一
クリティシズムの哲学的意義について、私は前に色々書いたことがある。今これを拡張しようと思う。哲学的意義という規定をもう少し厳密に云えば、夫を認識論的意義と云っていいだろう。なぜ哲学的ということが厳密にいうと認識論的ということになるかは、もっと一般的な先決問題であるが、それは話しを進めて行くうちにおのずから明らかになるとしよう。クリティシズムの認識論的意義とはつまり、認識論に於ける、或いは認識論の上に立っての、クリティシズムの機能ということであろう。この点今の処想像にまかせておく他ないが、もし仮にそうとすれば、クリティシズムが終局に於て認識論そのものの一環で、他ならぬ認識理論の一機能を意味する、という主張を結論しようと企てても、大して異とするには足りないだろう。
だがこういう結論は単に必然であるだろうばかりではなく、実際問題から云うと、今日大いに必要なのである。特にクリティシズムについての知的省察が甚だ進んでいない日本の文化世界に於ては、之が最も必要なのである。そして文化の大道乃至本道を推し進めるための洞察としては、愈々以て之は切実な必要なのである。
芸術が一般に表現であるということは今日の常識である。芸術作品は人間性か内部的生命か、生活か生か精神かの、外部への表出であるということを誰しも疑わない。芸術家の苦心は表現にある、と多くの芸術家は告白している(H・マティスの手記の如き)。だが、そういう常識を不作為に受け容れることと、そういう見解を特に取り立てて主張することとは、必ずしも同じことではない。告白と主張とは一つではない。なぜと云うに、或る判り切ったことを特に取り立てて主張するのは、何等かの対立物がそこに意識されているからで、対立物が何であるかによって、その主張の内容も本質が変って来るからだ。主張は一つの敵本主義を仮定する。之はもはや常識の単なる受容ではない。――だが更にそういう主張それ自身が、又やがて一つの常識の内容となることも忘れてならぬ。芸術は表現以外のものではなく正に表現でなければならぬ、という主張それ自身が、実を云うと、口に出すと否と物に書くと否とに拘らず、今日の常識の一つだ。結局、常識はいざとなると主張をし始めるものなのである。云わばそれが、色々の常識を持続させる処の慣性(スコラ学者が考えた実体の慣性)のようなものである。だから右のような常識は、主張でないようで結局は主張なのである。
一例を挙げよう。スピンガーンは近代のクリティシズムが表現の研究に帰着しつつあることを指摘する(J. E. Spingarn, The New Criticism)。アリストテレスの『ポエティカ』を始めとしスカリゲルやボアローなどに至るカノン(規矩)主義的な批評精神に反抗して、今日の新しいクリティシズムは、作品をば、規格品としてではなく何物かの自由な表現を見るようになって来ている、というのである。芸術は常に表現技術と考えられるようになっている、というのだ。実際、文典やレトリックは勿論、詩論やドラマトゥルギーさえも、文芸作品の裁判官であってはならないということが、今日のクリティシズムの常識である。文章規範的なものは文章の参考とはなっても、勿論今日、文章を裁くことは出来ない。元来クリティシズムには裁くより前に先ず理解してかかるべき義務があるとされる。何を理解するかと云えば、作品に表現された作者やその背後の時代や民族や階級の生活や思想だ。そういう意味で芸術が表現であると主張することは、少しも間違ったことではない。ただその表現とは一体何かという問題が残るだけだ。
だがこの主張はもう少し検討を必要とする。芸術を一般にこのように表現だと主張するなら、それは何も芸術に限ったことではない筈だ。表現(之は表現物をも指す)と見られるものは芸術品だけではない。科学・哲学・宗教・意識・其の他一切の文化現象、社会現象――経済・政治・風俗・道徳――が総て表現でなくてはならぬ。生活の表現が文化であり又人間の歴史であるとしなければならぬ。現にドイツ的観念論による文化史や歴史主義系統の歴史哲学は、一貫してそういう主張を持っている。スピンガーン自身も自分がそれのアメリカ版に他ならぬことをみずから認めている。ブルクハルトがイタリヤのルネサンス国家を以て一個の芸術品と見なすのは、政治形態を一つの表現と見るからである。又より形而上的に考える人々にとっては、人間の肉体さえが一個の表現であり、行為の本質は「表現的行為」であるとも云われるのだ。
