Chapter 1 of 4

1

むかし/\、まだ愛親覚羅氏の王朝が、六月の牡丹のやうに栄え耀いて居た時分、支那の大都の南京に孟世と云ふ、うら若い貴公子が住んで居ました。此の貴公子の父なる人は、一と頃北京の朝廷に仕へて、乾隆の帝のおん覚えめでたく、人の羨むやうな手柄を著はす代りには、人から擯斥されるやうな巨万の富をも拵へて、一人息子の世が幼い折に、此の世を去つてしまひました。すると間もなく、貴公子の母なる人も父の跡を追うたので、取り残された孤児の世は、自然と山のやうな金銀財宝を、独り占めにする身の上となつたのです。

年が若くて、金があつて、おまけに由緒ある家門の誉を受け継いだ彼は、もう其れだけでも充分仕合はせな人間でした。然るに仕合はせは其れのみならず、世にも珍しい美貌と才智とが、此の貴公子の顔と心とに恵まれて居たのです。彼の持つて居る夥しい貲財や、秀麗な眉目や、明敏な頭脳や、其れ等の特長の一つを取つて比べても、南京中の青年のうちで、彼の仕合はせに匹敵する者は居ませんでした。彼を相手に豪奢な遊びを競ひ合ひ、教坊の美妓を奪ひ合ひ、詩文の優劣を争ふ男は、誰も彼も悉く打ち負かされてしまひました。さうして南京に有りと有らゆる、煙花城中の婦女の願ひは、たとへ一と月半月なりと、あの美しい貴公子を自分の情人にする事でした。

世は、斯う云ふ境遇に身を委ねて、漸く総角の除れた頃から、いつとはなしに遊里の酒を飲み初め、其の時分の言葉で云ふ、窃玉偸香の味を覚えて、二十二三の歳までには、凡そ世の中の放蕩と云ふ放蕩、贅沢と云ふ贅沢の限りを仕尽してしまひました。そのせゐか近頃は、頭が何となくぼんやりして、何処へ行つても面白くないので、終日邸に籠居したまゝ、うつらうつらと無聊な月日を送つて居ます。

「どうだい君、此の頃はめつきり元気が衰へたやうだが、ちと町の方へ遊びに出たらいゝぢやないか。まだ君なんぞは、道楽に飽きる年でもないやうだぜ。」

悪友の誰彼が、斯う云つて誘ひに来ると、いつも貴公子は慵げな瞳を据ゑて、高慢らしくせゝら笑つて答へるのです。

「うん、………己だつてまだ道楽に飽きては居ない。しかし遊びに出たところで、何が面白い事があるんだい。己にはもう、有りふれた町の女や酒の味が、すつかり鼻に着いて居るんだ。ほんたうに愉快な事がありさへすれば、己はいつでもお供をするが、………」

貴公子の眼から見ると、年が年中同じやうな色里の女に溺れて、千篇一律の放蕩を謳歌して居る悪友どもの生活が、寧ろ不憫に思はれる事さへありました。若しも女に溺れるならば、普通以上の女でありたい。若し放蕩を謳歌するなら、常に新しい放蕩でありたい。貴公子の心の底には、斯う云ふ慾望が燃えて居るのに、其の慾望を満足させる恰好な目標が見当らないので、よんどころなく彼は閑散な時を過して居るのでした。

しかし、世の財産は無尽蔵でも、彼の寿命は元より限りがありますから、さういつ迄も美しい「うら若さ」を保つ訳には行きません。貴公子も折々其れを考へると、急に歓楽が欲しくなつて、ぐづ/\しては居られないやうな気分に襲はれる事があります。何とかして今のうちに、現在自分の持つて居る「うら若さ」の消えやらぬ間に、もう一遍たるんだ生活を引き搾つて、冷えかゝつた胸の奥に熱湯のやうな感情を沸騰させたい。連夜の宴楽、連日の讌戯に浸りながら、猶倦むことを知らなかつた二三年前の昂奮した心持ちに、どうかして今一度到達したい。などゝ焦つては見るのですが、別段今日になつて、彼を有頂天にさせるやうな、香辣な刺戟もなければ斬新な方法もないのです。もはや歓楽の絶頂を極め、痴狂の数々を経験し尽した彼に取つて、もう其れ以上の変つた遊びが、此の世に存在する筈はありませんでした。

そこで貴公子は仕方なしに、自分の家の酒庫にある、珍しい酒を残らず卓上へ持ち来らせ、又町中の教坊に、四方の国々から寄り集まつた美女の内で、殊更才色のめでたい者を七人ばかり択び出させ、其れを自分の妾に直して、各々七つの綉房に住まはせました。酒の方では、先づ第一が甜くて強い山西の安酒、淡くて柔かい常州の恵泉酒、其の外蘇州の福珍酒だの、湖州の烏程潯酒だの、北方の葡萄酒、馬酒、梨酒、棗酒から、南方の椰漿酒、樹汁酒、蜜酒の類に至るまで、四百余州に名高い佳醴芳醇は、朝な夕なの食膳に交る交る盃へ注がれて、貴公子の唇を湿ほしました。しかし此れ等の酒の味も、以前に度び度び飲み馴れて居る貴公子の舌には、其れ程新奇に感ずる筈がありません。飲めば酔ひ、酔へば愉快になるものゝ、何となく物足りない心地がして、昔のやうに神思飄たる感興は、一向胸に湧いて来ないのです。

