一
私はカントから出発する。併しカントの空間論に用いられる概念の間の関係は決して明晰ではない。之を予め纏めて見たいと思う。第一批判の「空間概念の形而上学的吟味」によれば空間は経験的概念でもなく又「物一般の関係に就いての比量的な所謂一般概念」でもない。概念は表象の Menge をその下に unter sich 含むものとは表象されるが決してそれをその内に in sich 含むものとは考えられない。然るに空間はその部分 Rume を in sich に含むものである。それ故空間は概念ではなくして直観でなければならぬ。処が又空間は「総ての外的直観の基礎に横たわるアプリオリな必然的な表象」であるから、空間はこの点から見て経験的な直観ではなくアプリオリな直観でなければならぬ。之を純粋直観と呼ぶ。次に吾々は空間内の対象なくしても空間を表象することは出来るが空間がないということは表象出来ない。即ち空間は「現象(之は外的現象と訂正すべきであろう)の可能の条件と見做される」のである。という意味は空間は物それ自身に属するものではなくして吾々の Gemt の主観的な Beschaffenheit に属する、この意味に於て直観形式に属するものである。それ故吾々は茲に空間に就いて二つの概念内容を得た。純粋直観と直観形式。今この二つの概念内容がたとえ空間なる同一のものの概念内容であるとは云え、少くとも両者は概念内容としては直ちに同一ではないということは云うまでもない。それでは両者は斉しく空間なる同一なるものの概念内容であるということ以外に直接に如何なる関係に立つのであるか。カントは「空間概念の先験的吟味」に於て云う。空間はその概念がアプリオリに与えられたものと見られる時(形而上学的吟味の場合)と同じく、アプリオリな総合認識(幾何学の如き)を可能にする原理として見られる時も(先験的吟味の場合)まず第一に概念ではなくして直観でなければならぬ。そしてそれが凡ゆる知覚に先立つ点に於て純粋直観でなければならぬと。即ち之は前の場合に於ける純粋直観と同一のものを指す。処がこのような純粋直観が吾々の Gemt に住み得る(dem Gemte beiwohnen)のはそれが主観の形式的な Beschaffenheit として即ち「外観一般の形式」として即ち直観形式として主観の内に座を占めることに依るのであるという。云い換えれば純粋直観が主観の内に座を占めると考えられる時それがとりも直さず直観形式なのである。それ故純粋直観が主観の内に座を占めると未だ考えられない間が所謂純粋直観であり、純粋直観が主観の内に座を占めると考えられる限りが直観形式である。さてこのことは純粋直観という概念内容に異った二つのものが同時に含まれていることを示している。即ち所謂純粋直観としての純粋直観と、直観形式としての純粋直観と。直観形式ではない処の純粋直観と、直観形式としての純粋直観とである。更に云い換えれば、前者に就いては形而上学的吟味の場合に於てのように純粋直観と直観形式とは区別され、後者に就いては両者は区別され得ないものである。そして事実この後の場合に相当するものを吾々は「感性論」の劈頭に発見する。それによれば現象内で感覚に対応するものを Materie と呼び「現象の多様が或る一定の関係に順序づけられる」ことを成り立たせるものを現象の Form と呼ぶ。処が感覚にぞくするものを少しも含まない表象を純粋と呼ぶのであるからかかる形式は「感性直観の純粋形式」と呼ばれる筈である。これは即ち直観形式である。処がかかる純粋形式に於て「現象の多様の総てが或る一定の関係に直観される」のである。故にかく直観するその理由によってこの直観形式は又それ自身純粋直観である、というのである。即ち直観形式即純粋直観ということとなる。かくして純粋直観が直観形式とは区別されながらそれと同時になお之と同一視されるという外見上の矛盾は、純粋直観という概念の異った二つの内容の区別と、而もこの異った二つの内容が或る何かの特殊な関係に従って同時に同じく純粋直観と呼ばれ得るということ、とを指し示すものに外ならない(私は以後直観形式と区別された方の純粋直観を第一のそれ、区別されない方を第二のそれと呼ぶ)。