では、芸術を一般に表現だとする主張は、芸術の観念に何等特別な性質を取り付けるものではない、とでもいうことになるのか。そういう筈はなかったろう。芸術はただの表現ではなくて、表現の技術を意味するというのだった。表現の技術(アート)であるが故に芸術(アート)だったのである。するとさっきからの主張は一つの新しいこと柄をつけ加えるわけだ。芸術は表現の技術である、何となればそれは他のことの技術ではないから、と(この際技術という言葉を単純に手法とか技法とかという意味に取っておく)。例えば芸術は鑑賞の技術でもなく、教化の技術でもなく、慰安の技術でもない、又更に認識の技術にもぞくさない。――であるが故に「表現」の技術だ、というのである。
之が恐らく、芸術表現説の主張のいつわらぬ心事であろう。だがこうなると、前とは別な横槍が再び這入らぬわけにいかない。一体、科学も亦表現の技術を持たないか。表現されない科学的研究成果などというものは、歴史的に伝承され得ないから、元来存在し得ない。云い伝えたり書き残したりしなければ、科学的業績とはならぬ、それがなくては科学の歴史的発達は全く不可能だ。近代的な科学論文なるものは、恰もこの事情を最も明らかに自覚して書かれるものに他ならない。研究しっぱなしは少しも科学的研究ではない。研究であるためには研究成果を纏めなくてはならぬ。観察や観測、実験・計算・又文献調査、などのしっぱなしは何の意味も持たない。それを纏めることこそが研究の目標である。纏めない内は研究者自身にだって正確な成果は判らない。社会人にとっては尚のことだ。こうして纏めることが科学的研究に於ける表現でなくてはならぬ。
なる程少し位い文章がまずくても、内容が正確で観点が高ければ、立派な科学論文である。そういう意味で表現の表現らしい点はこの際どうでもいい、だから結局今の表現は本質に於て表現ではない、と云うかも知れない。だが丁度、原稿の字は下手でも、文章がよくて描写が優れていれば、立派な文芸作品であることを妨げないのと、事情に変りはない。手書きの字は又一つの表現技術にぞくするわけで、東洋の書(ショ)はそうした一種の絵画的表現だろう。芸術的表現を描写とばかり見ることは出来ない。小説に於ても描写と説明とが適当に混在することが必要だという考え方もある(小島政二郎の小説『菊池寛』の菊池寛はそう主張する)。学術的レポートが描写を含まないとは云えない。然るに一方、一種の絵画であるらしい「ショ」は一体何を「描写」するのか。
文芸作品の表現技術としての価値は、何も表現技術それ自体として孤立したものにあるのではなく、作者の如何なる観察・思索・調査・生活・反省・その他その他がそこに如何に表現されるかに存する筈である。科学者の如何なる観察や実験や調査が科学的成果として纏められるか、ということと事情は形式的に変らないのである。少なくとも如何なる種類の表現か――描写か説明かなど――が問題ではなくて、表現であるかないかを問題にする限りは、「ショ」と文章とが斉しく表現であるように、科学成果の発表も亦、芸術作品一般と斉しく、なぜ表現と云って悪いのだろう。
処で、科学は認識であり之に反して芸術(や文学)は表現である、というような見解は世間に決して珍しくない。そう云いたい気持ちは誰にでも判る処であるが、そういう云い方が云い方としてあまり意味を持たないことは、右の次第で明らかとなる。つまり、そういう考え方からは、色々と困った結論が出て来るのを防ぐことが出来ない。表現というならいずれも表現であるべきだし、認識というならいずれも認識であるべきだ。如何なる意味での表現、如何なる形の表現か、又如何なる意味での認識、如何なる形の認識か、が区別のケジメであるべきだったのだ。
