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真志保が運動会で一等を得たと云ふ。嬉しい事。何卒私の真志保がからだに魂に頭に、強健があたへられますように……。
豊栄の運動会、今年はいつもより大人も小供も服装が立派になったといふ。何卒服装ばかりでなく、愛する兄弟よ、すべてに眼を開いて下さい。
久方振りで聖書を見て私は喜ぶ。やはり私は神の子、常に神にそむいてゐながら、やっぱり神様を思ひ出づる。神を仰ぎたくなる。
聖言葉がきゝたい。
六月六日
朝、聖書を読む。
我やすらかにして臥しまたねむらん。ヱホバよ、我を独にてたひらかに居らしむるものは汝なり。
昨日、奥様に拝借した平民の福音を読む。
人に親切をする事、それは非常にいゝ事である。だけどただ親切をするといふ美名を着るのみなら何にならう。親切は、ほんとうの心から、心の底から起る愛の発現ではないか。相手の人の心と自分の心とが同じになって、はじめて、自分の心が自分のからだを動かして働く……美しい事、尊い事。
お昼はお汁粉、おいしかった。英語はだん/″\むづかしくなって来た。何うしてかう覚えが悪いか。でも、あせらなくったっていゝ。考えればわかるのだから……。もう少し敏捷に頭が働けばよいと思ふけれど自業自得か。それともこれが私に相応った頭であらう。勉強々々、何だか後から/\追はれる様な気がする。いそがしい事だ。
お母様に手紙を書いてゐると、坊ちゃまが見えて、歌をうたふやら、面白い事ばかりきかして下すったのでお腹の皮がよれる程笑った。坊ちゃまの頭は一たい何処に際限があるのだらう。私はたゞ驚くより外なかった。
真志保にも手紙を書いた。今頃はお母様も真子も富子もスヤ/\とねむってるに違ひない。
お母様がいやな夢を見たから幌別にきっと何か変った事があるに違ひないといふお手紙、ハテ、何だらう。フチはかはいさうに、何んなに私の事を心配してゐて下さるのでせう。たゞ一途に私をかはゆくて/\呑んでも足らないのだ。
おゝ、別れの時の光景が目の前に浮ぶ。フチたちよ、父母よ、兄弟よ、御身たちの健康を祈る。私はあなたたちの為に何のいゝ事をしたであらう。これからも何を為し得るであらう。寧ろ心配をかける事の方が多くなるのではないか。神様、私を導きたまへ、私に最もよきところへ。今日は一寸雨が降った。
六月七日 朝
悪に敵するなかれ。人汝の右の頬をうたば亦外のほゝもめぐらしてこれにむけよ。
人汝に一里の公役を強なば、これとともに二里行け。汝に求るものには予へ、借らんとする者をしりぞくるなかれ。
汝等の敵を愛み、汝等を詛ふ者を祝し、汝等を憎む者をよこし、なやめせしむる者のために祈祷せよ、神の子とならん為に……
天の父が日を善者にも悪者にもてらし、雨を義き者にも義からざるものにも降らせ給へり。(馬太五・三九―四六)
此の故に天に在す汝等の父の完全きが如く汝等も完全くすべし。
我汝の指のわざなる天をみ、なんぢの設けたまへる月と星とを見るに、世の人はいかなるものなればこれを聖心にとめたまふや、人の子はいかなるものなればこれを顧みたまふや。
たゞすこしく人を神よりも卑くつくりて栄と尊きとをかうぶらせ、またこれにみ手のわざを治めしめ万の物をその足の下におきたまへり。
すべてのうし、羊、また野のけもの、そらの鳥、うみの魚、もろ/\の海路を通ふものまで皆しかなせり。
われらの主ヱホバよ、なんじのみなは地にあまねくして尊きかな。(詩九・三―九)
神様は絶対公平の愛なのだ。私は広大無辺の宇宙を思ふ時にさう思ふ。そして、また最も小さい小さい虫を見ても草花を見てもさう思ふ。名もない草花、垣根の隅の小さな苔でも時が来れば花ひらき種を残して枯れてゆくではないか。神様がそれを彼にあたへ給ふて、彼の此の世の天職としたまふた。そしてかの小さい花は何の不平も持たぬではないか。彼等はそれでいゝのだ。太陽、星を支配したまふ神様はまたかく最小さきものをも些の乱れなく支配したまふ。