それでは第一と第二の純粋直観のこの区別は実際には如何なるものとして現われるか。それを見るために私はカントの直観形式乃至純粋直観としての空間とは如何なるものと考えられるかを他の方面から検べて見る。空間を直観形式と云うにしてもカントの意味する処は実は框や箱のような frame-work であってはならないそれ自身力を働すものでなければならぬ。又それは Subjekt や Gemt の Beschaffenheit と云っても Subjekt や Gemt の不変な構造 Organism とも云うべきものではないことも明らかである。直観形式とは直観の「基礎に横たわる」もの「現象の可能性」や感性の「制約」であるというのが最も当っているであろう。併し基礎と云い制約と云ってもそれが時間上何かに原因として或いは発達の歴史の上で先立つということでは勿論ない。この意味に於てそれは何かに論理的に先立つものと一応考えてよいであろう。併し論理的に先立つということが単に心理的に先立つのではないということだけを意味する限りこの言葉は正しいが、それが純粋に論理学的な意味に於て理由帰結の関係の理由を意味すると解釈することは今の場合全く意味がない。制約するものと制約されるものとの関係が論理の世界にあるという事はこの場合一般に無意味である。かく解釈された直観形式が例えば純粋直観であるなどと云うことは如何なる意味に於ても何処からも出て来る筈がないのであるから。それ故吾々に残される処は時間的な順序でもなく而かも所謂論理的な時間の順序でもない処の「基礎」又は「制約」でなければならぬ。それは之なくしては与えられた何物かが成立し得ないという意味に於ける限りの先験論理学的な予想であると云われるであろう。併しかく云ってもそれは直ちに制約そのものがロゴスの世界に属するということにはならない。なる程制約そのものはロゴスの世界にぞくし制約されるものの方はこのロゴスによって始めて成り立つものであると一応は考えられるでもあろう。併しロゴスから空間を如何に演繹することに努めるにしても得る処の終局のものは高々同時存在の形式に過ぎぬと思う。それは Rumlichkeit とさえ云うことは出来ない。複素数が直ちに幾何学の平面であるのではない。無論同時存在が今の場合でも制約と呼ばれ得るということはそれ自身不当ではないであろう。併しそれは要するに思惟の形式であって今の場合に求められる直観の形式ではない。同時存在は云うまでもなく空間そのものではないのである。もしロゴスから空間そのもの(それは空間なる概念ではない)が演繹され得ないとすればかかる汎論理主義的解釈は今の場合には無用である。それでは所謂論理的基礎とか根拠とか予想とかと呼ばれるものはカントの空間の場合どう解釈すべきであるか。私は茲に空間意識は如何なるものであるかを多少立ち入って一般的に考えて見たい。Gesichtsraum とも云うように少くとも視覚は空間の意識を成り立たせている。視覚の対象を色と形に分かてば両者は互いの関係に於て全くその性質を異にしていると考えられる。云われる如く吾々は形のない色を表象することは出来ない。無論一定の形なくしても色を表象出来るであろうが形一般とも云うべき拡りなくしては不可能である。之に反して吾々は色なくしても拡りを表象し得るということが出来る。形はただ色と色との境界によってのみ成り立つにしてもその二つの色がすでに拡りの上で成り立っているのであるから色はただ拡りをして一定の形をとらしめるのに役立つだけである。拡りそのものは色には依存しない。今或る物体を視ると云う時恐らく色によって一定の形に限界された物体の表面を視るのであろうが、その場合吾々はフィヒテの云うように「表面を視ること」を直観しているのである、Sehen そのものを直観しているのである。この場合視られるものは物体の表面であるが直観されるものは物体の表面の純粋な形像であるということとなる。それが即ち空間である(Fichte, Bestimmung des Menschen.)。即ち純粋な形像(形、拡り)とは Sehen そのものの直観されたものである。赤の視覚は赤くないと云われるようにかかる純粋形像としての空間は色を含まない。視られた物体の表面はこの純粋な形の直観に色の感覚が加わったものと考えねばならぬ。かく云うと直観されるものは視覚であり又空間であるという不当な結論に来るかのように見えるが併し直観なるものの一般的な特質は直観するということが直ちに直観されるということに結び付く点になければならぬ。