だが私は今、芸術と科学との区別や又連関、乃至は芸術論などを、ここに展開する心算ではない。今は芸術が世界についての芸術的「認識」であるというリアリズムの伝統的見解を仮定するとしよう。但しここでリアリズムというのは、ただの手法の名ではなく、芸術的認識の認識論上の一見解を指すのだが、芸術をも世界の認識と見ること、認識(又認識論)という観念をばそういう形にまで拡充することは、認識論に対しても芸術理論乃至一般に文化理論上に対しても、現段階に於ける吾々の期待であり、哲学の新段階を画する規模のものと考えられるべきだろう。それであるのに、この点必ずしも人々によって充分考え抜かれているとは見られない。わずかに二三の新しい文芸学や美術論に於てこの提唱を見ることが出来るにすぎない*。
* 武田武志著『美術論』は初めからこういう企図に基いている。ただその美術的乃至芸術的認識の機構分析が充分でないために、リアリズムと写実との原則的区別を読者に首肯させるに充分でない。甘粕石介氏の論文「芸術の写実について」(『学芸』一九三八年第七一号)はこの弱点を指摘して若干の優れた発見を与えている。だが芸術の表現するものが、結局「生命」に帰するという落ちは、実は何等の解決ではなく、常識への還元である。芸術の認識論はかかる「生命」が抑々何を意味するか、という処から出発した筈である。芸術が認識であるという観点を根本に於て強調しない限り、今の処芸術理論の本質的な前進はムツかしいことがわかる。芸術的生命なるものが認識論的に分析されなければならないのである。
さて芸術を世界認識の一種と仮定すれば、クリティシズムが認識=認識物の一種の検討であることは容易に首肯出来る筈である。クリティシズム=批評(批判・評論)は何と云っても芸術のクリティシズムとして最も発達しているし、重きもなしている。その芸術が一種の認識と見られる以上は、最も屡々芸術作品を論議せねばならぬ処のクリティシズムなるものは、常に認識物を、従って又認識を、検討するものだという自覚を当然持つ筈である。科学的批評と印象批評というような涯しない対立は今どうでもよい。いずれの批評に於ても、クリティシズムという一つのイズム(主義か精神か一纏りの現象かをイズムという)を形成するための心棒は必ずあるので、認識を検討するというこの建前が、クリティシズムというものの心棒でなくてはならない。
尤も批評家がこの建前を自覚するしないは別問題で、批評家が批評の枢軸を意識しようがしまいが、現実の批評が、而も相当高度の批評が、行なわれ得ることを妨げない。そしてそれにはそれだけの理由があるので、サント・ブーヴは印象批評の巨頭であるとされるに拘らず、彼が芸術作品に於て見たものが常に人格の表現であり、つまりさっきのことを勘定に入れれば、人間による認識をばそこに常に見て取ったのだが、こうした理論が彼のクリティシズムの匿された枢軸をなしている。第一印象は後々の又二次的な印象によって変更を余儀なくされるものであるから、批評がこの枢軸の周りを動揺することは避け難い。動揺は心棒のないことから起きるのではなくて、心棒の周りから起きる。云わばこの匿された枢軸の故に、彼は優れた印象批評家ともなり得たわけだ。
だが今は、クリティシズムの実行の姿よりも、クリティシズムという観念自身が何かということが問題であったのだから、一種の認識の検討であるというクリティシズムの枢軸は、そういう批評精神は、特に自覚されねばならず、表面に持ち出されねばならぬ。そこにクリティシズムは認識=認識物の検討であると云わねばならぬ必要が生じて来る。するとクリティシズムはそれ自身が一種の認識論的活動であるということになる。或いは少なくとも、一種の認識論を枢軸としない限り、充分の自覚を伴ったクリティシズムであるとは云えない、ということになるのである。
私が到達したいと考えるのは、正にこういう風な結論である。こういう意味での認識論としてのクリティシズムである。尤も今まで述べて来た処が全く一つの仮定の上に立っていることを、私はゴマ化す心算はない。芸術は認識であるというリアリズム芸術理論を仮定していることを。この仮定を予め全般的に立証してかかることは物の順序から云って恐らく不可能だ。だがそうかと云って之はただの仮定ではない。すでに相当の部分に於て部分的に立証されたことから一般化された科学的な仮説なのである。この仮説を作業仮説とすることによって、却ってこの一般的な命題自身の立証に寄与出来ようというわけだ。