Chapter 1 of 14

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福子さんどうぞゆるして下さい此の手紙雪ちやんの名借りましたけどほんたうは雪ちやんではありません、さう云ふたら無論貴女は私が誰だかお分りになつたでせうね、いえ/\貴女は此の手紙の封切つて開けたしゆん間「扨はあの女か」ともうちやんと気がおつきになるでせう、そしてきつと腹立てゝ、まあ失礼な、………友達の名前無断で使つて、私に手紙よこすとは何と云ふ厚かましい人と、お思ひになるでせう、でも福子さん察して下さいな、もしも私が封筒の裏へ自分の本名書いたらきつとあの人が見つけて、中途で横取りしてしまふことよう分つてるのですもの、是非共あなたに読んで頂かう思ふたらかうするより外ないのですもの、けれど安心して下さいませ、私決して貴女に恨み云ふたり泣き言聞かしたりするつもりではないのです。そりや、本気で云ふたら此の手紙の十倍も二十倍もの長い手紙書いたかて足りない位に思ひますけど、今更そんなこと云ふても何にもなりわしませんものねえ。オホヽヽヽヽヽ、私も苦労しましたお蔭で大変強くなりましたのよ、さういつも/\泣いてばかりゐませんのよ、泣きたいことや口惜しいことたんと/\ありますけど、もう/\考へないことにして、できるだけ朗かに暮らす決心しましたの。ほんたうに、人間の運命云ふものいつ誰がどうなるか神様より外知る者はありませんのに、他人の幸福を羨んだり憎んだりするなんて馬鹿げてますわねえ。

私がなんぼ無教育な女でも直接貴女に手紙上げたら失礼なことぐらゐ心得てますのよ、それかて此の事は塚本さんからたび/\云ふて貰ひましたけど、あの人どうしても聞き入れてくれませんので、今は貴女にお願ひするより手段ないやうになりましたの。でもかう云ふたら何やたいそうむづかしいお願ひするやうに聞えますけど、決して/\そんな面倒なことではありません。私あなたの家庭から唯一つだけ頂きたいものがあるのです。と云ふたからとて、勿論貴女のあの人を返せと云ふのではありません。実はもつと/\下らないもの、つまらないもの、………リヽーちやんがほしいのです。塚本さんの話では、あの人はリヽーなんぞくれてやつてもよいのだけれど、福子さんが離すのいやゝ云ふてなさると云ふのです、ねえ福子さん、それ本当でせうか? たつた一つの私の望み、貴女が邪魔してらつしやるのでせうか。福子さんどうぞ考へて下さい私は自分の命よりも大切な人を、………いゝえ、そればかりか、あの人と作つてゐた楽しい家庭のすべてのものを、残らず貴女にお譲りしたのです。茶碗のかけ一つも持ち出した物はなく、輿入の時に持つて行つた自分の荷物さへ満足に返しては貰ひません。でも、悲しい思ひ出の種になるやうなものない方がよいかも知れませんけれど、せめてリヽーちやん譲つて下すつてもよくはありません? 私は外に何も無理なこと申しません、蹈まれ蹴られ叩かれてもじつと辛抱して来たのです。その大きな犠牲に対して、たつた一匹の猫を頂きたいと云ふたら厚かましいお願ひでせうか。貴女に取つてはほんにどうでもよいやうな小さい獣ですけれど、私にしたらどんなに孤独慰められるか、………私、弱虫と思はれたくありませんが、リヽーちやんでもゐてゝくれなんだら淋しくて仕様がありませんの、………猫より外に私を相手にしてくれる人間世の中に一人もゐないのですもの。貴女は私をこんなにも打ち負かしておいて、此の上苦しめようとなさるのでせうか。今の私の淋しさや心細さに一点の同情も寄せて下さらないほど、無慈悲なお方なのでせうか。

いえ/\貴女はそんなお方ではありません、私よく分つてゐるのですが、リヽーちやんを離さないのは、あなたでなくて、あの人ですわ、きつと/\さうですわ。あの人はリヽーちやんが大好きなのです。あの人いつも「お前となら別れられても、此の猫とやつたらよう別れん」と云ふてたのです。そして御飯の時でも夜寝る時でも、リヽーちやんの方がずつと私より可愛がられてゐたのです。けど、そんなら何で正直に「自分が離しともないのだ」と云はんと、あなたのせゐにするのでせう? さあその訳をよう考へて御覧なさりませ、………

