を元へやっておくれよ、佳い物を見せてやるじゃないの」

「へい」

平吉は急いで引抽を持って往ってさした。お高は出した衣服を二つに折り折り渋紙の中へ入れた。

「それじゃ、ついでに蒲団を出しておくれ、洗濯しなくちゃならないからね」

「へい」

返事をしたものの蒲団がどこにあるか判らないので、平吉は四辺をきょろきょろと見た。お高は渋紙包の緒を結び終ったところであった。

「あれさ、あの長櫃の中だよ」

お高の指は左側の壁に沿うて並べた長櫃の一つへ往っていた。平吉はこちらから三つ目の長櫃の前へ往った。

「その中に入ってるのを、皆出しておくれよ」

「へい」

平吉は長櫃の蓋を啓けた。中には松に鶴の模様のある懸蒲団が三枚入っていた。裏は萌黄であった。

「それも黴臭いだろう」

なるほど黴の匂がむうとした。

「どう」

「臭いのです」

「佳い匂じゃないの、私はこたえられないよ」

「好奇だなあ」

「好奇と云や、好奇かも判らないが、私はこたえられないよ」ちょっと切って、「一枚敷いてごらんよ」

「そこへですか」

「そうよ」

平吉は主婦のすることが判らなかった。平吉は傍の長櫃の上に重ねた蒲団の一枚を執った。お高は渋紙包を持って起ち、それを傍の具足櫃の上へおいた。平吉はそこで蒲団の萌黄の裏を上にして胡蓙の上へ敷いた。お高はその上へすぐ坐った。

「佳い匂じゃないの」

「へえ」

「汝もお坐りよ」

「へい」

平吉はその横手に蹲んだ。

「どう、こたえられない匂じゃないの、私ゃ、この匂を嗅ぐと気が壮くなるよ」

「好奇だ」

「好奇かも判らんが、私は好きさ、佳い匂じゃないの、この匂を嗅いでると、人が恋しくなるよ」

「へえ」

「そうだった、汝に見せてやるものがあったね、それでは見せてあげるから、わたしを伴れてっておくれよ」

伴れて往けとは道の悪い遠い処であろうか。

「どこです」

「どこでもいいから、私を負っておくれよ」

平吉はさすがに眼を見はった。

「そんな、へんな顔をするものじゃないよ」

「へい」

「負っておくれよ」

「へい」

平吉は主婦の前へ往った。

「あっち向くのだよ、こっち向いてちゃ、負われないじゃないの」

「へい」

平吉は主婦に背を向けて中腰になった。お高の体がそれに重んもりと負ぶさった。

「重い」

「なあに」

平吉は主婦を負って体を起した。

「あっちよ」

お高の手が眼の前にあった。平吉は主婦の手の指している方へ往かなくてはならなかった。そこは長櫃の並んだ処で、長櫃の前には葛籠が並んでいた。平吉はその間を入って往った。

「ここよ」

「へい」

平吉が停まるとお高はおりた。そこに葛籠の上に寺小屋用の文庫があった。お高はその中に手をやって二三冊の草双紙のようなものを執った。

「それじゃ、帰るのだよ」

「へい」

平吉はまた背を向けた。お高はまた重んもりと負ぶさった。平吉は引返した。そして、蒲団の上に帰ったところで、お高の手にした書物が目の前へ来た。それは極彩色の錦絵であった。

「これ、見えるの」

庭前に這っていた尻尾の切れていた蛇は、楓の木へ登りかけた。平吉を呼びに往っていた定七は縁側へ引返して来て、広栄とともに蛇に注意していた。

「もう、お疲労になったと見える」

広栄は頭を揮った。

「いや、何かおぼしめしがある、そんなもったいないこと」

「へい、これは、どうも」

「そうじゃ」

蛇は上へ上へと登って、やがて微紅い嫩棄に覆われた梢に姿を隠して往った。

「もったいない」

「ほんとに、もったいないことでございます」

広栄の頭を掠めたものがあった。広栄は定七に眼をやった。

「汝は、も一つお神酒とお洗米を持って来てくれないか、お倉の方へな」

「よろしゅうございます、すぐ持ってまいります」

「それじゃ、俺は前へ往ってるから」

「それじゃすぐ持ってまいります」

定七はすぐ腰をあげて出て往った。広栄も傍の松葉杖を引き寄せて体を起し、故障のある左の脚を引きずるようにして、玄関と庖厨の入口を兼ねた古風な土間へおり、そこにあった藤倉草履を穿いて、ばったの飛ぶようにぴょいぴょいと裏口から出て往った。

出口に花をつけた桐の古木があった。羽の黒い大きな揚羽の蝶がひらひらと広栄の眼の前を流れて往った。

「蝶か」

広栄はやがて土蔵の前へ往った。広栄の往った土蔵は真中の皆古い中でも一ばん古い土蔵であった。右の土蔵はお高と平吉が入っている土蔵。広栄は松葉杖に縋って休みながら右側の土蔵の口へ眼をやった。

