Chapter 1 of 18

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一月一日。………僕ハ今年カラ、今日マデ日記ニ記スコトヲ躊躇シテイタヨウナ事柄ヲモアエテ書キ留メルニシタ。僕ハ自分ノ性生活ニ関スル、自分ト妻トノ関係ニツイテハ、アマリ詳細ナハ書カナイヨウニシテ来タ。ソレハ妻ガコノ日記帳ヲ秘カニ読ンデ腹ヲ立テハシナイカトイウヲ恐レテイタカラデアッタガ、今年カラハソレヲ恐レヌニシタ。妻ハコノ日記帳ガ書斎ノドコノ抽出ニハイッテイルカヲ知ッテイルニ違イナイ。古風ナ京都ノ舊家ニ生レ封建的ナ空気ノ中ニ育ッタ彼女ハ、今日モナオ時代オクレナ舊道徳ヲ重ンズル一面ガアリ、或ル場合ニハソレヲ誇リトスル傾向モアルノデ、マサカ夫ノ日記帳ヲ盗ミ読ムヨウナハシソウモナイケレドモ、シカシ必ズシモソウトハ限ラナイ理由モアル。今後従来ノ例ヲ破ッテ夫婦生活ニ関スル記載ガ頻繁ニ現ワレルヨウニナレバ、果シテ彼女ハ夫ノ秘密ヲ探ロウトスル誘惑ニ打チ勝チ得ルデアロウカ。彼女ハ生レツキ陰性デ、秘密ヲ好ム癖ガアルノダ。彼女ハ知ッテイルデモ知ラナイ風ヲ装イ、心ニアルヲ容易ニ口ニ出サナイノガ常デアルガ、悪イコトニハソレヲ女ノ嗜ミデアルトモ思ッテイル。僕ハ、日記帳ヲ入レテアル抽出ノ鍵ハイツモ某所ニ隠シテアルノダガ、ソシテ時々ソノ隠シ場所ヲ変エテイルノダガ、詮索好キノ彼女ハ事ニヨルト過去ノアラユル隠シ場所ヲ知ッテシマッテイルカモ知レナイ。モットモソンナ面倒ヲシナイデモ、アンナ鍵ハイクラデモ合イ鍵ヲ求メルガデキヨウ。………僕ハ今「今年カラハ読マレルヲ恐レヌニシタ」ト云ッタガ、考エテミルト、実ハ前カラソンナニ恐レテハイナカッタノカモ知レナイ。ムシロ内々読マレルヲ覚悟シ、期待シテイタノカモ知レナイ。ソレナラバナゼ抽出ニ鍵ヲ懸ケタリマタソノ鍵ヲアチラコチラヘ隠シタリシタノカ。ソレハアルイハ彼女ノ捜索癖ヲ満足サセルタメデアッタカモ知レナイ。ソレニ彼女ハ、モシ僕ガ日記帳ヲ故意ニ彼女ノ眼ニ触レヤスイ所ニ置ケバ、「コレハ私ニ読マセルタメニ書イタ日記ダ」ト思イ、書イテアルヲ信用シナイカモ知レナイ。ソレドコロカ、「ホントウノ日記ガモウ一ツドコカニ隠シテアルノダ」ト思ウカモ知レナイ。………郁子ヨ、ワガ愛スルイトシノ妻ヨ、僕ハオ前ガ果シテコノ日記ヲ盗ミ読ミシツツアルカドウカヲ知ラナイ。僕ガオ前ニソンナヲ聞イテモ、オ前ハ「人ノ書イタモノヲ盗ミ読ミナドイタシマセン」ト答エルニキマッテイルカラ、聞イタトコロデ仕方ガナイ。ダガモシ読ンデイルノデアッタラ、決シテコレハ偽リノ日記デナイヲ、コノ記載ハスベテ真実デアルヲ信ジテホシイ。イヤ、疑イ深イ人ニ向ッテコウイウヲ云ウトカエッテ疑イヲ深クサセル結果ニナルカラ、モウ云ウマイ。ソレヨリコノ日記ヲ読ンデサエクレレバソノ内容ニ虚偽ガアルカ否カハ自然明ラカニナルデアロウ。