あの人は嫌な私を追ひ出して、好きな貴女と一緒になりました。私と暮してた間こそリヽーちやんが必要でしたけど、今になつたらもうそんなもん邪魔になる筈ではありませんか。それともあの人、今でもリヽーちやんがゐなかつたら不足を感じるのでせうか。そしたら貴女も私と同じに、猫以下と見られてるのでせうか。まあ御免なさい、つい心にもないこと云ふてしまうて。………よもやそんな阿呆らしいことあらうとは思ひませんけれど、でもあの人、自分の好きなこと隠して貴女のせゐにする云ふのは、やつぱりいくらか気が咎めてゐる証拠では、………オホヽヽヽヽヽ、もうそんなこと、どつちにしたかて私には関係ないのでしたわねえ、けどほんたうに御用心なさいませ、たかゞ猫ぐらゐと気を許していらしつたら、その猫にさへ見かへられてしまふのですわ。私決して悪いことは申しません、私のためより貴女のため思ふて上げるのです、あのリヽーちやんあの人の側から早う離してしまひなさい、あの人それを承知しないならいよ/\怪しいではありませんか。………

福子は此の手紙の一字一句を胸に置いて、庄造とリヽーのすることにそれとなく眼をつけてゐるのだが、小鰺の二杯酢を肴にしてチビリ/\傾けてゐる庄造は、一と口飲んでは猪口を置くと、

「リヽー」

と云つて、鰺の一つを箸で高々と摘まみ上げる。リヽーは後脚で立ち上つて小判型のチヤブ台の縁に前脚をかけ、皿の上の肴をじつと睨まへてゐる恰好は、バアのお客がカウンターに倚りかゝつてゐるやうでもあり、ノートルダムの怪獣のやうでもあるのだが、いよ/\餌が摘まみ上げられると、急に鼻をヒクヒクさせ、大きな、悧巧さうな眼を、まるで人間がびつくりした時のやうにまん円く開いて、下から見上げる。だが庄造はさう易々とは投げてやらない。

「そうれ!」

と、鼻の先まで持つて行つてから、逆に自分の口の中へ入れる。そして魚に滲みてゐる酢をスツパスツパ吸ひ取つてやり、堅さうな骨は噛み砕いてやつてから、又もう一遍摘まみ上げて、遠くしたり、近くしたり、高くしたり、低くしたり、いろ/\にして見せびらかす。それにつられてリヽーは前脚をチヤブ台から離し、幽霊の手のやうに胸の両側へ上げて、よち/\歩き出しながら追ひかける。すると獲物をリヽーの頭の真上へ持つて行つて静止させるので、今度はそれに狙ひを定めて、一生懸命に跳び着かうとし、跳び着く拍子に素早く前脚で目的物を掴まうとするが、アハヤと云ふ所で失敗しては又跳び上る。かうしてやう/\一匹の鰺をせしめる迄に五分や十分はかゝるのである。

此の同じことを庄造は何度も繰り返してゐるのだつた。一匹やつては一杯飲んで、

「リヽー」

と呼びながら次の一匹を摘まみ上げる。皿の上には約二寸程の長さの小鰺が十二三匹は載つてゐた筈だが、恐らく自分が満足に食べたのは三匹か四匹に過ぎまい、あとはスツパスツパ二杯酢の汁をしやぶるだけで、身はみんなくれてやつてしまふ。

「あ、あ、あ痛! 痛いやないか、こら!」

やがて庄造は頓興な声を出した。リヽーがいきなり肩の上へ跳び上つて、爪を立てたからなのである。

「こら! 降り! 降りんかいな!」

残暑もそろ/\衰へかけた九月の半ば過ぎだつたけれど、太つた人にはお定まりの、暑がりやで汗ツ掻きの庄造は、此の間の出水で泥だらけになつた裏の縁鼻へチヤブ台を持ち出して、半袖のシヤツの上に毛糸の腹巻をし、麻の半股引を穿いた姿のまゝ胡坐をかいてゐるのだが、その円々と膨らんだ、丘のやうな肩の肉の上へ跳び着いたリヽーは、つる/\滑り落ちさうになるのを防ぐために、勢ひ爪を立てる。と、たつた一枚のちゞみのシヤツを透して、爪が肉に喰ひ込むので、

「あ痛! 痛!」

と、悲鳴を挙げながら、

「えゝい、降りんかいな!」

と、肩を揺す振つたり一方へ傾けたりするけれども、さうすると猶落ちまいとして爪を立てるので、しまひにはシヤツにポタポタ血がにじんで来る。でも庄造は、

「無茶しよる。」

とボヤキながらも決して腹は立てないのである。リヽーはそれをすつかり呑み込んでゐるらしく、頬ぺたへ顔を擦りつけてお世辞を使ひながら、彼が魚を啣んだと見ると、自分の口を大胆に主人の口の端へ持つて行く。そして庄造が口をもぐ/\させながら、舌で魚を押し出してやると、ヒヨイとそいつへ咬み着くのだが、一度に喰ひちぎつて来ることもあれば、ちぎつたついでに主人の口の周りを嬉しさうに舐め廻すこともあり、主人と猫とが両端を咬へて引つ張り合つてゐることもある。その間庄造は「うツ」とか、「ペツ、ペツ」とか、「ま、待ちいな!」とか合の手を入れて、顔をしかめたり唾液を吐いたりするけれども、実はリヽーと同じ程度に嬉しさうに見える。