「お待たせしました」

定七は一方の手に神酒徳利と洗米の盆を乗っけた三宝を持ち、一方の手に土蔵の鍵を持っていた。

「三宝を持とう」

戸を啓ける間は持たなくてはならなかった。定七は三宝を広栄にわたして戸を啓けにかかった。戸はすぐ啓いた。定七は広栄の傍へ来て三宝を執った。

「それでは」

「そうか」広栄は松葉杖を執りなおしてぴょいぴょいと土蔵の中に入った。広栄が入ると定七も入って金網戸を締めた。

「鼠はいいかな」

「よろしゅうございます」

「彼奴は油断もすきもできないから」

「そうでございますよ」

微暗い土蔵の中には中央に古い長櫃を置いて、その周囲に注連縄を張り、前に白木の台を据えて、それには榊をたて、その一方には三宝を載っけてあった。

「それでは、三宝をとりかえてくれ」

「へい」

定七は何時の間にか鍵を腰にさして三宝ばかり持っていた。定七は白木の台の前へ往って三宝を除り、持っている三宝をそれに置きかえた。

「いいか」

いいかとは準備が出来たかと云うのであった。

「よろしゅうございます」

「それでは」

広栄は一脚ぴょいと進んで、そのまま蹲んで白木の台に向って拝礼をはじめた。そして、ちょっとの間合掌していてから起きた。起きて長櫃の方へ眼をやった。

「お塔は」

「そうでございますよ」

「拝見しよう」

広栄は斜にぴょいぴょいと往って長櫃のうえへ眼をやった。そこには小さな玩具のような三寸位の富士形をした微白い物があった。それは蟻の塔で白蟻の糞であったが、広栄は神聖視しているのであった。

街路一つ距てて母屋と向きあった肆は、四間室口で硝子戸が入り、酒味噌酢類を商うかたわらで、海苔の問屋もやっていた。それはもう三時近かった。肆には二三人の客があった。

そのとき広巳はのそりと入って来た。その広巳の眉の濃い浅黒い顔は土色に沈んでいた。広巳は肆の者には眼もやらないで、肆の左側の通りぬけになった土室を通って往った。そこに腰高障子が入っていて、その敷居を跨ぐと庖厨であった。そこは行詰に釜のかかった竃があり流槽があって、右側に板縁つきの室があったが、その縁側は肆の者が朝夕腰をかけて食事をする処であった。

「お帰んなさい」

乾からびたような声ではあるが、懐しみのある声であった。胡麻塩の髪の毛を小さな髷に結った老婆が、室の中で半纏のような物を縫っていた。それは定七の女房のお町であった。定七夫婦はそこに起臥していた。広巳はぼんやりお町を見た。

「うん」

「どこへ往ってらしたのです」

「うん」

「ほんとにどこにいらしたのです、皆さんが心配してらっしゃるのよ、ほんとにどこにいらしたのです」

広巳は上唇をちょっと顫わすようにした。それは広巳の笑う時の表情であるが笑いにはならなかった。

「まあ、いいさ」

お町の眼はその時広巳の右の袖口へ往った。

「まあ、袖口が綻びているじゃありませんか」

袖口の綻びているのは争闘か、それとも長い煙管で巻きつけられたがための綻びか。

「品川ですね」

広巳はまた上唇を顫わしたばかりで何も云わなかった。

「そうでしょう、きっと」

広巳はお町のほうへくるりと背を向けて縁側へ腰をかけた。

「まあ、いい」

「御飯はどうなさいました」

「喫えるのか」

「おすみになっておりませんか、すぐ出来ますよ」

「それじゃ喫おう」

「もすこしお待ちになると温い御飯も、お菜もできますが」

「お菜はどうでもいい」

「それでは、すぐめしあがりますか」

「うん」

「それでは」

お町はもう起っていた。お町は一方の戸棚を啓けて準備にかかった。広巳はそのままぼんやりとしていた。

「上へおあがりになっては」

膳の準備はもう出来てお町は長火鉢の鉄瓶を見ていた。

「いい、ここで」

「それでは」お町は膳を持って広巳の右側へ往った。「薩摩あげと、佃煮しかありませんが」

「いい」

広巳は体を斜にした。お町は後から大きな飯櫃をやっとこさと拘えて来た。

「おつけしましょうか」

「いい」

広巳はむぞうさに飯櫃の蓋を除って飯をつけて喫いだした。品川の妓楼へ一泊した広巳は、家へかえるのが厭だから、朝帰りの客を待っている小料亭へあがって、旨くもない酒を喫んで気もちをまぎらし、飯も喫わないで帰っているので、喫いだしてみるとひどく旨かった。広巳は夢中になって喫った。

「若旦那」

お町は下へおりて流槽で何か洗っていた。広巳は茶碗ごしに眼をやった。

「昨夜は、品川ですか」

広巳はまた上唇を顫わしたが、それはいくらか笑いになった。

「なに」

「品川でしょう、それとも大森」

「なに」

「ほんとに若旦那は、この比へんじゃありませんか、若旦那は、どんなりっぱな家からでも、ものによっては、華族のお嬢さんでも、奥さんにもらえるじゃありませんか、つまらない遊びはよして奥さんをもらったらどうです、旦那さまも御心配になっておりますよ」

「ふん」

広巳はそれに深く触れたくなかった。広巳はそれをはぐらかすために勢よく飯を掻きこんだ。お町は前へ来て立っていた。

「ほんとですよ、山県さんとか伊藤さんとか、豪い方の奥さんは、歌妓だと云いますから、歌妓でもお妓でも、それはかまわないようなものの、お宅は物がたい家ですから、堅気のうちからお嫁さんをもらわなくちゃなりませんが、どうかしてるのですか、奥さんも心配してらっしゃいますよ」

「へッ」

広巳の口から吐きだすような詞が出た。お町は広巳を見なおした。

「ほんとですよ、奥さまが、心配してらっしゃいますよ、今朝も奥さまがいらしたのですよ」

「俺、己の女房は、己でもらうんだ、他の世話にならないや」

お町は眼を円くした。

「そ、そんなことをおっしゃるものじゃありませんよ、奥さまや旦那さまが、貴下を我が子のように、可愛がってるじゃありませんか」

「あまり可愛がられたくないや、俺、嫌いだ」

その時店の方で男の子の軍歌を唄う声がした。広巳はそれに気をとられたようにした。

「ああかい、ゆうひに、てらされて、とうもは、のずえの、いしの、した、――まっさき、かあけて、とっしんし――」

「ひろぼうか」

男の子をからかっているのか壮い男の声が軍歌に交りあった。広巳は気が注いて残りの飯を掻きこみ、落すように茶碗を置いて、お町の持って来てある番茶の土瓶を執って注いだ。