モトヨリ僕ハ彼女ニ都合ノヨイバカリハ書カナイ。彼女ガ不快ヲ感ズルデアロウヨウナ、彼女ノ耳ニ痛イヨウナモ憚カラズ書イテ行カネバナラナイ。モトモト僕ガコウイウヲ書ク気ニナッタノハ、彼女ノアマリナ秘密主義、―――夫婦ノ間デ閨房ノヲ語リ合ウサエ恥ズベキトシテ聞キタガラズ、タマタマ僕ガ猥談メイタ話ヲシカケルトタチマチ耳ヲ蔽ウテシマウ彼女ノイワユル「身嗜ミ」、ア 偽善的ナ「女ノラシサ」、アノワザトラシイオ上品趣味ガ原因ナノダ。連レ添ウテ二十何年ニモナリ、嫁入リ前ノ娘サエアル身デアリナガラ、寝床ニハイッテモイマダニタダ黙々ト事ヲ行ウダケデ、ツイゾシンミリトシタ睦言ヲ取リ交ソウトシナイノハ、ソレデモ夫婦トイエルデアロウカ。僕ハ彼女ト直接閨房ノヲ語リ合ウ機会ヲ与エラレナイ不満ニ堪エカネテコレヲ書ク気ニナッタノダ。今後ハ僕ハ、彼女ガコレヲ実際ニ盗ミ読ミシテイルト否トニカカワラズ、シテイルモノト考エテ、間接ニ彼女ニ話シカケル気持デコノ日記ヲツケル。

