Chapter 1 of 31

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明治人物月旦(抄)

鳥谷部春汀

公爵 伊藤博文

個人としての伊藤侯と大隈伯

伊藤侯と大隈伯とは當代の二大政治家なり、隨て其人物に對する批評の紛々たるは亦此侯と此伯を以て最も多しとす。是れ其の個人としての性格未だ明かならざるに由る。故に之を觀察して甲乙性格の異同を對照するは實に多少の趣味なからんや。

概していへば、伊藤侯と大隈伯とは互ひに相似たる所之れなきに非ず。才を愛し士を好むは相似たり辭令に嫻ひ談論に長ずるは相似たり莊重にして貴族的姿致あるは相似たり博覽多識にして思想富贍なるは亦相似たり然れども同中固より異質なくむばあらじ。

大隈伯の思想は經驗より結撰し來る故に其の開展するや歸納法の形式を具ふ伊藤侯の思想は讀書より結撰し來る故に其の開展するや演繹法の形式を具ふ大隈伯固より讀書を嗜む然れども抽象的理論よりも寧ろ具象的事實を貴ぶ伊藤侯固より經驗を非認せざる可し然れども侯の得意とする所は寧ろ學理に在りて事實に存せじ、是れ其の均しく博覽多識なるに拘らず、一は最も經濟に精しく、一は最も立法に長ずる所以なり。

伊藤侯は公卿華族の如く、大隈伯は大名華族の如し故に莊重の中に優美を寓するは伊藤侯にして、莊重にして且つ豪華なるは大隈伯なり伊藤侯は威儀を修めて未だ雋俗ならず大隈伯は偉觀を求めて終に閑雅の風に乏し大隈伯に逢ふものは、其の敬す可くして狎る可からざるを思ひ、伊藤侯に接するものは、其の悦ぶ可くして畏る可からざるを感ず是れ其の均しく貴族的姿致あるに拘らず、一は武骨を以て勝ち、一は文采を以て優る所以なり。

伊藤侯の辭令は滑脱婉麗にして些の圭角なし、以て夜會の酬接に用ゆ可く大隈伯の辭令は機鉾鏃々として應答太だ儁、以て戰國の外交に用ゆ可し其の言を發して情致あるは伊藤侯の長所にして、其の語を行ること奇警なるは大隈伯の妙處なり若し夫れ談論滔々として竭きざるの概に至ては、未だ遽かに軒輊し難きものありと雖も、伊藤侯の音吐朗徹聲調抑揚あるは、演壇の雄辯として大隈伯に優ること一等唯だ精明深刻舌端に霜氣あり、座談久うして益々聽者を倦ましめざるは是れ寧ろ大隈伯の特絶にして、其の一たび佳境に到れば、眉目軒昂英氣颯爽として滿座皆動く故に大隈伯の雄辯は對話に適し、伊藤侯の雄辯は公會に利あり。

才を愛し士を好むに於て、伊藤侯と大隈伯とは共に他の元勳諸公に過ぐ故に其の門下生に富むも亦實に當代に冠たり然れども伊藤侯の愛好するものは、柔順御し易きの徒に非むば巧慧※薄の輩多し大隈伯は然らず、伯は唯だ人を智に取りて其の清濁を論ぜず故に愚者を近けざるの外一藝一能あるものは勉めて之れを容れんとす量に於ては大隈伯確かに伊藤侯の上に出るを見る蓋し伊藤侯は勉めて他の信服を求むと雖も、未だ意氣を以て人を感ぜしめたるを聞かず天下知己の恩あり、一たび之れに浴するものは爲に死を致さむことを思ふ然れども知己の恩は私恩に同じからず私恩を介するものは概ね利害にして、知己の恩は則ち意氣を通じて來る或はいふ侯は私恩を賣るに巧みなりと夫れ私恩は以て面從を得可く、以て信服を求む可からず而も面從一變すれば主を噬むの狗となり、獅子身中の蟲となる唯だ侯の聰明能く此の憂を免かるるのみ顧みて大隈伯を見るに、伯は必ずしも信服を人に求めずと雖も、其の自ら來て信服するものは、亦善く之を用ひ善く之れを導く是れ其伊藤侯と大に異同ある所以なり。