「やあい、やあい、痴やあい」

七つか八つに見える子が駈けて来た。それは広栄の一人子の広義で、広巳の可愛がっている甥であった。広義は広巳の方へ隼のように駈け寄った。一方の手に茶碗を持っている広巳は、その茶碗の茶を甥にかけまいとして、一方の手で走りかかって来た広義を支えた。

「あぶない、茶がかかる」

「かかったって、いいや」

広巳はすばやく茶碗を置いた。

「茶が眼にでもかかったら、眼が潰れるぞ」

「潰れたっていいや、東郷大将だ」

「眼が潰れたら、軍人になれんぞ、軍人になれなきゃ、東郷大将にも、乃木大将にもなれんぞ」

「なれるのだい、なれるのだい、眼が潰れたって、なれるのだい」

広義は広巳の首ったまに飛びつこうとしていたが、広巳がかわして飛びつかせなかった。

「眼が潰れたら、鉄砲が打てないや、鉄砲が打てない軍人があるものかい」お町に気がついて、「なあ、姨さん」

お町は笑っていた。

「眼が潰れたら按摩さんになるのだよ、ねえ坊ちゃん」

広義は広巳の首ったまに手がやれないのでじれていた。

「痴、お町の痴やあい」

「だって、そうじゃありませんか、眼が潰れて、鉄砲が打てなけりゃ、按摩さんになるより他に、しようがないじゃありませんか」

「なに云ってやがるのだ、お町の痴の、婆あやあい」

その時広巳の支えていた手に隙が出来た。広義はいきなり膝の上へ飛びあがって、それから一方の足を背のほうから右の肩へ廻すなり、肩の上に馬乗になって額に両手をかけた。

「やあい、やあい、肩車になったのだ」

広巳は広義の足に両手をかけた。

「按摩さんの大将は、馬に乗れないから、肩車に乗ったのか」

「なんでもいいやい」お町のほうを見て、「お町の痴やあい」

お町は広巳に云いたいことがたくさんあった。

「坊ちゃん、叔父さんは、お疲れになってるのですよ」

「疲れるものかい、叔父さんは、昨夜、品川のお妓楼へ往ったのだい」

お町は口がふさがった。広巳は笑いだした。

「そうか、そうか、叔父さん、品川へ往ったのか」

「往ってたのだあい、品川のお妓楼へ往ってたのだあい」

「何人がそんなことを云ったのだ」

「お母さんが云ってたのだあい」

「なに、お母さんが」

「云ったのだあい、云ったのだあい」

同時に広巳は腰をあげた。広義は落されまいとして広巳の額にやっていた手に力を入れた。

「この小厮をどこかへおっぽりだして来る」

広巳は庖厨口からゆるゆると出て往った。出口には車井戸があって婢の一人が物を洗っていた。車井戸の向うには一軒の離屋があった。それが広巳の起臥している室であった。広巳は離屋の前を通って広場へ出た。そこに梅の木があり槇の木などがあって、その枝には物干竿をわたして洗濯物をかけてあった。

「おい、ひろ坊」

「うん」

「この木の上へほりあげてやろうか」

そこには枝の延びた槇の木があった。

「厭だい」

「それじゃ、天へほりあげてやろうか」

「厭だい」

「そんな弱いことで、どうする、男は何時でも、腹を切らなくちゃならんが、汝は腹が切れるか」

「厭だい」

「厭だ、怕いのか」

「怕くなくっても、厭だい」

「怕くないのに厭だと云う奴があるか、弱虫、しっかりしろ」

「しっかりしてるのだい」

「しっかりするものか、しっかりしてないよ、ほんとにしっかりしないと、たいへんだぞ、お父さんは人が好いから、どんなことになるかもわからんぞ、汝になにを云ってもわかるまいが、ほんとにしっかりせんと、鮫洲の大尽の山田も、屋根へぺんぺん草が生えるぞ、しっかりしろよ、しっかり」

「しっかりするのだい」

「そうかしっかりするか、しっかりせんといかんぞ、お父さんは人が好いから、どんなことになるかも判らんぞ、しっかりしろよ、汝はまだ何も判らんが、困った奴を背負いこんだものだ、畜生、弟にまでふざける奴だ、兄貴が可哀そうだ」

「あにきって何人だい」

「何人でもいいから、しっかりしろよ、汝がしっかりしてくれんと、ぺんぺん草だぞ」

「ぺんぺん草って、なんだい」

「ぺんぺん草は、草だよ、家が潰れて、貧乏になると、ぺんぺん草が生えるのだよ」

「自家は、富豪だい」

「さあ、その富豪が、しっかりしないと潰れるのだ、家が潰れないようにするには、皆が人の道を守って、子は親に孝行するし、兄弟は仲好くするし、女房は女房で、所天を大事にしなくちゃならん、その女房が所天を痴にして、品行の悪いことをしよると、家が潰れるのだ」