お父様の手紙、お父様がさういふ事をお書きなさらうとは夢にも思はなかった。
――人間は何が苦しいと云って、不快な程不幸な事はないであらうと思ふ。其身も将来家を営む上に充分注意を要するべく、其身世間のおかげで勉強して大な智恵袋に一ぱい智恵をつめこんでも、不健全な身体を持ち、不愉快な日を送る様では、何にも知らずに日々荷ナワを背負って薪木を拾ふ人、わらびをとって市に売る人々の方が何程幸福であるかわからぬのである。私の心配する処は其所にあるのですから、必ず/\注意すべきであります――。然り。お父様よ、其の通りで御座います。健康は実に人間の幸福の源でありませう。健康な人は日々の仕事も楽しく快くキパ/\やってのけるでせう。思ふがまゝに其のからだを動かして、夫の為、親の為、子の為、人の為につくすでせう。おゝ健康! 何といふいゝ物でせう。私はすべての人が何うぞ此の健康を得る様にと望みます。そして、私もそれが欲しう御座います。ですけど如何にせん、私には健康がありません。私の生命の源泉である心臓が不健全なのです。一秒々々、ちっともやすまずに湧出づる血潮をせきとめるかたい弁があるのです。しかもその障碍物は私の心臓から取去る事は出来ない、一生出来ない。それも私には無くてはならぬものだから……一度硬くなったそれは再びもとのようにはならないのであらう……。では私は、一生涯不健全な身体で、日々鬱々と不快な時を過さねばならないかしら……。おゝそれではあまりに不幸ではないか。神様は私の罪の償に健康を取上げ給ふた。しかし神様は私を愛したまう……愛の鞭。病苦をあたへ給ふて私を錬りそして、心の健康をとらしめ給ふのだ。心に安心歓喜をあたへ給ふたのだ。私の心に悪魔が働く。私はもし充分な健康を持ってゐるならば、私は必ずやそれを無上のほこりとして、神を忘れ、世の人を忘れて己のためのみの人間になってしまふであらう。神様よ感謝します。私は弱い身も魂も神様にまかせてさゝへていたゞきますから、安心があり歓喜があります。
何卒お父様御安心下さいませ。私はかうして神の愛をさとりましたから。世の同病者の為に心から祈る心が起る。人に健康を失はせまいといふ努力を心からする事が出来る。私は病苦を通して神様からかういふ賜をいたゞいたのだ。私の身は神に任せ、よろこびと感謝にみちた愛の笑顔を持って人に接しませう。
六月八日 木曜日
なんぢ施済をする時、右の手の為すことを左の手に知らする事なかれ。かくするは、其の施済のかくれん為なり。然ば、かくれたるに見給ふ汝の父は明顕に報ひたまふべし。(太六・三―五)
かくれたるに見たまふ父、かくれたるに在す神、おゝ、見るものなしとて罪を犯す私の愚さよ。何うしたらいゝだらう。人さへゐなければ、何かのかげにさへ身をおけば、何かで身をおほふてしまへば、それで自分はかくれてゐるのだと思ふ、何といふ馬鹿者でせう……私は……。
かくれたるに見たまふ神、かくれたるに在す神。
しみくひ、さびくさり、ぬすびとうがちてぬすむ所の地に財をたくはふる事なかれ。しみくひ、さびくさり、ぬすびとうがちてぬすまざるところの天に財をたくはふべし。(太六・十九―二二)
そは、なんぢらの財のあるところに心もまたあるべければなり。ほんとうに、地上のたから……金を持つ人は金に心を奪はれる。身の外形のみに飾りをつける事に腐心して肝心の心をるすにするんですもの。
人は二人の主に仕ふる事能はず。
なんぢら神と財に兼つかふる事あたはず。(太六・二四)
此の事についてえらい人の話をきゝたい。杉原先生のおはなしをきゝたい。
是故に汝らにつげん、生命のために何を食ひ、何をのみ、またからだのために何をきんと思ひわづらふ事なかれ。生命は糧よりまさり、からだは衣よりもまされるものならずや。空の鳥を見よ。まく事なく、かる事せず、倉にたくはふる事なし。然るになんぢらの天の父はこれを養ひたまへり。