大隈伯の特質として最も著明なるは、精神常に活動して老て益々壯んなるに在り伯曾て人に語て曰く、隱居制度は亡國の條件なりと其の春秋漸く高くして壯心次第に加はる如き、其の向上精進毫も保守の念なき如き、其の冀望抱負常に新たなるが如き、伯は實に天性進歩主義の人物なり伯の進歩主義は獨り政治上の智識より出でたるに非ずして、即ち伯の生命なり、伯の理想なり之れを伊藤侯の動もすれば林下退隱の状を爲すに比す、則ち本領の甚だ差別あるを知るに足る伯又口を開けば常に自由競爭を語る自由競爭は乃ち伯の人生觀たる莫らんや人生既に自由競爭の運命ありとせば、優勝劣敗は天則にして、世界は優者の舞臺なり伯の老て益々壯んなるは顧ふに之れが爲のみ。

伊藤侯の特質として最も著明なるは、風流韻事自ら高しとするに在り暇あれば必ず詩人を邀へて共に煙霞を吐納し、筆墨を揮灑す是れ胸中の閑日月を示さんとすればなり大隈伯は伊藤侯の風流韻事なく、未だ詩を作り文を品するの談あるを聞かずと雖も、伯の嗜好は反つて一種瀟脱の天地に存するものあり何ぞや、曰く園藝に對する嗜好是れなり伯は園藝を以て啻に一身を樂ましむるのみならず、亦交際を醇潔にし、人心を調和し、道心を養ふの益ありと信ぜり伯曾て客に戲れて言ふ、世間予の庭園に耽るを笑ふものあれども、彼の千金棄擲解語の花を弄するものと得失孰れぞやと要するに伊藤侯の風流は東洋的にして、大隈伯の嗜好は西洋的なると謂ふ可し。

伊藤侯の銅臭なくして艶聞ある、大隈伯の艶聞なくして銅臭ある、世之れを稱して好個の一對と爲す然れども財を好て私徳を傷るに至らずむば、未だ之れを以て大隈伯を譏る可からず色を好て公徳を紊さずむば、未だ之れを以て伊藤侯を累はすに足らず况んや大隈伯の財に於ける、善く積て善く散ずるの道に依り、伊藤侯の色に於ける、是れ英雄懷を遣るの餘戯に過ぎざる可きをや之れを聞く、前年伊藤侯の邸に舞踏會あるや、偶々醜聲外に傳りて、都下の新聞日として侯を議せざるなし人あり侯に勸むるに新聞記事の取消を以てす侯笑つて曰く、事の公徳に關するものは予固より之れを不問に附する能はず、區々一身上の誹毀何ぞ意に挾むに足らんやと侯の磊落なる洵に斯くの如し、是れ其の割合に世の憎疾を受けざる所以なり獨り大隈伯は、其の貨殖に巧みに經濟に長ずるを以て、人或は伯の平生を疑ひ、奸商と結托して往々私利を謀るものと爲す、是れ亦思はざるのみ世には其の言を孔孟に借て盜跖の行あるもの少なからず伯や固より清貧を裝ふの僞善家を學ぶ能はずと雖も、其の决して黄金崇拜の宗徒たらざるは、伯が親近するものゝ反つて廉潔の士多きを以て之れを知る可し。

伊藤侯は信仰を有せず若し之れありとせば唯だ運命に對する信仰あるのみ故に侯は屡々高島嘉右衞門をして自家の吉凶を卜せしむ大隈伯は宗教信者に非ず然れども一種敬虔の情凛乎として眉目の間に閃くは以て伯が運命の外別に自ら立つ所あるを見るに足る蓋し伊藤侯の屡々失敗して毎に之れが犧牲と爲らざるは殆ど人生の奇蹟にして、大隈伯の屡々失敗して飽くまで其の自信を枉げざるは猶ほ献身的宗教家の如し故に伊藤侯は得意の日に驕色あり大隈伯は得失を以て喜憂せず。伊藤侯は英雄を尚び、大隈伯は功業を尚ぶ夫れ英雄を尚ぶものは人の又己れを英雄視せんことを求む、故に伊藤侯は外に向て英雄らしき詩を作り内に向て伊藤崇拜の隷屬を作る夫れ功業を尚ぶものは唯だ自家の經綸抱負を布かんことを望む故に大隈伯は必ずしも英雄を畏れず、必ずしも歴史上の人物に感服せず其の古今を呑吐し、天下を小とするの概あるは蓋し之れが爲めなり。