「女房ってなんだい」

「お媽さんのことだよ」

「おかみさん、それじゃ自家のお母さんも、女房かい」

「そうだよ」

「それじゃ、自家のお母さんが、自家を潰すのかい」

「お母さんが潰しはしないさ、これは物の譬だよ、しかし、お母さんだって、悪いことをすりゃあ、自家が潰れるのだよ」

「そう」

「そうさ、だから、お母さんもお父さんを大切にして、痴にしちゃならんよ」

「うん」

「判ったか」

「判ったのだい」

「よく覚えとれ」

「うん」

媚びるような艶かしい声がした。

「また叔父さんに、そんなことをして、叔父さんが重いじゃありませんか」

広巳は立ち縮んだようになった。

「厭ねえ、この子は」

お高が傍へ来て立った。

「いいのだい、叔父さんはいいのだい」

「重いのですよ、叔父さんは、苦しいのですよ」

「いいのだい、いいのだい、叔父さんはいいのだい」

「いいことはありませんよ、苦しいのです、それに叔父さんは、お疲れよ」莞として反している広巳の眼を追っかけて、

「ねえ、叔父さん」

広巳はよろよろと体をよろけさした。

「あ」

広義は驚いて広巳の額に掻きついた。広巳は甥を躍らすことによって気もちの悪い対手のまつわりをすこしでも避けようとしていた。広義は騒ぎだした。

「厭だい、厭だい、びっくりさして、厭だい」

「そんなことで、びっくりする奴があるかい」

「だって、だって、黙っててやるじゃないか、厭だい、厭だい、どうしても降りないやい」

お高がまたまつわって来た。

「叔父さん、そんな小供、うっちゃりなさいよ」

「うっちゃられるものかい、厭だい、厭だい」

「だめよ、ほんとにだめよ、叔父さんはお疲れよ、だから、今晩、お母さんが精のつくものを、御馳走してあげるのだよ」ちょっと間をおいて、「叔父さん、今晩は家にいらっしゃいよ、叔父さんは、私が嫌いだから、何時も逃げるのだが、今晩は逃がさないわ、叔父さん、いいでしょう、今晩、御馳走しますからね」

広巳はまたよろよろと体をさした。広義はまた驚いた。

「痴、叔父さんの痴、痴」

広義は広巳の顔を平手でばたばたと叩いた。それには広巳が困った。

「痛い、痛い、降参、降参」

「厭だい、厭だい、痴」

広義は嬌ったれて泣き声をたてた。広巳は広義の足にやっていた手をはずしてその両手を捕えた。

「降参、降参、降参だよ」

「厭だい、厭だい」

広義は手を動かすことができなくなった。

「どうだい、もう動けないだろう」

「動けるのだ、動けるのだ」

広義は体をもがいた。

「ほんとに、叔父さんがくるしいじゃないの、おりなさいよ、それに今日は、まだ復習をしないじゃありませんか」

「厭だい、厭だい」

「この坊主、どこかへおっぽり出せ」

広巳は何かを払い落すように叫ぶなり、ぐるりと体の方向をかえて井戸の方へ走りだした。

「もし、もし」

おっとりした女の児の声がしたので広巳は足をとめて後を見た。十四五ぐらいに見える二人の少女が右側の生垣のある家から出て来たところであった。少女だちは同じように紫の矢絣の袖の長い衣服を被ていた。広巳は知らない女の児のことであるから、他の人を呼んでいるのだろうと思ってそのまま往こうとした。

「どうかお入りくださいまし」

少女だちはしとやかに頭をさげた。それでも広巳は己へ云っているとはおもわれないので、そこをはなれようとした。

「あの、もし、貴郎は、鮫洲の」

鮫洲と云えば確に鮫洲である。広巳は足をとめて少女を見なおした。

「貴郎は、山田さんでいらっしゃいましょう」

鮫洲の山田と云えば己のことである。

「鮫洲の山田ですが」

広巳は眼を見はった。少女の一人は莞とした。

「奥さまがお待ちかねでございます」

逢う約束をしている者はなかった。広巳は人違いだろうと思った。

「それは、人がちがってましょう。おいらは、いや、わたしは、鮫洲の山田広巳ですが」

「人違いではございません、貴郎でございます」

違わないと云っても己には覚えがない。

「だが、わたしは、そんな方は知らないですが」

「お入りくださいましたら、すぐお判りになります」

ついしたら不倫な嫂ではないか。だが、まさか。

「何人です」

「貴郎の御迷惑になるような方ではございません、お姓名を申しあげても、貴郎は御存じないと思いますから」

こっちは名も知らない人か、それでは嫂でもなさそうであるが、それなら何人か。己には他に交渉を持っている女はない。

「どうもおかしいなあ」

広巳は考えた。

「お入りくださいましたら、すぐお判りになります、どうぞ」

嫂でなければたいしたこともない。どこへ往こうと云う当もなしに歩いているところである。とにかく入ってみようと思いだした。広巳は前方が知っていて己の知らないと云う女に好奇心を動かした。

「ほんとに、わたしですか、人違いじゃないですか」

「けっして人違いではございません、どうかお入りくださいまし」

「そうですか、じゃ」

広巳は少女の方へ往った。垣根には茨のような白い小さな花を点々とつけていた。

「こっちですか」

こっちは判っているが何かしらきまりがわるいので聞いてみた。

「はい」

少女は紫の矢絣の袂をひるがえして前に立って往った。門の中には禿びて枝の踊っているような松の老木があり、椿の木があり、嫩葉の間から実の覗いている梅の木があって門の中を覆うていた。少女はその樹木の枝葉の間を潜って広巳を導いた。そして、ちょっと往ったところで樹木の枝葉がなくなって、お花畑のような赤白紫黄、色とりどりの葉を持ち花をつけた草庭になって、その前に枌葺の庵室のような建物があった。

四方には麗な陽があった。水の澄みきった小さな流れがあって、それがうねうねと草の間をうねっていたが、それにはかちわたりの石を置いてあった。少女はその石の上を福草履のような草履で踏んで往った。広巳はうっとりとなって少女に跟いて往った。そこには丁子の花のような匂がそこはかとしていた。少女の声が耳元でした。

