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明治人物月旦(抄)
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明治人物月旦(抄)
鳥谷部春汀
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Chapter 4 of 31

4

西園寺公望侯、渡邊國武子、金子堅太郎男の三氏に至ては、是れ純然たる伊藤侯の門下生なれば、則ち侯と進退趨舍を倶にするは亦怪む可きなし。大岡育造氏は、曾て國民協會を自由黨に合同せしめて、伊藤侯を其の首領たらしめんと試みたる策士にして、侯の今囘發起せる政友會の創立委員たるは、其の最も滿足とし、榮譽とする所たるは無論なる可し。渡邊洪基氏は一たび伊藤侯の四天王の一人なりと稱せられたる人なり。其志を政界に得ざるや、乃ち身を實業社會に投じて久しく政治的野心を抑損し、隨つて侯と彼れとの關係は次第に杳遠と爲りつゝありしと雖も、侯の政友會を組織するに及び、成る可く多く舊政友を糾合するの必要あると、渡邊氏と實業社會との間には多少の連絡あるを以て、彼を通じて實業家を招徠するの必要あるとに依りて、殆ど相忘れむとしたる一門下生に復舊を求めて、之を政友會創立委員の一人に指名したりき。長谷場純孝氏の創立委員に加へられたるは、彼れが薩派を代表するが爲めにして、彼に取ては寧ろ望外の榮譽なる可し。彼れは思想に於ても、感情に於ても、若くは其の人格に於ても決して伊藤侯に容れらる可き點を有せず。其の容れられたるは、是れ侯が彼れの代表權に重きを置きたる證なればなり。

(四)歸化したる敵將

伊藤侯は勉めて各種の要素を收容せむと欲し、敵黨の人物と雖も來るものは之を拒まざるの概を示したり。此を以て新を喜び舊を厭ふの輕佻者流、若くは侯の資望勢力に依りて萬一の倖進を冀ふものは、爭ふて政友會に赴きたり。獨り進歩黨の領袖として、操守堅固の壯年政治家として議院の内外に高名なりし尾崎行雄氏が十數年以來利害苦樂を共にせる政友に別れて、一人の知己を有せざる政友會に投じたる行動の如きは、一個未了の疑問として政界に存在せり。されど余を以て之れを觀れば、彼れの行動は極めて單純なる目的に出でたるに外ならじ。有體にいへば、大隈伯よりも伊藤侯を以て自家の榮達を謀るに便宜なりと信じ、進歩黨よりも政友會を以て多望の未來を有すと認めたればなり。固より其の觀察と判斷とは、種々の方面と複雜なる材料を基礎としたるを疑はずと雖も、其の出發點の功名心にして、其の歸着點の榮達に在る可きは、何人も疑ふものある可からず。其の進退條件が政見の異同に關せざるは、彼れが曾つて進歩黨に對して何等の提言なかりしを以ても之れを知る可きのみならず、彼れが終始其の心事を秘密にして、一政友にすら眞實を語りたることなしいふを聞ても、其の如何なる動機に依りて進退したりしかを察するに足る。

凡功名心に富める政治家は、往々榮達の爲に主義政見を一擲するの例少からず。英國現内閣の殖民大臣チヤムバーレーンは、初め急進黨として、愛蘭自治論主張者として、チヤーレス、ヂルクの最親なる政友として、愛蘭黨首領パーネルの熱心なる辯護者として議會に立てり。然るにグラツドストンの自治案一たび出るや、彼れは遽かに之れに反對して終に保守黨と提携したり。其の表面の辭柄は大英國の統一を維持すといふに在れども、其の豹變の倏忽なるは、今尚ほ嚴酷なる批評家の冷笑を免がるゝ能はず。頃日米國の雜誌『アウトルツク』に掲載せるヂヤスチン、マツカーシー氏のチヤムバーレーン論を讀むに、其のチヤムバーレーンの自治案に反對したる當時の事情を説て頗る詳悉なり。其中にいへるあり、曰く愛蘭尚書ウイリアム、フオスターの辭職するや、其の後任としてチヤーレス、ヂルクを推薦する者あり、而もヂルクは内閣に座次を有せざれば、到底愛蘭に於ける自治政略を内閣に行はしむる能はずと稱して之れを謝絶したり。此に於てかチヤムバーレーンを以て之れに擬するものあり、彼れ亦竊に其の位置を希望し、且つ之れを得むが爲に、あらゆる手段を盡くしたり。彼れ以爲らく、我れは當然愛蘭尚書に推薦せらる可し、我れ能く其の任務を全うするの準備ありと。而して彼れは愛蘭の國民黨員と或る協商を繼續し、而して其の國民黨員は、彼れにして若し愛蘭尚書たらば、必らず自治案主張者として行く可しと信ぜり。然るにチヤムバーレーンの豫期したる愛蘭尚書の位地は彼に與へられずしてフレデリツク、オヴヱンデス卿に與へられたり。間もなくフレデリツク卿被害の報は倫動に來れり。余(マツカーシー)自身はパーネル氏と相伴ひて、ヂルク及チヤムバーレーンの二氏を訪問し以て愛蘭の善後策を談ぜり。當時チヤムバーレーンは尚愛蘭國民黨に信任せられ、彼等はチヤムバーレーンを以て自治案に對する愛蘭人の要求に深厚なる同情を有するものなりと思へり。されど彼れは依然商務局長たるのみ、愛蘭尚書たるの機會は來らざりき。彼れが自治案に反對したるは此の以後に在りと。此に依りて是れを觀れば、チヤムバーレーンが其の持説を一變したるは、自由黨内閣が彼れに愛蘭尚書の位地を與へざりしもの其の主因たりしが如し。マツカーシー又曰く、初めグラツドストンの自治案に反對したる者は、自由黨にも亦頗る多かりき。されど反對の燒點たりし條項はグラツドストンに依て修正せらるゝに至て、彼等は皆グラツドストンの指導の下に復歸したり。獨りチヤムバーレーンは全く彼等と其の行動を異にしたりきと。余はマツカーシーの鋭利なる觀察に依て、チヤムバーレーンの進退に關する眞相を知ると共に、移して以て日本のチヤムバーレーンたる尾崎氏の行動を判斷するの參考と爲さむと欲す。故に特に其の大要を此に譯載したるのみ。