何ヨリモ、僕ガ彼女ヲ心カラ愛シテイル、―――コノハ前ニモタビタビ書イテイルガ、ソレハ偽リノナイデ、彼女ニモヨク分ッテイルト思ウ。タダ僕ハ生理的ニ彼女ノヨウニアノ方ノ慾望が旺盛デナク、ソノ点デ彼女ト太刀打チデキナイ。僕ハ今年五十六歳(彼女ハ四十五ニナッタハズダ)ダカラマダソンナニ衰エル年デハナイノダガ、ドウイウワケカ僕ハアノニハ疲レヤスクナッテイル。正直ニ云ッテ、現在ノ僕ハ週ニ一回クライ、―――ムシロ十日ニ一回クライガ適当ナノダ。トコロガ彼女ハ(コンナヲ露骨ニ書イタリ話シタリスルヲ彼女ハ最モ忌ムノデアル)腺病質デシカモ心臓ガ弱イニモカカワラズ、アノ方ハ病的ニ強イ。サシアタリ僕ガハナハダ当惑シ、参ッテイルノハ、コノ一事ナノダ。僕ハ夫トシテ、彼女ニ十分ノ義務ヲ果タシ得ナイノハ申シワケガナイケレドモ、ソウカトイッテ、彼女ガソノ不足ヲ補ウタメニ、モシ仮リニ、―――コンナヲ云ウト、私ヲソンナミダラナ女ト思ウノデスカト怒ルデアロウガ、コレハ「仮リニ」ダ、―――他ノ男ヲ拵エタトスルト、僕ハソレニハ堪エラレナイ。僕ハソンナ仮定ヲ想像シタダケデモ嫉妬ヲ感ズル。ノミナラズ彼女自身ノ健康ノヲ考エテモ、アノ病的ナ慾求ニ幾分ノ制御ヲ加エタ方ガヨイノデハアルマイカ。………僕ガ困ッテイルノハ、僕ノ体力ガ年々衰エヲ増シツツアルダ。近頃ノ僕ハ性交ノ後デ実ニ非常ナ疲労ヲ覚エル。ソノ日一日グッタリトシテモノヲ考エル気力モナイクライニ。………ソレナラ僕ハ彼女トノ性交ヲ嫌ッテイルノカトイウト、事実ハソレノ反対ナノダ。僕ハ義務ノ観念カラ強イテ情慾ヲ駆リ立テテイヤイヤ彼女ノ要求ニ応ジテイルノデハ断ジテナイ。僕ハ幸カ不幸カ彼女ヲ熱愛シテイル。ココデ僕ハ、イヨイヨ彼女ノ忌避ニ触レル一点ヲ発カネバナラナイガ、彼女ニハ彼女自身全ク気ガ付イテイナイトコロノ或ル独得ナ長所ガアル。僕ガモシ過去ニ、彼女以外ノ種々ノ女ト交渉ヲ持ッタ経験ガナカッタナラバ、彼女ダケニ備ワッテイルアノ長所ヲ長所ト知ラズニイルデモアロウガ、若カリシ頃ニ遊ビヲシタノアル僕ハ、彼女ガ多クノ女性ノ中デモ極メテ稀ニシカナイ器具ノ所有者デアルヲ知ッテイル。彼女ガモシ昔ノ島原ノヨウナ妓楼ニ売ラレテイタトシタラ、必ズヤ世間ノ評判ニナリ、無数ノ嫖客ガ競ッテ彼女ノ周囲ニ集マリ、天下ノ男子ハ悉ク彼女ニ悩殺サレタカモ知レナイ。(僕ハコンナヲ彼女ニ知ラセナイ方ガヨイカモ知レナイ。彼女ニソウイウ自覚ヲ与エルハ、少クトモ僕自身ノタメニ不利カモ知レナイ。シカシ彼女ハコレヲ聞イテ、果シテ自ラ喜ブデアロウカ恥ジルデアロウカ、アルイハマタ侮辱ヲ感ジルデアロウカ。多分表面ハ怒ッテ見セナガラ、内心ハ得意ニ感ジルヲ禁ジ得ナイノデハナカロウカ)僕ハ彼女ノアノ長所ヲ考エタダケデモ嫉妬ヲ感ズル。モシモ僕以外ノ男性ガ彼女ノアノ長所ヲ知ッタナラバ、ソシテ僕ガソノ天与ノ幸運ニ十分酬イテイナイヲ知ッタナラバ、ドンナガ起ルデアロウカ。僕ハソレヲ考エルト不安デモアリ、彼女ニ罪深イヲシテイルトモ思イ、自責ノ念ニ堪エラレナクナル。ソコデ僕ハイロイロナ方法デ自分ヲ刺戟シヨウトスル。タトエバ僕ハ僕ノ性慾点―――僕ハ眼ヲツブッテ眼瞼ノ上ヲ接吻シテ貰ウ時ニ快感ヲ覚エル、―――ヲ彼女ニ刺戟シテ貰ウ。マタ反対ニ僕ガ彼女ノ性慾点―――彼女ハ腋ノ下ヲ接吻シテ貰ウヲ好ムノデアル、―――ヲ刺戟シテ、ソレニヨッテ自分ヲ刺戟シヨウトスル。シカルニ彼女ハソノ要求ニサエアマリ快クハ応ジテクレナイ。彼女ハソウイウ「不自然ナ遊戯」ニ耽ルヲ欲セズ、飽クマデモオーソドックスナ正攻法ヲ要求スル。正攻法ニ到達スル手段トシテノ遊戯デアルヲ説明シテモ、彼女ハココデモ「女ラシイ身嗜ミ」ヲ固守シテソレニ反スル行為ヲ嫌ウ。彼女ハマタ僕ガ足ノ fetishist デアルヲ知ッテイナガラ、カツ彼女ハ自分ガ異常ニ形ノ美シイ足(ソレハ四十五歳ノ女ノ足ノヨウニハ思エナイ)ノ所有者デアルヲ知ッテイナガラ、イヤ知ッテイルガユエニ、メッタニソノ足ヲ僕ニ見セヨウトシナイ。真夏ノ暑イ盛リデモ彼女ハ大概足袋ヲ穿イテイル。セメテソノ足ノ甲ニ接吻サセテクレト云ッテモ、マア汚イトカ、コンナ所ニ触ルモノデハアリマセントカ云ッテ、ナカナカ願イヲ聴イテクレナイ。ソレヤコレヤデ僕ハ一層手ノ施シヨウガナクナル。………正月早々愚痴ヲナラベル結果ニナッテ僕モイササカ恥カシイガ、デモコンナモ書イテオク方ガヨイト思ウ。明日ノ晩ハ「ヒメハジメ」デアル。オーソドックスヲ好ム彼女ハ毎年ノ吉例ニ従イ、必ズソノ行事ヲ厳粛ニ行ワナケレバ承知シナイデアロウ。………