「さあ、どうぞ」

建物の前には黒い虎の蹲まっているような脱沓石があった。広巳は室の中を見た。室の中には二十七八に見える面長の色のくっきり白い女が、侵されぬ気品を見せて坐っていた。

(おや)

広巳は胸のときめきをおぼえた。海晏寺の前の榎の傍で擦れちがい、八幡祠の諍闘の際に見た女にそっくりであった。女は広巳と眼をあわすなり莞とした。

「さあ、どうぞ」

「は」

はと云ったものの女の気品に押されて立ち縮んでしまった。

「他には何人もいないのよ、ささ、どうぞ」

「は」

「ほんとに何人もいないから、遠慮はいりません」少女の方を見て、「お客さんは、はにかんでいらっしゃるから、汝だちがあげておやりよ」

女は莞とした。それは己の姨さんのような温みのある詞であった。少女の微笑が聞えた。

「さあ、どうぞ」

「おあがりなさいましよ」

少女の手がそれぞれ双方の手に来た。広巳は気もちが浮きたった。

「あがります」

広巳は少女の手を揮りはらって上へあがった。広巳は笑っていた。広巳に跟いてあがった少女の一人は、女に近く座蒲団を敷いた。それは菰の葉のような蒼白い蒲団であった。

「さあ、お坐りなさい」

「は」

広巳は坐ったものの眩しいので顔を伏せた。少女の一人がもう茶を持って来た。

「どうかお茶を」

広巳はちょっと頭をさげた。女の軽く少女に云いつける声がした。

「お茶じゃ、話ができないから、あれを持っていらっしゃい」

「は」

少女は小鳥のように身を飜えして往った。広巳はやっぱり眩しかった。

「こんな処で何もありませんが、何か持って来さしますから」

何か持って来さすとは酒であろうか。ここでは謹んだうえにも謹まなくてはならない。

「どうか、それは」

「なに、こんな処ですから、何もありませんよ」

広巳は押えつけられているようで、それ以上は何も云えなかった。広巳は困っていた。そこへ少女だちが引返して来た。少女だちは広巳の前へ何かことことと置いた。

「それでは、めしあがれ、ほんとに何もありませんよ」

そこで飲食するのは何だか物の霊を汚すように思われるのであった。

「どうか、それは」

「いいでしょう、めしあがれ、貴郎は、私をあまり御存じないでしょうが、私はよく存じておりますわ」

「は」

「まあ、そう堅っくるしくしないで、めしあがれ、それじゃ話がしにくいじゃありませんか」

「は」

「男子の癖に、遠慮なんかするものじゃないことよ、貴郎は、日露戦役の勇士じゃありませんか、それに、この間はね」

女の微に笑う声がした。この間とは八幡祠のことであろう。それではやっぱり彼の女であり、海晏寺の前の榎の傍の女であったのか。広巳はそっと女の方を見た。女のあでやかな顔があった。広巳は恥かしい中にもひどく嬉しかった。

「私が判りまして」

「ああ」

「とにかく、一つめしあがれ、話がしにくいじゃありませんか」

広巳は一ぱいもらう気になった。広巳は顔をあげた。細長い脚のついた二つ三つの銀盆に菓子とも何とも判らない肴を盛ってある傍に、神酒徳利のような銚子を置いて、それに瓦盃を添えてあった。

「お酌しましょう」

少女の一人がもう銚子を持っていた。広巳は気もちがほぐれた。広巳は瓦盃を持って少女から酌をしてもらった。

「二三杯つづけてめしあがれ」

女は広巳の気もちを硬ばらさないように勤めているように見えた。広巳は一杯の酒を空けた。すると少女がもう後を充たした。

「続けてめしあがれ、そうしないと、堅っくるしくて面白い話もできないじゃないの、私いつからか、貴郎にゆっくりお眼にかかりたいと思ってたのよ、今日はやっと見つかったものだから」

