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澪標
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澪標
外村繁
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Chapter 4 of 16

4

私は弟と本家の花園で遊んでいた。本家の花園は別屋敷になってい、上畑へ行く道を挟んで、悌二郎家と対している。その半ばは芝生になってい、ぶらんこもあって、私達の恰好の遊び場になっている。開けっ放しになっていた門から、たつが顔を出した。たつは上畑の帰りらしく、手に提げた竹籠には青い豆が入っている。

「何してやすのや。明さんもおとなしいな」

たつは言葉遣いもよくなり、行儀も改ったが、依然として快活である。

「あれ、ぶらんこや。ちょいと乗らしてもらお」

たつはぶらんこに飛び乗り、脚を曲げて繰り初める。私は一寸たつの方へ目をやったが、直ぐ遊びの方へ目を返した。しかしそれがどんな遊びであったか、記憶はない。

人の来る気配に顔を上げる。本家の男衆の万歳が立っている。たつは威勢よくぶらんこを繰っている。万歳はすっかり私達を無視した態度で、片手を小手にかざして言う。

「これは、これは、絶景なり、絶景なり」

しかしたつはぶらんこを少しも緩めようともせず、上から言い返す。

「いやらしやの。ほんなところ立ってんと、早う、向こい行き」

「ひゃあっ、胸がだいこだいこ、腹がかっぶらかっぶら」

「阿呆いうてんと、早う行かんと、唾かけるほん」

「おたつどん、あきんどの節季や。もうけが見えたがな。後に未練はあるけんど……」

万歳は浪花節のような節で歌いながら、花壇の方へ引き返して行く。たつはぶらんこの上で、高く声を上げて笑っている。

私にも万蔵の言った意味はもう判る。そう思うと、急に好奇心が湧く。私はそっと顔を上げる。途端に、裾を翻した着物の中で、たつの二本の脚が弧を描いて、高く、私の視線を掠め去った。しかし万蔵のいったようなものは何もなかった。

五年生になった。担任は北村先生である。脇村先生は膳所中学校に転任された。次兄は先生の許に寄宿することになったようである。この年、弟も小学校に入学する。

宿直室で身体検査を受ける。男生徒と、女生徒とは別である。当時の子供はパンツははいていない。男生徒達は素裸で検査を受ける。しかしこの年齢の男生徒にはまだ羞恥感はない。むしろ解放された喜びから、騒ぎ廻っている。

女生徒の場合は異る。この年齢の女生徒には既に羞恥心は目覚めている。宿直室の戸をしめ、女生徒達は軽く興奮した声を発している。しかし廊下に面した宿直室の窓は紙障子で、ところどころ破れている。女生徒達の半裸の姿も見える。

女生徒達は障子の破れに気づくと、大騒ぎをする。しかし男生徒の目が女生徒の羞恥を呼びおこしたのではない。むしろ逆である。女生徒の恥しそうな姿勢が、男生徒の目を障子の穴に誘い寄せたのではないか。

私だけの記憶によると、この頃の私の性欲はまだ自分自身のものとしては目覚めていない。しかしもう単なる好奇心だけで「女の子」を見ることはできない。女生徒の羞恥に誘われたかのように、そこはかとない感情を伴うようになった。

そう言えば、今までの身体検査も男女別であったか、どうか、というより、学校の身体検査などというものは全然記憶を刻んでいない。従って、この頃になって、「男の子」と「女の子」との区別をはっきり意識するようになった、と言える。更にその頃の私にはまだ性欲はないが、既に仄かな色情は発芽していた、と言えるのではないか。

庭には雨が降り頻っている。強い雨である。空は白い雲に覆われているが、かなり明るい。私は中の庭の方へ歩いて行った。中の庭に面して、離れの間がある。女中部屋になっている。ふと見ると、とよが一人で昼寝をしていたが、その着物の前が乱れ、赤い腰巻の闇から膝法師が僅かに覗いている。私は見てはならないものを見たと思い、かなり動揺する。急いで視線をそらし、軒下伝いに歩いて行く。

竪樋がある。雨が激しいためであろう。ごぼごぼと、いかにも過分の水量を吐き出すような音を立てている。雨水も泡立っている。私は何ということもなく、そこへしゃがみ込む。