一月四日。………今日は珍しい事件に出遇った。三ガ日の間書斎の掃除をしなかったので、今日の午後、夫が散歩に出かけた留守に掃除をしにはいったら、あの水仙の活けてある一輪しの載っている書棚の前に鍵が落ちていた。それは全く何でもないことなのかも知れない。でも夫が何の理由もなしに、ただ不用意にあの鍵をあんな風に落しておいたとは考えられない。夫は実に用心深い人なのだから。そして長年の間毎日日記をつけていながら、かつて一度もあの鍵を落したことなんかなかったのだから。………私はもちろん夫が日記をつけていることも、その日記帳をあの小机の抽出に入れて鍵をかけていることも、そしてその鍵を時としては書棚のいろいろな書物の間に、時としては床の絨緞の下に隠していることも、とうの昔から知っている。しかし私は知ってよいことと知ってはならないこととの区別は知っている。私が知っているのはあの日記帳の所在と、鍵の隠し場所だけである。決して私は日記帳の中を開けて見たりなんかしたことはない。だのに心外なことには、生来疑い深い夫はわざわざあれに鍵をかけたりその鍵を隠したりしなければ、安心がならなかったのであるらしい。………その夫が今日その鍵をあんな所に落して行ったのはなぜであろうか。何か心境の変化が起って、私に日記を読ませる必要を生じたのであろうか。そして、正面から私に読めと云っても読もうとしないであろうことを察して、「読みたければ内証で読め、ここに鍵がある」と云っているのではなかろうか。そうだとすれば、夫は私がとうの昔から鍵の所在を知っていたことを、知らずにいたということになるのだろうか? いや、そうではなく、「お前が内証で読むことを僕も今日から内証で認める、認めて認めないふりをしていてやる」というのだろうか?………

まあそんなことはどうでもよい。かりにそうであったとしても、私は決して読みはしない。私は自分でここまでときめている限界を越えて、夫の心理の中にまではいり込んで行きたくない。私は自分の心の中を人に知らせることを好まないように、人の心の奥底を根掘り葉掘りすることを好まない。ましてあの日記帳を私に読ませたがっているとすれば、その内容には虚偽があるかも知れないし、どうせ私に愉快なことばかり書いてあるはずはないのだから。夫は何とでも好きなことを書いたり思ったりするがよいし、私は私でそうするであろう。実は私も、今年から日記をつけ始めている。私のように心を他人に語らない者は、せめて自分自身に向って語って聞かせる必要がある。ただし私は自分が日記をつけていることを夫に感づかれるようなヘマはやらない。私はこの日記を、夫の留守の時を窺って書き、絶対に夫が思いつかない或る場所に隠しておくことにする。私がこれを書く気になった第一の理由は、私には夫の日記帳の所在が分っているのに、夫は私が日記をつけていることさえも知らずにいる、その優越感がこの上もなく楽しいからである。………

一昨夜は年の始めの行事をした。………あゝ、こんなことを筆にするとは何という恥かしさであろう。亡くなった父は昔よく「慎レ独」ということを教えた。私がこんなことを書くのを知ったら、どんなにか私の堕落を歎くであろう。……夫は例により歓喜の頂天に達したらしいが、私はまた例により物足りなかった。そしてその後の感じがたまらなく不快であった。夫は彼の体力が続かないのを恥じ、私に済まないということを毎度口にする半面、夫に対して私が冷静過ぎることを攻撃する。その冷静という意味は、彼の言葉に従えば私は「精力絶倫」で、その方面では病的に強いけれども、私のやり方はあまりにも「事務的」で、「ありきたり」で、「第一公式」で、変化がないというのである。平素何事につけても消極的で、控え目である私が、あのことにだけは積極的であるにもかかわらず、二十年来常に同じメソッド、同じ姿勢でしか応じてくれないというのである。―――そのくせ夫はいつも私の無言の挑みを見逃さず、私の示すほんの僅かな意志表示にも敏感で、直ちにそれと察しるのである。それはあるいは、私の頻繁過ぎる要求に絶えず戦々兢々としている結果、かえってそんな風になるのかも知れない。―――私は実利一点張りで、情味がないのだそうである。僕がお前を愛している半分も、お前は僕を愛していないと、夫は云う。お前は僕を単なる必要品としか、―――それも極めて不完全な必要品としか考えていない、お前がほんとうに僕を愛しているなら、もっと熱情があってもよいはずだ、いかなる僕の註文にも応じてくれるはずだと云う。僕が十分にお前を満足させ得ない一半の責めはお前にある、お前がもっと僕の熱情をかき立てるようにしてくれれば、僕だってこんなに無力ではない、お前は一向そういう努力をしようとせず、自ら進んでその仕事に僕と協力してくれない、お前は食いしんぼうの癖に手を拱いて据え膳の箸を取ることばかり考えていると云い、私を冷血動物で意地の悪い女だとさえ云う。

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