やっと見つかったとは、庭でも歩いていて見つけたものであろうか。広巳の手はしぜんと瓦盃へ往った。女は詞を続けた。

「でも、貴郎は、私が判らないでしょう」

「そうです」

「今に判りますよ、判らなくたって、これからお知己になりゃ、いいでしょう」

「あ」

広巳は曖昧な返事をしてまた瓦盃を持った。瓦盃は後から後からと充たされた。

「どう、これから、お朋友になってくれます」

それは己から願うところであり、どうしてもそうしてもらわなくてはならないのであったが、はっきりとそれを口に出すことができなかった。

「あ」

「いけないの」

広巳はしかたなしに微笑して女を見た。女は気品のある顔が心もち火照っていた。

「どう」

「へ」

「厭なの」

「そ、そんな」

「それじゃ、なってくれるの」

「あ」

「どう、はっきりおっしゃいよ、まだ御酒がたりないじゃないの」

酒と云われてみると佳い気もちになっていた。

「もう、酒はたいへん」

「でも、はっきり返事ができないじゃないの」

広巳はそれを微笑で応えた。

「どう」

「もう、たいへん酔いました」

「酔ってるなら云えるじゃないの、それともこんなお婆さんとお朋友になるのは、厭」

「そ、そんな」

広巳はあわてた。

「それじゃ、なってくれるの」

「なります」

「なってくれるの、うれしいわ、ねえ、それじゃわたしに盃をくださいよ、かための盃をしようじゃないの」

「は」

広巳は瓦盃を手にした。瓦盃には酒がすこしあった。広巳はそれを飲んで盃洗ですすごうとしたが、すすぐものがないので躊躇した。

「それをいただきますよ、それがいいのよ」

「でも、これは」

「いいじゃないの、貴郎のめしあがったものじゃないの」

女の手が延びて来たので広巳はしかたなしに瓦盃をだした。

「それじゃ、貴郎がお酌をしてくださいよ」

「は」

広巳はきまりがわるいけれども、そうしろと云われてみればしないわけにはゆかない。広巳は銚子を持った。

「ちょっと」

女が心をおくので銚子の手をひかえた。

「児がいちゃ、じゃまっけだから、あっちへやりましょうよ」

それは二人でいるにこしたことはなかった。女は少女だちにつらつらと眼をやった。

「汝だちは、あっちへいらっしゃい、こんな処を見せたくないからね」

少女だちは黙っておじぎをして起った。起ったかと思うと鳥の羽ばたきをするような恰好をした。広巳は眼を見はった。少女だちの姿はみるみる鳶くらいの鳥になって、室の中から外へ出てしまった。それは広巳が八幡祠頭で見た鵜そっくりの鳥であった。広巳はぞっとして女のほうを見た。女は小さくなって恰度内裏雛のような姿を見せていた。

「わっ」

広巳は一声叫んで逃げようとした。

「おい、おい、おい」

広巳の体は忽ち何人かに押えつけられた。

「いけねえ」

広巳は揮り放して走ろうとした。相手は手を放さなかった。

「おい、山田君、どうした、しっかりしないのか、夢を見てるのか」

夢と云う声がはっきり頭に響いた。広巳はびっくりして眼を開けた。広巳は道傍に積んだ沙利の上に寝ている己を見いだした。

「どうした、山田君、どうしたのだ、こんな処に寝て」

そこには微紅い月があって一人の壮い男が己の肩に手をかけていた。広巳は対手の男を見た。

「俺だよ」

それは秋山と云う友人であった。

「けんちゃんか」

「暢気じゃないか、こんな処で寝るなんて」

沙利置場に寝ていることは判ったが、場所が判らなかった。

「ここはどこだ」

「判らないのか」

「さあ」

「困った男だな、ここは海晏寺の前の榎の傍じゃないか」

「なに」

広巳は眼をやった。なるほど枝の茂った榎の老木が月の下に見えていた。

「君、そんな処に寝ていちゃ毒だよ」

「ああ」

「何時比から寝ていたのだ」

「さあ、あちこち飲んでたから」

「判らないのか」

「ああ」

「暢気だなあ」

「ああ」

「もう、十二時まわってるよ、早く往って寝たらどうだ」

広巳は頭がはっきりしたので起きた。

「おい、けんちゃん、つきあわないか」

「どこへ往くのだ」

「品川さ」

「じょうだんじゃない、これから往ったら、夜が明けるじゃないか、早く往って寝るがいい」

「あんな処へ帰るものか、厭だい、往こう、なに、おおっぴけは、二時じゃないか、往こう」

「今晩はだめだよ、今度にしよう」何か考えて、「どうだ、俺の家へ往かないか、この比、親爺は、田舎へ往って留守なのだよ」

「そうか」

「往こう、ビールでも飲もうじゃないか」

「そうだな」

洋燈の燈は沈んでいた。そこは賢次の家の二階であった。賢次の家は蒲鉾屋であるからどことなしに魚の匂が漂うていた。広巳と賢次はそこで話していた。二人の前にはビールの壜があった。

「そんなことはないだろう、君んとこは、金はあるし、兄さんはあんないい人だし、へんじゃないか」

「そりゃ、兄貴はお人好しで、俺を児のように可愛がってくれるが、他がいけないのだ」

「他と云ったところで、姉さんばかりじゃないか、姉さんといけないのか、君を可愛がるじゃないか」

「いかん、あれはいかん」

「どうした」

広巳はさすがに口に出せなかった。

「どうと云うわけもないが」云い方を考えて、「なんと云うのか、家が収まらん、兄貴が死にでもすると、家がめちゃめちゃになるのだ」

「まさか、そんなことはないだろう、華美ずきで、あちこちへ往くようだが、てきぱきして、家のことでもなんでも、兄さんにかわってやってるじゃないか」

「それがいけないのだ、出しゃばって、華美好きな女なんて、ろくなことはしないのだ」

「無駄づかいでもするのか」

「無駄づかい、無駄づかいも、衣裳道楽とか、演劇道楽とか、そんな道楽なら、たいしたこともないが、いけないのだ」

「それじゃ、素行でもわるいのか、演劇なんかへ往ってると、俳優と関係があるとかなんとか、人はへんなことを云いたがるものだよ、何かそんな噂でもあるのか」

「そりゃ聞かないが、あんな女だから、そんなことを云われてもしかたがないよ、困った奴よ、児は小さいし、もし、兄貴でも死んだら、どうなるか判らないからね」

「兄さんが死んでも君がありゃ、大丈夫じゃないか、君が広坊の後見をして、しっかりやるなら、なんでもないじゃないか、それとも姉さんが、君を邪魔者にして、兄さんにたきつけるのか」

「そうでもないが、姉貴はじめ、家の雰囲気が厭なんだ」

「そうか」賢次はふと考えて、「君、いっそお媽さんをもらって、別家したらどうだ、気もちがかわって、いいじゃないか」

「俺は、今、細君をもらう気がしないのだ」

「何故だ」

「何故と云うこともないが、もらう気がしない」

その時階下から嬰児の泣き声が聞えて来た。それは賢次の児であった。賢次はとうに妻帯して二人の児があった。

「児が出来て、ぴいぴい泣かれちゃ困るが、君は、お媽さんをもらうといいと思うね、そうすりゃあ気もちがかわって、いいよ、今晩だって、沙利の上なんかに寝てて、体をこわすよ」思いだして、「夢を見てたのか、ひどくあわててたじゃないか」