個人としての伊藤侯と大隈伯とは夫れ斯の如し約して之れをいへば、伊藤侯は太平時代の英雄にして、大隈伯は亂世時代の巨人なり大隈伯の隆準豺目にして唇端の緊合せる、自然に難を排し紛を釋くの膽智あるを示し、伊藤侯の象眼豐面にして垂髯の鬆疎たる、自然に無事を喜び恬を好むの風度あるを見る又以て此の二大政治家の個性を諒す可し。(廿九年七月)

伊藤侯の現在未來

藩閥控制

嚮に伊藤侯が、自ら骸骨を乞ふて大隈板垣兩伯を奏薦し、以て内閣開放の英斷を行ふや、藩閥家は侯を目して不忠不義の臣と爲し、極力其擧動を詬罵するに反して、侯の政敵は寧ろ侯の英斷を賞揚し、或は侯を以て英國の名相ロペルトピールに比するものあり或は侯の内閣開放は、恰も徳川慶喜の政權奉還に似たる千古の快事なりといふものあり中には其擧動の意表なるに驚きて、反つて侯の心事を疑ふもの亦之れなきに非ず既にして侯は遽かに遊清の擧あり、詩人及び記室を携へ、輕裝飄然として西行するや、世間復た侯の未來をいふもの紛々として起る或は曰く、是れ侯が永訣を政界に告げて老後の風月を樂むなりと或は曰く、是れ卷土重來の隱謀を蓄へ、暫らく韜晦して風雲を待つなりと或は曰く、是れ大隈板垣の兩伯をして苦がき經驗を甞めしむる爲なりとされど余を以て侯を視るに、侯の退隱は、舊勢力と分離して、將に來らむとする新勢力と統合せむが爲めのみ侯は善く此の過渡の時局を處したるのみ豈他あらむや。

舊勢力とは何ぞや、藩閥是れなり新勢力とは何ぞや、政黨是れなり初め憲政黨の成立するや、侯は三策を建てゝ藩閥の元老に謀る上策に曰く内閣を維持すると共に、別に政府黨を作りて憲政黨に當らむ中策に曰く若し上策を非なりとせば、侯は自ら野に下りて政府黨を作り、以て内閣を援けむと下策に曰く、二策共に非なりとせば、斷然内閣を擧げて大隈板垣の兩伯に與へむと而して上中二策は終に行はれずして事下策に決す是れ寧ろ侯の豫期する所にして、又侯の目的なり蓋し政黨は一夜作りの産物に非るは、侯の明固より之れを知るのみならず、侯は元來政黨の歴史を有する政治家に非るに於て、自ら新政黨を作りて大隈板垣の爲す所を學ぶは、恐らくは侯の本意に非ず侯は勢力を自製するの人に非ずして、之れを發見し、之れを利用するの智略ある人なればなり故に侯が内閣開放を斷行したるは、是れ實に今日を以て舊勢力と分離するの好機會なりと信じたるに由れり政黨組織の策行はれざりしが爲めには非らじ。

夫れ藩閥は三十年間我政界の主動力たり殆ど專制的性質を有せる一大勢力たり此勢力を利用するものは順境に立ち、之れに反對するものは、皆逆境に陷る是れ侯が從來藩閥と結合して、久しく國民と爭ひたる所以なりされど侯は決して藩閥の代表者に非ず侯の藩閥を好まざるは、猶ほ大隈板垣兩伯の藩閥を好まざるが如し唯だ兩伯は藩閥を好まざると共に、餘りに政黨を好み、侯は政黨にも亦甚だ冷淡なるを異とするのみ顧ふに、侯が三十年間に於ける政治的傳記は、侯が如何なる塲合にも善く自家の據る可き勢力を發見して、善く之れを利用したるの事實を説明すと雖も、此れと共に其思想の藩閥と相容れずして、動もすれば之れが爲めに苦められたるの事實も、亦其傳記中に認識するを得可し故に侯は外に對して藩閥を利用しつゝある間に、内に在ては絶えず其勢力を控制するの術數を施したるは、亦歴々として認む可きものあり試みに其一二を言はむか。