視覚が直観されると云うも直観するものが視覚の外に立つのではない、空間の直観は依然視覚の内になければならぬ、而もそれは単なる視覚を超えて直観するものでなければならぬ。視覚が直観されるとはかく直観することを意味する。そしてその対として空間が直観されるのに外ならない。又単に視覚が直観されるということから如何にして直ちにそれを空間の直観と云い得るかという疑問もあるかも知れないが、吾々は今空間を演繹しているのではなくして空間の直観としての特質を吟味しているにすぎない。空間は始めから予想されているのである。空間の直観はこのような根拠に於て感覚を超越し、Sehensakt そのものを直観することによって直観された空間を成立させる処の(何となれば直観するとは直観されることであるから)ものに外ならない。それ故これは単なる Anschauen ではなくして ussere Anschauung(Fichte, Lotze 其の他)又は Hinschauen(Fichte)と呼ばれねばならぬ。而も空間直観のこの関係は云うまでもなく視覚には限られない。少くとも触覚にも共通でなければならぬ。併し元来この共通とは何を意味するか。それは視空間も触空間も結局同一の空間に落ち合わねばならぬということを意味する。もし同一の空間に落ち合わぬとすればそれは空間直観とは云うことが出来ない。何となれば空間をなお感覚乃至知覚と考える時にのみ心理学の教えるように二つの空間が異るものと考え得るのであるから。かく同一のものに落ち合うということは空間直観が感覚を超越するということから少くともその可能性を得なければならない。併し只それだけではそれがまだ実現されるには至らない。それが実現されるためには空間直観に規範性が予想されねばならぬ。空間の意識は単なる内在と解釈し尽すことは出来ない。それは意識を超えることの意識である。客観的実在の意識でなければならぬ。それは実在認識の規範でなければならぬ。空間の意識が単なる意識からしては演繹出来ない処に空間の radical な特質があると思う。空間は永遠に内在化すことの出来ない外界を成立せしめる規範である。客観界の唯一性は之によって始めて保証されるのである。この規範性によってあらゆる空間表象が唯一の空間直観に結び付くことが出来るのであると思う。そしてこの規範性によってのみ空間直観は原理上一般の直観と区別される。Hinschauen と云うも之に基くに外ならない。カントが空間に与えたアプリオリの性質は人も云うように正にこの規範性と解釈すべきである。かの「基礎」とか「制約」とかの真の意味も茲になければならぬと思う。併し茲に注意すべきことは、この規範性は空間がただ感覚を超越して作用そのものに基く処の空間直観というような現実の意識であったればこそ成り立つことが出来たものである。少くとも今の場合には例えば空間性というような規範が現実の意識を離れてそれ自身に成り立つというように考えることは絶対に出来ない。空間の規範性は正にそれが空間の直観であるという事情そのものに外ならないのである。規範そのものが空間の直観である。それが表象の規範であると共に又規範の表象でなければならぬ処に、空間が他の一切のものから区別される空間らしさがあるのである。空間は第一に直観でありその限り第二に規範である。
さてかくして第一に空間意識はかかる意味に於て空間直観であることを明らかにした上で吾々の始めの問題であったかの第一及び第二の純粋直観の区別を見よう。已に述べたように直観には一般に直観するものの方面と直観されるものの方面とが備わっていなければならぬ。従って空間直観には客観化されたものの側と未だ客観化されない主観の側とがなければならぬ。今第二の即ち直観形式である処の純粋直観はそれが直観の形式である以上そして直観が之なくしては成立しない以上この直観に或る一定の意味に於て先立つものでなければならぬ。然るに之は恰も前に述べた空間直観の未だ客観化されない側がもつ性質に外ならない。それ故第二の純粋直観とは直観する側面であり従って第一の純粋直観は直観される側面となる。事実カントは第一の純粋直観に関しては常に幾何学的に対象化された空間を例に引くのである。こう考えて始めて両者は空間直観のこのディアレクティッシュとも云うべき特質によって同時に同じく純粋直観と呼ばれる必然性があると云わねばならぬ。そしてかかる意味に於ける直観形式と純粋直観との対立を意識して来ることはとりも直さずカントがその感性論を離れてその「先験論理学」の空間論に這入って行くこととなる。