広巳の唇に微笑いが浮んだ。

「うん」

「どんな夢だ」

広巳はビールを一口飲んだ。

「へんな夢だよ、俺が歩いてると、二人の女の子が出て来て、奥さんがお待ちかねだと云うから、往ってみると、奥さんらしい女がいて、響応になってると、女が盃をくれと云うので、やろうとしているうちに、二人の女の子は鵜になって飛ぶし、女は内裏雛のようになったのだよ」

「それで、びっくりしたのか」

「そうだろう」広巳は笑って頭を掻いて、「へんな夢だよ」

「女の子が鵜になった、鵜になるはへんだね、なにかい、この比鵜を見たことがあるかい」

「見た、何時か品川の帰りに、あすこの八幡様へ入ってみると、天水桶さ、あの拝殿の傍にある鋳鉄の縁に、鵜がいて、ばさばさやってたのだ、ありゃあすこの池にいるだろうか」

「さあ、それは知らないが、それを見たのか」

「そうだよ」

「蒲鉾にいろいろの魚を入れるように、夢も見た材料で出来るのだね」

「そうだなあ」

「それじゃ、その奥さんのような女は、どうだ」

広巳はにやりとした。

「見たのだ」

「だろう」賢次もにやりとして、「おかっぽれだな」

「人間と判っとるなら、おかっぽれかも判らないが、それがへんだよ」

「どうしたのだ」

「それがおかしいのだ、まだ寒い時、俺が今往ってた榎の傍を通ってると、二十七八の上品な佳い女が通ってたのだ、夜一人で通ってるから、どこかそのあたりの人だろうと思っていると、鵜を見た日なんだ、くたびれたから、休んでると、へんな奴が二人来て、俺を盗人が午睡してると云うから、撲りつけて諍闘になったところへ、その女が来て仲裁してくれたのだ、それで俺は八幡様を出て来たものの、その女の素性を確めようと思って、引返してみると、女はいないで、諍闘の時にいた社務所の爺さんが、拝殿の横に腰をかけて、仮睡してたから、聞いてみると、あれは水神様だ、人間じゃないと云うのだ、それだよ、夢に出て来たのは」

「君んとこは、すこしへんだぜ、蛇が出て来たり、蟻の塔が出来たり、どうかしてるのじゃないか、神様が出て来て諍闘の仲裁なんかするものか」

茶かすつもりであった詞の端に何か神秘的なものがつながった。賢次は洋燈へ眼をやった。心の切りようでもわるいのか、洋燈は火屋の一方が黒く鬼魅わるく煤けていた。広巳はその時頷いた。

「そうだよ、俺の家には、魔がさしているのだよ」

「まさか、そうでもないだろうが、あまり迷信はいけないね」

「そうとも」

お杉は三畳の微暗い茶室へ出て来て、そこの長火鉢によりかかっている所天の長吉に声をかけた。それは十時比であった。外出の千条になった糸織を着た老婆の頭には、結いたての銀杏返がちょこなんと乗っかっていた。