雨の中に柘榴の花が咲いている。朱塗りの小燭台のような、堅い萼の上に、数片の赤い花弁が乱れている。雨は屋根の瓦を打ち、軒廂を叩き、木木の葉を鳴らして、かまびすしい。濁音や、半濁音のさまざまな雨音の中に、突然、梅の実の落ちる音がする。意外に大きい音である。

夏季、七月に入ると、昼食後二時間、女中達は休息の時間を与えられる。その間、彼女達は多く私用を弁じるが、昼寝することも珍しくない。

しかし、とよの先刻の姿は寸時も私の頭から離れない。何故かといえば、とよが美人だからでもあろう。人もそう言うが、この年頃になると、私にも女の年齢や、その容貌の美醜も何となく判って来る。その上、とよは不断から至って行儀がよい。ひどい恥しがり屋でもある。が、あの時はとよの羞恥もうとうとと眠っていたのかも知れない。

とよの羞恥が目を覚ました時、とよは果してどんな顔をするか。それともとよはまだ眠っているか。更にとよの姿には何等かの変化が生じているか。窃かに好奇心が動く。

しかし私の好奇心は今までのように、単なる探究心だけではない。既に何となく罪悪感を伴わないわけにはいかない。少くとも恥ずべき行為であることを知っている。また実際にも恥しい。が、女の示す羞恥の姿は、ひどく甘美な匂いを放つ。私は心にもなく、いつかその匂いに誘われて行く。

その頃、東の屋敷は既に家屋は取り払われ、南を受けて物干しが立てられている。しかし厳格な母は女の下穿の類をその物干しに干すことを許さない。裏庭の物置小屋の軒下に、女中達のそれ等のものは干されている。そんな布切さえも、最早、私は何気なく見過すことはできない。しかしそれらの布切に包まれているであろう、女中達の肉体に想像を逞しくするほど、勿論、私の色情は成熟しているわけではない。

赤いのもある。鴇色のもある。新しいのもある。洗いざらして、色の褪せたのもある。とよのであるか。たつのであるか。まるで若い女の秘密が曝されているようである。私は女中達のつつましい羞恥を感じる。殊に森閑とした裏庭で、その色に白壁を染めながら、落日の斜陽に照り映えているような時、私はむしろ哀しみにも似た感情に襲われる。しかしそれは虚空に笛の音を聞いているような、遥かに遠い感情のようにも思われる。そうしてそんな感情が何に起因しているのか、もとより私は知る由もない。

いつともなく、たつもすっかりおとなしくなった。たつはよく働いたが、その立居は見違えるばかりに女らしくなった。何がたつをこんなに変えたか、私は不思議でならない。また、人人もいうように、たつはめっきり美しくもなった。

「来やはった時は、雀の巣みたい髪してやはったが」

するとたつの髪は稚児髷ではなかったか。確かに、あの時、前屈みになっていたたつの頭は稚児髷であった。しかし最早、羞恥の感情を伴わないで、たつのそんな姿を回想することはできない。私は片手を額にかざし、たつをからかう。

「たつ、たつ、九居瀬が見えるわ」

「もうほれだけは、言わんといておくれやす」

たつは赤く顔を染めた。

「たつ、またこそぼり合いしようか」

私がそう言えば、たつは何と答えるか。私は少なからず興味を覚える。しかしたつのふくらかな姿態を見ていると、私はどうしてもそれを口にすることができなかった。

その頃から、私はテニスに熱中するようになる。学校のコートは六年生が殆ど独占する形になっている。私は母にネットを買ってもらう。ラケットは兄達のが何本かある。私は東の庭の空地をコートにし、友達を誘って来て、球が見えなくなるまでラケットを振る日が多くなった。

テニスだけではない。私は野球や、相撲にも興味を覚え、新聞の運動記事をまっ先に見るようになる。当時の野球記事は美文調で、ひどく勇ましい文章が多かった。

私がスポーツを好むようになったのは、勿論、兄達の影響である。しかし私の中の男性的なものが発育して行くにつれ、私はいつともなく自分の容貌や、性格に嫌悪を感じ初め、常により勇しく、より男らしくありたいと、無意識の裡に願い続けていた、その一つの現れであると思われる。