カントは「演繹」に於て次の如く云っている。「外的感性的なる直観の単なる形式である空間はまだ全く認識ではない。その空間は単にアプリオリな直観の多様を或る可能的な認識へ与えるに過ぎない。併し何かを例えば線を空間内に認識するためには私はその線を引いて見なければならぬ。かくて与えられた多様の一定の結合を総合的に成り立たせねばならぬ。かくてこの手続きの統一は同時に意識の統一(或る線の概念)である。そして之によって始めてオブヤェクト(一定の空間)が認識されるのである」と。之によれば始めに「まだ全く認識ではない」と云われた単なる形式としての空間は吾々の先の意味での直観形式であり、カントが之とは区別した処の「一定の空間」なるものは従って明らかに第一の意味での純粋直観に外ならぬと一応は考えられる。事実カントが「空間は単に感性の形式としてではなく直観自身として表象される」(Kritik der reinen Vernunft, 2 Aufl. S. 160)と云う時、この直観自身とは特に直観されたものを意味すると解さねばならぬ如く、前の「一定の空間」とは明らかに第一の意味での純粋直観に外ならぬと一応は考えられる。即ち茲にカントは私が先程指摘した様に第一の純粋直観と直観形式との対立に立つものと考えねばならぬ。然るにこの対立と共にカントは同時に夫に一つの転向を与えていると考えられる。というのはカントの言葉に従えば空間は「ある多様を含む処の直観自身として表象される、即ちこの直観内のこの多様の統一という規定を以てアプリオリに表象される」(S. 160)と云うが「直観自身として表象される」とは依然直観されるということ以外に正当な意味はないと思う。カントは直観的表象に統一するとも云っている。従って茲に直観自身として表象されるという意味での直観と直観自身とが再び区別されねばならぬ。前者は多様の統一という規定を持つに反して後者にはそれを持つということが考えられていない。後者は単に直観されたるもの即ち第一の意味での純粋直観であるに反して前者はカントの言葉を用いれば「多様を一つの直観的な表象に zusammenfassen する」処の統一という規定を備えた直観でなければならぬ。即ち前の場合にはもはや第一の意味での純粋直観と全く同一とは考えられない。カントは特に之を形式的直観と呼ぶのである。併しカントはこの形式的直観と純粋直観との異同は特にこれを言明してはいないように思われる。私はもう少し立ち入って茲を解釈して見よう。形式的直観が統一という性質を備えているということは如何なる意味であるか。夫は云うまでもなくこの統一によって形式的直観そのものが成り立っているということに外ならない。即ち形式直観が統一の結果であるということである。処がこの統一をば統一するものと統一されるものとの二つの分に解いて考えて見るとすれば、この場合統一されるものというのに相当するものはこの形式的直観ではない。何となれば形式的直観はすでに統一されたものであるから。従って求められたものは未だ統一されない処の直観に相当しなければならぬ。即ちそれは先の第一の純粋直観というの外はない。然るに明らかに単に統一するもの又は単に統一されたるものというものはない、成り立っているのは統一されたるものである。即ち単なる純粋直観なるものはない、あるものはただ純粋直観が統一された形式的直観のみである。それ故正しく云うならば形式的直観の統一によって始めて純粋直観が成り立つのである。云い換えれば第一の純粋直観は形式的直観のコンポーネントと考えられることによって始めて空間直観の面目を現わすものである。純粋直観とは実は形式的直観でなければならぬ。カント自身の云うように形式的直観の統一によって空間が直観として始めて「与えられる」のである(S. 161)。吾々は今純粋直観と直観形式との対立から出発したのであるが、純粋直観がかく形式的直観に帰するとすれば、それではかかる形式的直観とかの直観形式とは如何なる関係に立つか。「直観の形式は単なる多様を、之に反して形式的直観は表象の統一を与える」(S. 160)ものである。それ故形式的直観は単なる直観の形式以上のものと考えねばならぬであろう。