「それじゃ、おまえさん、往って来るよ」

黄ろな顔の狭長い長吉は、眼が見えないので手探りに煙草を詰めているところであった。

「どこへ往くのだ」

長吉の声は乾からびていた。

「どこだっていいじゃないか、聞いてどうするの」

お杉の声は憎にくしかった。

「どうもしねえが、聞いてみたところさ、だしぬけに往って来ると云うから、どこへ往くか聞いたじゃねえか」

「だから、聞いてどうすると云ってるじゃないの」

「どうもしねえが、聞いたっていいじゃねえか、家の細君の往く前ぐらい聞いたっていいじゃねえか」

「家の細君を、一人で出すのが心配になるとでも云うのかい」

「そうじゃねえ」

「それじゃ、毎日遊んで、細君に稼がしては気のどくだから、たまにはかわりに往ってくれるとでも云うのかい」

長吉は黙って掌で燠の見当をつけて煙草を点けた。お杉の顔は嘲りでいっぱいになっていた。お杉は次の室へ顔をやった。

「お鶴、聞いたかい」

晴れた外気を映した明るい室には、メリンスの長襦袢になった娘のお鶴が、前方向きになって鏡台に向って髪を掻いていた。母親似の額の出た赧ら顔が鏡に映っていた。

「なにをよ」

「なにって、家の旦那さまが、家の細君の往く前ぐらい、聞いたっていいじゃないかとおっしゃるのだよ」

「そう、心配になるでしょうよ」

「なに、毎日細君に稼がして、家で無駄飯を喫ってはすまないから、かわりにでも往ってくれるだろうよ」

「それじゃ、往ってもらったらいいじゃないの、とんとん走って往くでしょうよ」

「往ってもらおうかね、家には、皆りっぱな男が揃ってるから、何かの時にゃたのもしいよ」

「そうねえ、矜羯羅のように走る男もあれば、千里眼の人もあるし、何かのばあいは、心丈夫だよ」

「稼ぎは出来るしね、わたしも安心だよ」

かちりと煙管をすてる音がした。

「おい」

長吉の声は一段と小さくなった。お杉は長吉のいることを忘れていた。

「なんだね」

「まあさ」

「まあさがどうしたと云うのだね」

「まあ、ちょっと坐れ」

「坐れ、このせわしいのに、どうしようと云うの」

「まあさ、ちょっとだ」

「ちょっと、どうするの」

「ちょっとでいいから坐ってくれ、話がある」

「なんの話なの」

「なんでもいい、ちょっとでいい」

「また愚痴かい」

「愚痴じゃない」

「煩いね」

「まあ、そう云うな、話だ」

「出かけなくちゃならないに、困るじゃないの」

「そんなに、てまをとることじゃない」

「てまをとられてたまるものかね」

「まあ、いい、たった一口云えばいい」

お杉はしかたなしに蹲んだ。

「なんだね、早くお云いよ」

長吉はお杉の声に見当をつけて顔を出した。

「おい、おまえ、俺のことはかまわないが」ちょっと詞をきって、「脚のことは云うなと云ってあるじゃねえかよ」

お杉は嘲り笑いを浮べた。

「なんだね、なにを云うかと思や」

「いや、いかん、それは云うものじゃねえぞ」

「なにも、べつに云やしないじゃないか」

「いや、いかんぞ、そいつは、いいか」

「だって、なにも云やしないじゃないの」

「云わなけりゃいいが、云うなよ、いいか、頼むぞ」

「判ったよ」

「いいか、それじゃ云うのじゃねえぜ、人の嫌がることを云ったり、したりするものは、ろくなことはない、雷さんの悪口を云ってて、天気もわるくないのに、雷さまが落っこちたと云うからな」

「また、おはこかい、ばかばかしい」外出のことを思いだして、「奥さまがお待ちかねだ、ゆるゆるしちゃいられないよ」

「それじゃ、山田さんか」

「どこでもいいじゃないか」お鶴の方を見て、「それじゃ、お鶴往ってくるからね、ついすると遅くなるかも判らないよ」

お鶴は起って衣服を被かえていた。

「いいよ」

「おまえは、遅い」

「わたしも奥さんのつごうで、どうなるか判らないよ、解き物があると云ってらしたから」

「そうかい、それじゃ往くがいい」

お杉はそのまま一方の襖を啓けて姿を消して往った。そして、何か云っていたがすぐ聞えなくなった。長吉は傍におろしてあった土瓶をそっと執って火鉢にかけた。

「人間は、あまりあこぎを云うものじゃねえや」

長吉は厭なものを吐きだすように云ってから口をつぐんだ。短冊のような型のある緋い昼夜帯を見せたお鶴が、小料亭の婢のような恰好をして入って来た。

「お父さん、往って来るよ」

長吉はびっくりしたように顔をあげた。

「小栗さんか」

「そうよ」

お鶴もお杉の出て往った方から姿を消して往った。そして、十分位するとがたびしと云う音がして、二人の出て往った処から壮い男が這って来た。壮い男は右の方の脚は骭から下がなかった。壮い男はばったの飛ぶようにして長吉の前へ来た。

「音か」

それは長吉の甥の音蔵であった。音蔵は砲兵工廠に勤めていて、病菌が入ったので脚を切断したものであった。

「叔父さん」

音蔵の声は顫えを帯びていた。音蔵は這ったままであった。

「どう、どうしたのだ」

「お、おじさん、お、おいらは、叔父さんにすまないが、きょう、かぎり、叔父さんとこを出るのだ」

長吉はあわてた。

「ど、どうして、そ、そんな、そんなことを云うのだ、そんなことを」

「おじさん、叔父さんの親切は、おいらは、死んでも忘れないが、叔父さん、おいらはつくづく考えた、叔父さんにはすまないが、おいらは、今日かぎり、出て往くのだ」

「そりゃ、判ってる、判ってる、判ってるがここが忍耐だ、まあ、気を大きくして、時節を待て、よく判ってる、あの二人は人間じゃない、おまえが居づらいのは判ってる、すまない」

「いや、叔父さん、おいらこそ、叔父さんにすまない、おいらがいるために、叔父さんが板ばさみになっているのだ、叔父さんにすまない、おいらは諦めた」

「ま、待ってくれ、つらかろうが、もすこし忍耐してくれ、そのうちには、叔母さんも考えてくる」

「叔父さん、もういい、おいらは、おいらが世話になっているために、眼の不自由な叔父さんが、なお苦しんでいるのだ、おいらは叔父さんにすまない」

「待て、待て、なに、叔母さんも何時までもあんなじゃない、そのうちには考えて来る、おまえもそのうちには、何かいい目が出る、人間は忍耐が第一じゃ、忍耐してくれ、それでお鶴も、考えなおしてくれたら、二人で世帯を持って、おいらと叔母さんの面倒を見てくれ」

音蔵は内職の袋張をして食費を入れていた。

「すまない、叔父さんにはすまないが、おいらはもう諦めた」

「まて、これ」

長吉は黄ろに萎びた手を出した。音蔵もそれと見ると思わず一方の手を出してそれを握った。音蔵の頬には涙が流れていた。こうして不幸な叔甥が手を執りあって泣いている時、お杉はお高の室へ往ってお高に逢っていた。

「大喜びでございますよ、りっぱな奥さまに呼んでいただくのですもの、喜ばないでどうするものですか、罰があたりますよ」

お杉は己まで嬉しいと云うような顔をしていた、お高は微笑した。

「そう、それじゃいいね」

「よろしゅうございますとも、待っていられないから、前へ出かけて往ってるかも判りませんよ」

「どうだか」

「ほんとでございますよ」

「前方は大丈夫だろうね」

「大丈夫でございますよ、あすこは裏門から出入ができますからね」

「そう、それじゃ大丈夫だね、厭な奴に見られちゃ困るからね」

「大丈夫でございますよ」

「それじゃ、出かけようかね」

「お宅の方は、よろしゅうございますか」

「いいとも、今日も、また、あの蛇が出て、大騒ぎをしてるから、いいのだよ」

「そうでございますか」

Chapter 1 of 12