馬太伝六章には、何とまあいろ/\な事があるのでせう。私の浅い知識で解せない所は多々ある。何卒教へて下さる人を与へられます様に……。
神ヱホバよねがはくはかれらにおそれをおこさしめたまへ。もろ/\の国人におのれたゞ人なる事を知らしめ給へ。(詩九・二〇)
おのれたゞ人なる事を私は時々忘れる……。此の広大無辺なる宇宙を見よ。極細少から最大の物まで皆一つの運命をもってゐるではないか。深山の奥にある一つの苔も此の家の土台の際の小さい草も、みんなおなじく時がくれば花をひらく……春夏秋冬、世はみんな一定の法則のもとに刻一刻、ちっともかはらずに動いてゆくではないか。神様の力は何処まであるか、それを見て量知る事が何うして出来よう。大きな力、無限の力、無始のはじめから無終の終まで、大きいものから小さいものまで一貫してはたらく其の力、それこそは神様ではないか。
あゝ何と云ったらいゝかわからない。
たゞありがたい。
夕食後、平民の福音からはじまって先生に宗教談をうかゞった。私は何だかしら何もかも解決がついた様な気がしてたゞ嬉しい。
おつるさんといふ人のおはなし。はじめは感心し、羨望し、驚愕し、同情し、おしまひには何だか何もわからなくなってしまった。
大病人の看護を打捨てゝおいて、自分の霊の糧を得るために、何時間も費す、それで自分は義しいのだと主張する……それでいゝのか知ら……。自分の満足のために人を犠牲にする、それが宗教の最高なものか。私はわからない。一杯の水を人にあたへても、それはその人にあたへたのではなくてヱス様に上げる事なのだと仰ったではないか。人に至誠を持って仕へる、それがすなはち神様に仕へるわけではないか。自分をすてて人につくす、だから十字架が尊いのではないか。
あゝ私はまとめて今夜のお話と感想を書つらねる事は出来ない。
たゞし何となしに重い心が急に軽くなった様な気がする。
六月九日
偽善者よ、先づ己の目より梁木をとれ、さらば兄弟の目より物屑を取得るやう明かに見べし。(太七・五)
偽善者とは私の事、ほんとうに私の事。
夕方、奥様のお供をして散歩に出かける。夜、赤ちゃんがたいへんお泣きなさる。何うしたのでせう。
六月十日
天国近きに在り、ほんとうに。私たちの周囲は天国にもなれば地獄にもなるのではないか知ら。私の心も天国になり地獄になる。
十日三時頃かしら、雨が降り出した。お書斎の障子は明ける事が出来ないが、破れ目から少し外が見える。サーサーと滝の様に流れ落つる雨の音、そして其の音の中に雨滴の音も交ってチョロ/\と鈴の様な音がする。大きな、何の葉だか青いのが絶え間なく打たれて躍ってゐる。雨の日もまたいゝ気持。
姉さんは何うしたか知ら……。あの人も不幸な人。自分の事ばっかり考えて、身をすてゝ愛を捧げる事が出来ない人。しかしそれが人間の弱さなのだ。私もまた其の弱さは充分に十二分に持ってるではないか。
何卒姉さんに強さがあたへられます様に……。
彼津屋さんの話をきけば、やはり真の信ぢゃないのだ。あゝわからなくなりかけた。
六月十一日 日曜日 風 晴 月夜
朝九時前に本郷基督教会へ行く。日曜学校も北海道とはちっとも変らない。何うしてだらうか。きれいな若い女の人、讃美歌の声の素敵に美しい人が女の子を教へて庭でしきりに讃美歌のけいこをしてゐた様で、男の子は、眼鏡をかけたハイカラな人が教へてゐた。紙に刷った何かを一枚づゝ、五六人の子にわけて低い声で話をしてゐた。エレミヤの話らしかった。が私にはきゝとれなかった。あれが子供たちの頭にどれだけ深い印象を与へ得たのだらうか。たゞ印刷物を読んで字の通りを説明してきかせて……。子供等はあき/\してゐた様に見えたった。大人集会、聖餐式、寺西牧師不在、聖女学院教授平井先生のお話。私にはよくわからなかった。パンはユダヤ人の常食、葡萄酒はお茶の様な常飲料だから、それから見て、キリスト教は特別な人の宗教ではなくて、たゞの人の宗教、深山に世捨人になって難行苦行するとは違って誰にでも出来得る事である、といふ事。