私はまた私の家の古臭い家風に反感を抱き初める。そうしてその厳格な遵奉者である母と、よく言い争うようになった。

六年生になった。担任の先生は堀先生である。私は最上級生になり、緊張感を新しくした。

が、ある日、私の名前と、同級の女生徒、新村淑子との名前を連ね、例の女のものを描いた楽書を発見する。しかも楽書は私の家の、道路に面した白壁の塀の上に、大きく書かれている。私は自分の顔の上を汚されたようで、ひどく不愉快である。淑子の家と、私の家とは遠縁になるが、二人は学校以外で顔を合わせたことはない。全く無意味というべきである。しかし決して名誉なことではない。私は何となく腹が立つ。

翌日、私は学校へ行った。奇妙なことに、私はいつものように虚心でいることはできない。それでいて、それとなく淑子の姿を探している。淑子は学業も勝れ、体格も近来急に成育し、女生徒の先頭である。容貌も既に美しい輪郭を整え初めている。そんな淑子を見出すのに、私はさして時間を要するはずはない。

淑子の視線が私を捕えた。そう思った瞬間、淑子はさっと顔を赤らめ、急いで視線をそらした。すると、私の意志には関係なく、私は私の顔も淑子のそれと同じ色に染っていくのを覚えた。

とよが嫁入りするので、暇を取るという。とよに限らず、女の人が嫁入りしても、友達が口にするようなことをするとは、私は信じられない。しかしとよのむしろ悲しげな笑顔を見ると、ふと、疑いが湧かなくもない。更に私にそんな疑念を抱かせたことが、とよにとっても、私にとってもひどく恥しいことのように思われる。とよの生家は伊吹山麓の農家である。嫁ぐ家も農家であるという。とよからよく聞いた、鄙びた山家の風景の中にとよの姿をおくことによって、私は私の心を紛すより他はない。

とよに代って、清子が来る。清子の故郷は山上であるという。たつの話によると、山上も愛知川に沿っているが、九居瀬よりずっと下流で、町のように賑やかな所もあるという。清子はたつより一つ年下であるが、高等科も出ていて、たつの場合のようなことは全く見られなかった。

六年生になると、かなり忙しい。私は学校の運動場のコートでテニスをする。選手にも推され、対校試合にも出場する。堀先生は授業に熱心であるから、うっかり復習を怠るわけにはいかない。中学校の入学試験の準備もしなければならない。

「お尻まくりやはった」

誰かが大きな声で言う。二三の生徒がそれに和する。するとこの馬鹿げた遊びが始ったことになる。そうして全校の生徒は否応なしに参加したことに、まるで習慣法のようになっている。その代り、よほどの無法者でない限り、不意打ちは行わないことに、これまた同様決まっている。しかし私は袴を穿いているので、自然に参加しないことになっている。

こんな馬鹿げた遊びが始っても、何分小学生のことであるから、さして重苦しい変化は生じない。むしろ屋内運動場にはどこかおどけた、はしゃいだ空気さえ漂っている。

下級の女生徒の中には、着物の裾を股の間から持ち上げて、走り廻っているものもいる。上級の女生徒達も今までの遊戯を中止したりはしない。しかし周囲に注意は怠らない。また、お手玉をつきながら、壁を背にする位置に後退するものもいる。

男の生徒達もせっかちに追い廻したりはしない。そ知らぬ顔をして、女生徒達の隙を窺っているのである。つまり男生徒達と女生徒達の間には微妙な心理作戦が行われている。そうしてそのいずれもが複数であるところに、複雑な興味が生じる。

「馬鹿げた遊び」と言った。が、小学校も上級になると、女生徒達ははっきり羞恥の色を示すようになり、私の心の中にもそれを反映するものが生じた。最早、私には「馬鹿げた遊び」などと言える資格はない。私は何知らぬ顔をして、一人雑誌を開いているが、私の目は誰よりも強い興味を持って、この「馬鹿げた遊び」に参加していた、と言えなくもない。

「今日こっさり、お淑をやったろまいかい」

Chapter 4 of 16
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