而も「空間は対象として表象される時(それは実際幾何学で必要なことであるが)それは直観の単なる形式以上のものを含む」(同上)。之によって見れば形式的直観とは実はすでに対象化されたものであると見ねばならぬ。それでは形式的直観の未だ対象化されない処のものは何であるか。それが直観である以上かかるものは必ずなければならぬことである。それは何か。それは明らかにこの直観形式ではあり得ない。何となれば之によっては単なる多様が与えられるだけであるから。併しながら第一の純粋直観が先に述べた意味に於て形式的直観(対象化されたる)に帰する以上その対立たる直観形式も亦形式的直観(対象化されざる)に帰する外はない。直観形式というも実はこの意味での形式的直観に帰するものと考える外はない。単なる多様を与える直観の形式なるものはない、あるものは多様の統一即ち直観的表象への統一を与える直観形式のみである。それ故かくして純粋直観と直観形式との対立は対象化された形式的直観と未だ対象化されざる形式的直観との対立に移って来る。この移り行きはとりも直さずカントがその「演繹」から※Analytik der Grundstze“の空間論に移ることを意味するものであると思う。
この対象化されたものと見るべき形式的直観のこの表象の統一はカントによれば「与えられたる直観一般の多様を範疇に従って根本的な意識に結合する統一に外ならない」(S. 161)。これは如何にして可能であるか。カントによればこの統一は「空間の諸概念 alle Begriffe」が始めて可能にされる処の Sinn には属さない或る一つの総合を予想している。即ちこの表象の統一の背後には或る一つの総合がなければならぬ。この総合を明らかにするものは「直観の公理」に外ならない。凡ゆる現象が経験的な意識(それは現実的な意識という意味であるが)にとり入れられるためには das Gleichartige の結合とこの同様なるものの多様の総合的な統一の意識に是非とも依らねばならぬ。処がこの同様なるものの多様の意識は直観に於ては量の概念である。然るに吾々は「どんな短い線と雖もそれを心の内で引く in Gedanken zu ziehen のでなければ、即ち一点から次第次第に凡ゆる部分を生産しそれによって始めて線という直観を示すことによらなければそれを表象することは出来ない」。吾々はこのように部分の表象が全体の表象を基けそれに先立つものを外延量と呼ぶ。それ故空間はかかる外延量に外ならない。直観の公理の「原理」に従えば「総ての直観は外延量」なのである。外延量として統一されたる直観は上に述べたような部分の順次総合によって可能となるのである。外延量として統一されたる空間の直観は対象化された統一を含む点から見てかの対象化された形式的直観でなければならぬ。然らばこの対象化された形式的直観を基けると考えられた部分の順次総合とは何か。カントによれば空間の意識に於てかく部分を順次に総合するものは produktive Einbildungskraft に外ならない。一般に現実意識を齎すものは実にこの生産的構想力である。生産的構想力が空間直観を成り立たせるレーゲルこそこの順次総合に外ならない。このレーゲルは空間の表象の統一そのものである。そしてこのレーゲルによって生じた Produkt 即ち「図式」としての図形の如きものこそかの対象化された形式的直観である。それ故生産的構想力のこの順次総合こそ正しくかの未だ対象化されない形式的直観に相当しなければならぬ。空間を単に客観的なものとしてのみは考えずに空間の具体的なる形式的直観と解する時以上の如く考えねばならぬのではないかと思う。対象化された形式的直観と未だ対象化されない形式的直観との対立は構想力としての形式的直観によって直接に結び付くのでなければならぬ。空間が直観である所以はカントに於てはかかる形式的直観として現われると思う。そして又形式的直観はすでに構想力と解釈されたのであるがカントによれば構想力は範疇へ結び付くものでなければならぬ筈である。構想力の順次総合のレーゲルとは構想力が範疇に従うことを意味するに外ならない。即ち形式的直観はその限りに於て範疇的と呼ばれることが出来る。然るに範疇とは人も云うように認識の規範ということに外ならない。形式的直観は規範的でなければならぬ。カントが空間に認めたアプリオリとは実はこの規範性に外ならない。直観空間は規範である。