(五)交渉の失敗

政友會が各種の要素を收容せむとして、諸ろの方面に交渉したる畫策は大抵失敗に終れり。最も與し易しと爲したる貴族院研究會すら、宣言及綱領には贊成なれども研究會の會則は會員をして他の團體に加はるを禁ぜりとの口實に依りて入會を拒絶し、初めより伊藤侯の屬望したる實業家の如きも、東京大阪に於ける高級分子は、亦皆入會を避けて其の藥籠中の物とならず。而して其來り投ずるものは、大抵政治を以て營利の目的を達せむとする政商か、若くは中流以下の地方實業家のみ。侯の失望亦以て察すべし。

元來侯が實業家を收容せむとするの畫策は、既に選擧法改正案提出の時に成り、而して其の改正案を成立せしむるが爲めには、或は當局者として之れを議院に論じ、或は自ら貴族院の議席に就て之れを論じ、或は地方を遊説して其の所見を發表し、以て市の獨立、市民の投票權擴張を主張したるは、蓋し亦實業家を味方として政界に立たむとするの後圖に非るはなかりき。此の點に付て井上伯は深く侯の苦衷を諒とし、侯が政友會を發起するや、竊に親近なる都下の實業家に内意を傳へて有樂會の會合を催ふさしめたり。伯は自ら此會席に列して政友會の代辯人と爲りたりき。而して其の勸告の切偲を盡くしたるに拘らず、雨宮一派の相場師を除くの外、多數の實業家は孰れも申し合せたる如く、其の入會を辭謝したりき。蓋し彼等は必ずしも政治と實業との關係密切なる所以を解せざるに非ずと雖も、日本の政黨界には尚ほ多くの缺點あり。特に黨爭の結果個人的取引及び個人的交際までも其の餘累を及ぼすの弊害あるを見るに於て、未だ政友會の進行を檢するに及ばずして、輕ろ/″\しく之に入會するは、思慮ある實業家の爲さざる所なり。且つ入會勸告者たる井上伯は、自身先づ政友會に入りて而る後他人の入會を勸告す可き筈なるに、現に政友會の名簿中には伯の記名なくして、反つて他人の之れに記名せむことを望むは、頗る蟲の善き話なり。天下豈斯くの如き勝手氣儘の事ある可けんや。

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之れを要するに、立憲政友會は、資望當世に比なき伊藤侯の發起に係れると、其の朝野に亙りて比較的多數の政友を有すると、其の主要の目的實に既成政黨の陋弊を刷新するに在るとに依りて、頗る一時の人心に投ずるものありと雖も、其の團體の大幹部は、最も腐敗を極めたる舊自由黨たるを見るに於て、其の果して能く伊藤侯の理想を實行するを得可きや否やは、暫らく政治的設題として之れを後日の解答者に待たむのみ。(三十三年十月)

第四次の伊藤内閣

(上)伊藤侯と憲政

幸運なる伊藤侯は、政治上最も多望なる時代に於て第四次内閣を組織せり。顧ふに侯の出づるや、常に時代に歡迎せらる。而も其の末路は、常に失敗に終る。知らず、第四次内閣の進行は如何。是れ實に、政治家たる伊藤侯の死活問題なり。若し能く國民の冀望を滿足せしむるの施設あらむか、既徃幾多の失敗は、之を償ふて餘りあるのみならず、侯は明治年間第一流の政治家として、永く歴史上の大人物たるを得可し。若し之れに反して萬一失敗せむか、侯は到底虚名の政治家たるを免がる可からず。