侯は明治十四年、大隈伯と相約して、十六年を以て國會開設の議を奏請せむとしたりき是れ國會に依りて藩閥を控制するの意より出でたるに非りし歟其計畫未だ成らざるに破れて、藩閥の爲めに謀叛を以て擬せらるゝに及び、侯は飜然として其計畫を中止し、獨り大隈伯をして之れが犧牲と爲らしめたるは他なし、是れ唯だ成敗の勢を悟りて、急遽の改革を不利と認めたるに由るのみ藩閥を維持するの必要を信じたるが爲に非ず。尋で明治十八年官制を改革して、文治組織と爲し、官吏登庸法を制定して、選叙を嚴にしたる如き皆主として藩閥を控制するの意より出でずむんばあらじ世間或は侯が總理大臣を以て宮内大臣を兼攝したる當時の位地を評して曰く、是れ侯が信用を宮中に固めて、自家の權勢を保全するの秘策なりと夫れ然り然りと雖も、此秘策は國民に對して壓制政治を行ふの準備に非ずして、亦實に藩閥を控制するの意に外ならざるが如し之れを要するに侯の施設は、大抵藩閥と利害を異にするものたるに於て、藩閥者流は漸く侯に慊焉たらざるを得ざるに至り、其結果として所謂る武斷派なるもの起り、而して山縣内閣と爲り、而して松方内閣と爲り、終に選擧干渉に失敗して、藩閥大に頓挫したると共に、伊藤侯復た出でて内閣を組織したるは第四議會將に召集せむとするの時なりき。

第二伊藤内閣組織せらるゝや、侯は竊かに故陸奧伯の手を通じて自由黨と提携するの端を啓き、日清戰爭の後に至て終に公然提携の實を擧げ、板垣伯に内務大臣の椅子を與へて、一種の聯立内閣を形成したりき是れ一は議院操縱の必要より來れるものなる可きも、其主要の目的は、實に藩閥を控制せむとするに在りしや疑ふ可からず此を以て最も伊藤内閣に反感を抱きしものは、藩閥武斷の一派にして、彼の藩閥の私生兒たる吏黨が、民黨と聯合して極力伊藤内閣の攻撃を事としたるは、適々以て其由る所を察し得可し或は伊藤内閣が二囘までも議會を解散したるの擧を非立憲的と爲して、大に之れを論責するものあり余も亦敢て侯の解散手段を贊するものに非ずと雖も、是れ勢の致す所にして侯の本意には非らず若し當時の民黨より之れを觀れば、侯が解散してまでも内閣を維持したるは、單に民黨を苦めたるに似たりと雖も、其實之れが爲めに最大失望を感じたるものは、寧ろ藩閥及び藩閥を助くるの吏黨にして、民黨の爲めには、解散は却つて幸福なりき何となれば、侯にして若し解散の代りに辭職を行はゞ、侯の後を受けて内閣を組織するものは、必らず民黨に非ずして藩閥の武斷派なる可ければなり之れを聞く、第二伊藤内閣の將に成らむとするや、陸奧伯其親近に語て曰く、民黨たるものは宜しく其擧動を愼み、漫に吏黨の激論に煽動せられて、我れより解散を求むるの愚を爲す可からず是れ民黨の不利益なりと則ち伯が伊藤侯の謀士として自由黨と提携せしめたるも、其意の藩閥控制に在るや論なきのみ、伊藤侯が藩閥を利用すると共に、又之れを控制せむと勉めたるは既に斯くの如し故に其信任する所の人物も、亦大抵藩閥に敵視せらるゝものか、若くば藩閥以外の出身者ならざるなく、例へば、故陸奧伯の如き伊東末松兩男の如き、渡邊子金子氏の如き、以て見る可し果して然らば、今囘の大英斷が亦藩閥打破の目的より出でたると謂ふも豈余が一個の臆斷ならんや。

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