「おい、どうしたんや?―――」

だが、やつとのことで一と休みした彼は、何気なく女房の方へ杯をさし出すと、途端に心配さうな上眼使ひをした。どうした訳か今しがたまで機嫌の好かつた女房が、酌をしようともしないで、両手を懐に入れてしまつて、真正面からぐつと此方を視詰めてゐる。

「そのお酒、もうないのんか?」

出した杯を引つ込めて、オツカナビツクリ眼の中を覗き込んだが、相手はたじろぐ様子もなく、

「ちよつと話があるねん。」

と、さう云つたきり、口惜しさうに黙りこくつた。

「なんや? え、どんな話?―――」

「あんた、その猫品子さんに譲つたげなさい。」

「何でやねん?」

藪から棒に、そんな乱暴な話があるものかと、つゞけざまに眼をパチクリさせたが、女房の方も負けず劣らず険悪な表情をしてゐるので、いよ/\分らなくなつてしまつた。

「何で又急に、………」

「何でゞも譲つたげなさい、明日塚本さん呼んで、早よ渡してしまひなさい。」

「いつたい、それ、どう云ふこツちやねん?」

「あんた、否やのん?」

「ま、まあ待ち! 訳も云はんとさう云うたかて無理やないか。何ぞお前、気に触つたことあるのんか。」

リヽーに対する焼餅?―――と、一応思ひついてみたが、それも腑に落ちないと云ふのは、もと/\自分も猫が好きだつた筈なのである。まだ庄造が前の女房の品子と暮してゐた時分、品子がとき/″\猫のことで焼餅を焼く話を聞くと、福子は彼女の非常識を笑つて、嘲弄の種にしたものだつた。そのくらゐだから、勿論庄造の猫好きを承知の上で来たのであるし、それから此方、庄造ほど極端ではないにしても、自分も彼と一緒になつてリヽーを可愛がつてゐたのである。現にかうして、三度々々の食事には、夫婦さし向ひのチヤブ台の間へ必ずリヽーが割り込むのを、今迄兎や角云つたことは一度もなかつた。それどころか、いつでも今日のやうな風に、夕飯の時にはリヽーとゆつくり戯れながら晩酌を楽しむのであるが、亭主と猫とが演出するサーカスの曲藝にも似た珍風景を、福子とても面白さうに眺めてゐるばかりか、時には自分も餌を投げてやつたり跳び着かせたりするくらゐで、リヽーの介在することが、新婚の二人を一層仲好く結び着け、食卓の空気を明朗化する効能はあつても、邪魔になつてはゐない筈だつた。とすると一体、何が原因なのであらう。つい昨日まで、いや、ついさつき、晩酌を五六杯重ねるまでは何のこともなかつたのに、いつの間にか形勢が変つたのは、何かほんの些細なことが癪に触つたのでもあらうか。それとも「品子に譲つてやれ」と云ふのを見ると、急に彼女が可哀さうにでもなつたのか知らん。

さう云へば、品子が此処を出て行く時に、交換条件の一つとしてリヽーを連れて行きたいと云ふ申し出でがあり、その後も塚本を仲に立てゝ、二三度その希望を伝へて来たことは事実である。だが庄造はそんな云ひ草は取り上げない方がよいと思つて、そのつど断つてゐるのであつた。塚本の口上では、連れ添ふ女房を追ひ出して余所の女を引きずり込むやうな不実な男に、何の未練もないと云ひたいところだけれども、やつぱり今も庄造のことが忘れられない、恨んでやらう、憎んでやらうと努めながら、どうしてもそんな気になれない、ついては思ひ出の種になるやうな記念の品が欲しいのだが、それにはリヽーちやんを此方へ寄越して貰へまいか、一緒に暮してゐた時分には、あんまり可愛がられてゐるのが忌ま/\しくて、蔭でいぢめたりしたけれども、今になつては、あの家の中にあつた物が皆なつかしく、分けてもリヽーちやんが一番なつかしい、せめて自分は、リヽーちやんを庄造の子供だと思つて精一杯可愛がつてやりたい、さうしたら辛い悲しい気持がいくらか慰められるであらう。―――

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