薩長元勳にして内閣總理大臣たりしものは、侯を外にして故黒田伯あり、松方伯あり、山縣侯あり。されど黒田伯は唯だ一囘内閣を組織したるのみにて、而も極めて短命なる内閣なりき。松方伯と山縣侯とは、内閣を組織したること前後各二囘なりしも、之れを伊藤侯に比すれば、共に人氣ある總理大臣たるを得ざりき。伊藤侯の内閣を組織するや、最初は常に天下に歡迎せられて、最後は常に國民を失望せしむ。侯が明治十八年自ら總理大臣と爲りて第一次の内閣を組織するや、始めて政綱を發表し、官制を改革し、文官任用令を設け、天下をして齊しく其の風采を想望せしめたりき。而も其の辭令の立派なる割合には實際に成功したる事績甚だ少かりしのみならず、繁文縟禮の弊反つて此間に生じたり。加ふるに浮泛なる歐化政略は、内治外交の兩面に救ふ可からざる壞膿を生じて、遂に内閣の瓦解を見るに至りき。第二次内閣は、選擧干渉に失敗したる松方内閣の後に組織せられ、山縣、黒田、井上、大山、仁禮の薩長元老も相携へて入閣したれば、世間之れを稱して元勳内閣といひたりき。侯は意氣軒昂我れ能く政黨の外に超然として議會を操縱するを得可しと信じたるに拘らず、議會は寧ろ侯の行動を非立憲的と爲して、荐りに不信任動議を提出したりき。一たびは和衷協同の勅諭を奏請したりき。二たびは議會の解散を斷行したりき。而も議會は容易に武裝を解くを肯んぜずして依然内閣の攻撃を事としたりき。此にて侯は超然主義の到底保持す可からざるを自覺し、自由黨と提携して内閣組織に多少の變更を加へたりと雖も、其の姑息※縫の政策手段は、漸く内閣の統一を破りて内部より崩壞したりき。

第三次の内閣組織に際しては、侯は初め之を大隈板垣兩伯に謀りて、所謂る三角同盟を作らむと試みたりき。其の行はれざるに及で、一切政黨との交渉を避けて超然内閣を組織したりしは、其の無謀固より論ずるに足らず。是れ半歳ならずして内閣總辭職の止む可からざりし所以なり。されど侯は此の失敗に依りて其の政治思想に一大發展を爲したり。乃ち今日政友會を組織して自ら政黨の首領と爲り、其黨員を率ゐて此に第四次内閣を組織したるは、是れ安んぞ超然主義の失敗に原本せざるなきを知らむや。侯は大隈伯に比すれば、獨自一己の識見に缺くる所あり。大隈伯は明治十四年改進黨を組織してより、飽くまで政黨内閣を主張し、且つ其の主張の早晩實行せらる可き時機あるを確信して、毫も疑はざりしに反して、侯は政黨内閣の運命に對して近年まで半信半疑の間に彷徨したりき。今や侯は政黨内閣を組織して、憲政の完成を以て自ら任とせり。而かも今日は侯の實力を試驗するに最も適當なる時代なるを見るに於て、侯たるもの亦大に奮ふ所なかる可からず。何故に今日を以て侯の實力を試驗するに最も適當なる時代なりといふや。曰く侯にして若し其の理想を新内閣の上に行ふこと能はずして、之れをして見苦るしき失敗を取るが如きことあらしめば、其の結果として畏る可き保守的反動を惹き起すことなきを保す可からざればなり。此の點よりいへば、侯は實に憲政の安危に負ふ所の責任甚だ大なりといふ可し。

惡口に長ずる批評家は、侯を目して觀兵式の大將なりといへり。是れ侯が無事の日に壯言大語すれども、一たび難局に逢へば、心手忽ち萎縮して自己の責任をがるゝ迹あるを以てなり。侯の政友會を創立するや、其堂々たる宣言實に人聽を聳かすに足る者あり。而も之を實行するは談決して容易ならず。所謂る政黨の弊害を矯正すといふ如きも、先づ内閣の威信を立て、行政の紀律を振肅するに非ずむば、政黨の弊害を矯正すこと頗る難事に屬せり。例へば政黨の行政權に干渉するの行動あるは、内閣に之を排除するの威信なきが爲にして、苟も内閣自ら憲法上の權域を正うして政黨に臨まば、政黨漫りに自ら行政權に干渉し得可きに非ず。侯は首相獨裁の内閣を理想とすといふ。是れ大に可なり。宜しく此の理想を實行して新内閣の統一を謀り、各大臣をして悉く侯の手足たらしむべきのみ。是れ曾てビスマークの實行したる理想にして、獨逸の内閣制は實に此の理想を基礎としたるものなり。されどビスマーク死するや、獨逸復た之れに次ぐの實力ある政治家なく、隨つて首相獨裁の内閣制は、事實に於て空名に歸したりき。伊藤侯にして果して之れを實行し得るの實力あるに於ては、内閣の威信を立て、行政の紀律を振肅する亦易々の業のみ。余は政黨の矯正よりも先づ此の理想の實行を以て侯に望まざるを得ず。

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