「どうして内の御前さまは、毎日あんなに鬱ぎ込んで、退屈らしい顔つきばかりなすつていらつしやるのだらう。」

七人の妾たちは、互ひに斯う云つて訝りながら、有らん限りの秘術をつくして、貴公子の御機嫌を取り結びます。紅々と云ふ、第一の妾は声が自慢で、隙さへあれば愛玩の胡琴を鳴らしつゝ、婉転として玉のやうな喉を弄び、鶯々と云ふ、第二の妾は秀句が上手で、機に臨み折に触れては面白をかしい話題を捕へ、小禽のやうな絳舌蜜嘴をぺらぺらと囀らせる。肌の白いのを得意として居る、第三の妾の窈娘は、動ともすると酔に乗じて、神々しい二の腕の膩肉を誇り、愛嬌を売り物にする第四の妾の錦雲は、いつも豊頬に腮窩を刻んで、さもにこやかにほゝ笑みながら、柘榴の如き歯列びを示し、第五、第六、七の妾たちも、それ/″\己れの長所を恃んで、頻りに主人の寵幸を争ふのです。けれども貴公子は、此の女たちの孰れに対しても、格別強い執着を抱く様子がありません。世間普通の眼から見ると、彼等は絶世の美人に違ひありませんが、驕慢な貴公子を相手にしては、やはり酒の味と同じやうに、折角の嬌態が今更珍しくも美しくも見えないのです。斯う云ふ風で、次ぎから次ぎへと絶えず芳烈な刺戟を求め、永劫の歓喜、永劫の恍惚に、心身を楽しませようと云ふ貴公子の願ひは、なか/\一と通りの酒や女の力を以て、遂げられる訳がないのでした。

「金はいくらでも出してやるから、もつと変つた酒はないか。もつと美しい女は居ないか。」

貴公子の邸へ出入する商人共は、常に斯う云ふ注文を受けて居ながら、未だ嘗て彼の賞讃を博する程の、立派な品を齎した者は居ませんでした。中にはまた、物好きな貴公子の噂を聞いて、金が欲しさに諸所方々の国々から、えたいの知れないまやかし物を、はるばると売り附けに来る奸商があります。

「御前さま、此れは私が西安の老舗の庫から見つけ出した、千年も前の酒でございます。何でも此れは唐の昔に、張皇后がお嗜みになつたと云ふ、有名な※脳酒だと申します。又此の方は、同じく唐の順宗皇帝がお好みになつた、竜膏酒ださうでございます。嘘だと思し召すならば、よく酒壺の古色を御覧下さいまし。千年前の封印が、此の通り立派に残つて居ります。」

こんな工合に持ちかけるのを、人の悪い貴公子は、黙々として聞き終つてから、さて徐ろに皮肉を云ひました。

「いや、お前の能弁には感心するが、己を欺さうと云ふ了見なら、もう少し物識りになるがいゝ。其の酒壺は江南の南定窯と云ふ奴で、南宋以前にはなかつた代物だ。唐の名酒が宋の陶器に封じてあるのは滑稽過ぎる。」

斯う云はれると商人は一言もなく、冷汗を掻いて引き退つてしまひます。実際、陶器に限らず、衣服でも宝石でも絵画でも刀剣でも、あらゆる美術工芸に関する貴公子の鑒識は、気味の悪いくらゐ該博で、支那中の考古学者と骨董家とが集まつても、到底彼の足元にすら及ばない事は確かでした。女を売りに来る輩も、うるさい程多勢あつて、めい/\勝手な手前味噌を列べ立てます。

「御前さま、今度と云ふ今度こそ、素晴らしい玉が見つかりました。生れは杭州の商家の娘で、名前を花麗春と云ふ、十六になる児でございますが、器量は元より芸が達者で詩が上手で、先づあれ程の優物は、四百余州に二人とはございますまい。まあ欺されたと思し召して、本人を御覧になつては如何でございませう。」

