Chapter 1 of 2

新庄はホテルの日本室の寝床のうへでふと目をさました。海岸は風が出て来たらしく、浪の音が高かつた。何かしら訳のわからない不安を感ずるやうな、気持で――勿論それは薄暮の蒼白い部屋の色が、寝起きの頭脳に、彼が盲腸の手術をやつたとき、病院の部屋で魔睡薬がさめかかつて、目をさました瞬間の蒼白い壁の色などの聯想から来たものだことはわかつてゐたが、大体彼は日暮方に眠りからさめると、いつもさうした佗しい気持になるのであつた。今も彼はそれと同じ寂しさのなかに眼覚まされたのであつた。

ふと先刻ステーシヨンまで送つて行つたK子が、昨夜椅子に乗つて電球をくるんだ、紅い縁取の絹ハンケチが、燃えつくやうに目に映つた。暫らく彼の感覚は彼女の悪戯な目や、白い手や、晴やかな声に惹きつけられた。彼は佗しい浪の音を聞きながら、甘い幻想に浸つてゐた。

寝床を離れて、K子がしたやうに椅子を廊下から取込んで来て、電球のハンケチをはづすと、彼はそれを顔に押当てたが、やがてからげた袂の底に押しこんだ。机の上にある体温器を取つて熱を計ると、K子をステイシヨンへ送つたときと略同じ八度近くであつた。K子が見舞にもつて来てくれた黄と赤との薔薇が五輪、コツプの縁に頸垂れてゐた。彼はその熱がどこから来るかゞ能くわからなかつた。肺尖加答児だといふ医者もあつたが、単に神経衰弱から来る発熱に過ぎないと楽観的に笑つてゐる医者もあつた。孰にしても彼はこの春朝寒の頃の感冒から、体の倦怠を感じてゐた。思ふやうに仕事が出来なかつたこの一年間、不断は何をしてゐるかわからない、K子と友情以上の関係が、絶えがちに、しかし時々思ひだしたやうに続いてゐた。映画女優になつたこともあるさうだが、スクリンの上では誰にも何等の記憶をも残さないで消えてしまつた。詩も作るけれど、一番物になつてゐるのは何と言つてもダンスであつた。ダンス場で二人は知つたのであつた。

新庄は或る時若い坊ちやん/\した学生と、銀座を歩いてゐる彼女を見た。二タ月も二人は逢はなかつた。彼の方で約束をお流れにしてしまつたからであつた。

「何うしたの。」

K子はにや/\したが、顔が赤くなつた。

「あの人何でもないんですわ。」

「紅茶でも呑まない? あの学生さんも来てもいゝ。」

「いゝえ、ちよつと断ればいゝんですもの。」

二人はフルーツパラへ入つて、当らず触はらずに話してゐた。

それから又かう云ふこともあつた。派手々々しく着飾つて、少し年取つた背広服の男と、やつぱり銀座を歩いてゐた。媚を送る彼女の目をちらと見たが、彼は見ぬふりをして通りすぎた。

「好いものを引つかけたんだ。」

しかし其の次ぎに武蔵野館で見たときには、相手は又新しい男であつた。ストリトへ出てゐるんではないかと思つたが、彼と逢ふときは無邪気で純情であつた。新庄はちよつと沈んだ、睫毛の長いその目と、色の真白い、むしろ蒼白い、細作りの、意気味をもつた顔の形と、しなやかな姿態とが好きであつたが、此の女が自分を好きなのか嫌ひなのか寸分も解らなかつた。そんな事は何うでも好いらしかつた。彼女は海辺育ちで、海が好きであつた。どこの海でも海岸へつれて行かれるのが好きであつた。それから子供のやうにチヨコレートを舐つて、淫売婦のやうに強い煙草を吸つた。新庄は瞬間ちよつと惹きつけられはしたが、別れて終へば思出すといふこともなくて過ぎた。余り食べつけない茱萸でも口にするやうな野趣があつた。

新庄は今そんなことを、ぼんやりと考へながら風にはためくカアーテンと戸を開けて、海を眺めた。仄かな落陽の影が、空の一部をヱンヂ色に染めてゐた。その下に白い波が、鴎の群のやうに散らばつてゐた。左側の松原の蔭に一棟の草葺の家があつた。それは此のホテルの女主人公の住居であつた。昔はある名士の持物で、名士の没後一度結婚したこともあつたが、転輾して外人の持ちものとなつてから、ホテルのダンス場や、公使館などにも姿を現して、妖艶なその顔と、派手な扮装で人を惹きつけた、この海岸にホテルを初めたのは、限りなく彼女を愛してゐた其の外国人が可なりな財産を与へて本国へ帰つてから二三年たつてからであつた。

新庄はお葉といふその女主人公と、もう大分前から友達になつてゐた。一緒に海岸を散歩したり、葉山あたりまで遠乗をやつたり、紅葉の頃の函嶺へ湯に浸りに行つたこともあつた。外に連のあることもあつたし、無いこともあつた。

「貴方にホテル経営の面倒が見れるか知ら。」お葉は何時か自動車のなかで、そんな事を言つた。

「さあ―そんな事は何うもね。ダンスのお附会ひ位ゐだつたら。」新庄は笑つたが、そんな空想がかね/″\頭に潜んでゐない筈はなかつた。彼はこの生存競争の劇しい生活難を何う逃避したものかと、消極的にそれを考へつゞけてゐた。原稿生活に少しも自信がもてなかつた。

「ホテル経営といふと、僕がマネヂヤアになるんですか。」

「少し失礼ね。」

「いゝや、ちつとも。」

「これで女に出来ないことが沢山あるんですから。今藤倉はよく働いてくれますのよ。でも何も彼も委せつきりつて訳には行かない。私がしつかりしてゐなかつた日には、何をするか解りやしないんですもの。何と言つても男でなくちや駄目ね。私旦那さまを持たうか知らなんて、時々そんな事も思つて見るのよ。だけど、さうなると又何だ彼だと言つて世話かけるでせう。お負に遊びたい時に遊べないんですもの。それに生意気のやうですけれど、私なんか世間の男を見尽くして来てゐますから、なか/\好い人が見つからなくてね。こつちの財産を当てにして来るやうなのは厭ですからね。」

「貴女ならへい/\してゐる男でなくちや嫌ひでせう。」

「飛んでもない、そんな男は嫌ひよ。主人となれば矢張り私が妻として従順に仕へるやうな男でなくちやあ。女は何と言つてもさう云ふ人が好いのよ。」

新庄は何か気でも引いて見られるやうな擽つたさを感じたが、妙にしんみりして硬くなつてしまつた。

そのお葉が彼の友人の井沢と云ふ若い男を、いつか喰へこんでしまつたのであつた。

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