こんな話を聞かされると、毎々彼等に乗せられて居ながら、つい貴公子は心を動かして、一応其の児を検分しないと気が済みません。

「それでは会つて見たいから、早速呼んで来るがいゝ。」―――多くの場合、彼は兎も角も斯う云ふ返辞を与へるのです。

しかし、人買ひの手につれられて、貴公子の邸へ目見えに上る美人連は、余程厚顔な生れつきでない限り、大概赤耻を掻かされて、泣く泣く逃げて帰るのが普通でした。なぜと云ふのに、其の人買ひと美人とは、最初に先づ、豪奢を極めた邸内の庁堂へ請ぜられ、長い間待たされた後、今度は更に鏡のやうな花斑石の舗甎を蹈んで、遠い廊下を幾曲りして、遂に奥殿の内房へ案内されます。見ると其処では今や盛大な宴楽が催され、或る者は柱に凭れて簫笛を吹き、或る者は囲屏に倚つて琵琶を弾じ、多勢の男女が蹣跚と入り交りつゝ、手に手に酒※を捧げながら、雲鑼を打ち月鼓を鳴らして、放歌乱舞の限りを尽して居るのです。もう其れだけで、好い加減胆を奪はれてしまひますが、而も主人の貴公子は、いつも必ず一段高い睡房の帳の蔭に、錦繍の花毬の上へ身を横へて、さも大儀さうな欠伸をしながら、眼前の騒ぎを余所にうつらうつらと、銀の煙管で阿片を吸うて居りました。

「成る程、四百余州に二人とない美人と云ふのは、此の児の事かな。………」

貴公子はやをら身を起して、睡さうな眼でぢろりぢろりと二人を視詰めます。さうかと思ふと、直ぐに鼻先でせゝら笑つて、

「………だがしかし、四百余州と云ふ所は、己の内より余程女が居ないと見える。お前も人買ひを商売にするなら、後学の為めに己の妾を見てやつてくれ。」

斯く云ふ主人の声に応じて、例の七人の寵姫たちは、さながら馴らされた鳩のやうに、忽ち綉簾の隙間から、ぞろぞろと其処へ姿を現はすのです。思ひ思ひの羅綾を纏ひ、思ひ思ひの掻頭を翳した各々の寵姫の背後には、いづれも双鬟の美少年が、左右に二人づゝ扈従しながら、始終柄の長い絳紗の団扇で、彼等の紅瞼に微風の漣を送つて居ます。彼等は七人の女王の如く、光り耀く驕笑を浮べて、貴公子の周囲に彳立したまゝ、互ひに顔を見合はせて、いつ迄でも黙つて居ます。黙つて居れば黙つて居る程、彼等の美貌は一と際鮮やかに照り渡り、いかほど慾に眼の晦んだ人買ひでも、思はず知らず恍惚とせずには居られません。暫く茫然として、讃嘆の瞬きを続けた後、漸く我に復つた人買ひは、顧みて自分の売り物の哀れさ醜さに心付くと、挨拶もそこそこに、這ふ這ふの体で邸を逃げ出してしまひます。其の後ろ影を見送りながら、主人の貴公子は張り合ひのない顔つきをして、がつかりしたやうに、再び臥ころんでしまふのでした。

やがて、其の年の夏が暮れ、秋が老けて、十月朝の祭も終り、孔夫子の聖誕も過ぎてしまひましたが、彼の頭に巣喰つて居る倦怠と幽鬱とは、依然として晴れる機会がありません。「うら若さ」を頼みにして居る貴公子も、いよ/\来年は二十五歳になるかと思へば、房々とした鬢髪の色つやまでが、だんだん衰へて来るやうに感ぜられます。気分が塞げば塞ぐほど、心が淋しくなればなるほど、享楽に憧れ、昂奮を求める胸中のもどかしさは益募つて、旨くもない酒を飲んだり、可愛くもない女を嬲つたり、十日も二十日も長夜の宴を押し通して、沸き返るやうな馬鹿騒ぎを催したり、いろいろ試して見ますけれど、さつぱり利き目はありませんでした。それで結局は、あの獏と云ふ獣のやうに、阿片を吸つて夢を喰つて、荒唐無稽な妄想の雲に囲繞されつゝ、終日ぼんやりと、手足を伸ばして居るより外はなかつたのです。

貴公子の眉の曇りは晴れやらぬまゝに、とうとう其の年が明けて、のどかな迎春の季節となりました。此の時分、大清の王化は洽く支那の全土に行き渡り、上に英明の天子を戴いた十八省の人民は、鼓腹撃壌の泰平に酔うて、世間が何となく、陽気に浮き立つて居ましたから、正月の南京の町々は近来にない賑やかさです。ちやうど一月の十三日―――所謂上燈の日から十八日の落燈の日まで、六日の間を燈夜と唱へて、毎年戸々の家々では夜な夜な門前に燈籠を点じ、官庁や富豪の邸宅などは、楼上高く縮緬の幔幕を張り綵燈を掲げて、酒宴を設け糸竹を催します。又、市中目貫きの大通りには、恰も日本で大阪の夏の町筋を見るやうに、往来の片側から向う側の軒先へ、木綿の布を掩ひ渡して燈棚を造り、其れに紅白取り取りの燈籠をぶら下げます。さうして街上到る所に寄り集うた若者は、法華の信者がお会式の万燈を担ぐやうに、竜燈馬燈獅子燈などを打ち振り打ち振り、銅鑼を鳴らし金鑼を叩いて練り歩くのです。しかし、此のお祭りの最中にも、例の貴公子の顔つきばかりは相変らず沈み勝ちで、少しも冴え冴えとする様子がありません。

Chapter 1 of 4