Chapter 1 of 6

一 暗黒大陸の父

世界で最も古い文化の一つは、アフリカ北海岸の一部のエジプトに開けました。また、近代文化の源となつてゐるギリシャやローマの文化は、アフリカの北海岸一帯にその光をなげかけました。その後、世界文化の中心は、西ヨーロッパに移つたやうな有様になりましたが、その西ヨーロッパから、アフリカはすぐ近い所にあります。

それにも拘はらず、このアフリカ大陸は、海岸地方が世に知られてゐるきりで、その内地の大部分は、まだ探検されずに残つてゐまして、地図の上でも空白になつてをり、秘密のまゝになつて、暗黒大陸と呼ばれてゐました。

この暗黒大陸を明るみに出すために、十九世紀になつてから殊に、いろいろな探検がなされましたが、奥地の方へふみこむのは容易なことではありませんでした。それにはいろいろな理由があります。

アフリカは、大部分が熱帯にありまして、そのひどい炎暑が人を苦しめます。それから、北部の広大なサハラ沙漠をはじめ、あちこちに、旅行に困難な沙漠があります。また、海岸地方や谿谷の多くは、熱病の巣と云つてもよいほどであります。それから、猛獣や毒虫がはびこつてゐますし、奥地の方には、獰猛で危険な土人たちが住んでゐます。だから、この大陸の探検は、まつたく命がけの仕事でありまして、実際、多くの探検家が斃れました。

この探検において、暗黒なアフリカ大陸の父と呼ばれてゐる人があります。

それは、ダヴィッド・リヴィングストーンであります。

リヴィングストーンは、千八百十三年に、イギリスのスコットランドに生れました。家が貧しかつたので、工場で働きながら夜学に通ひ、また熱心にいろいろな書物を読みました。それから、医学の勉強をし、次に、宣教師になる修業をしました。未開の人々のために、キリスト教の伝道に生涯を捧げるつもりでゐたのです。そして遂に彼は、千八百四十年の末、暗黒大陸のアフリカへ向つて、宣教師として出発しました。

その後の彼の生涯は、もうアフリカときり離すことは出来ません。彼の第一の仕事は、アフリカの野蛮な土人たちを教化することでありました。次には、当時アフリカで盛んに行はれてゐた奴隷売買の悪風を防止することでありました。それから第三に、アフリカ内地の地理を探査することでありました。それらの立派な仕事とその気高い人格とのために、彼はアフリカの父と云はれるやうになつたのであります。

彼の功績で最も目につくのは、やはり、その探検でありまして、アフリカ探検は彼によつて非常な進歩を見ることになりました。

彼は最初、アフリカの南端に行き、それから内地へとはいつて行きました。千八百四十九年には、カラハリの大沙漠を探りました。千八百五十四年には、ザンベジ河の上流地から土人の従者を連れて、西海岸のロアンダに出ることに成功しました。それからまた内地に引返し、こんどはザンベジ河をくだつて、彼がヴィクトリア瀑布と名づけた大瀑布をすぎ、なほ河ぞひを進んで、千八百五十六年、東海岸のキリマネに達しました。これがヨーロッパ人による最初のアフリカ横断であります。

それから彼はちよつとイギリスに帰りましたが、千八百五十八年には、またアフリカに向ひ、六年の間、東部アフリカの内地で、土人の教化をしながら、方々を探検して、たくさんの発見をしました。そして次第に、この暗黒大陸の内部の姿が明るみにもち出されることになりました。

千八百六十六年、彼はまた第三回の探検旅行のため、アフリカの東海岸のザンジバル港へやつて来ました。もう五十三歳にもなつてをりますのに、悪疫や猛獣や蛮人の住む土地に奥深く入り込まうとしたのです。そしてこんどは、ナイル河の水源地を調査するといふ特別の任務もおびてゐました。

このナイル河は、アフリカの中部から北へ流れ、エジプトの平野を通つて地中海に注いでゐる有名な大河であります。古代エジプトの文化はこの河の沿岸に起りましたし、エジプトの豊かな平野はすべてこの河に養はれてゐますし、エジプト人はこの河を父として崇拝してをりました。そしてこの河の水源は、昔からいろいろの人によつて調べられましたが、まだ明かになつてゐませんでした。数年前に、スピークの探検によつて、ヴィクトリア湖がだいたいナイル河の水源とされてゐましたが、その確実な調査はまだ出来てゐませんでした。

そこで、この地方の山脈の有様を調べ、ナイル河の水源地を探り、動植物の研究などをもするために、リヴィングストーンは、ザンジバル港の南方のロヴーマ河口へ行き、河をさかのぼつて奥地へと進みました。千八百六十六年三月末のことで、雑多な土人三十余人をひきつれてゐました。

ところが、それきりリヴィングストーンの消息は絶えてしまひました。そしてイギリスでは勿論のこと、ヨーロッパの人々が次第に心配しだしました頃、十二月の或る日、リヴィングストーン一行に加はつてゐた土人九名が、突然、ザンジバルに現はれまして、リヴィングストーンをはじめ一行の者はみな、ニヤサ湖の西方で蛮人に殺されてしまひ、自分たちは密林のなかに逃げ込んでやうやく助かつたのだと、言ひふらしました。

この話は、どうも本当らしく思はれました。けれど、イギリスの地理学協会ではそれを疑つて、ヤング大佐に調査を命じました。大佐はアフリカに来て、さまざまな苦心の末、翌年の夏、リヴィングストーン一行が生きてゐることを確かめました。彼はリヴィングストーンにめぐり逢ふことは出来ませんでしたけれども、その一行が無事であることを知り、あの土人たちは途中で脱走したのだといふことを知りました。

その後、とぎれとぎれではありますが、リヴィングストーンの消息はまた伝はつてくるやうになりました。一行の食糧は乏しく、病気になる者が多く、物品を盗んで逃亡する者も出てき、兇悪な蛮人に出逢ふこともあり、リヴィングストーン自身も幾度か病気になり、そのほかいろいろな困難のなかで、探検は続けられてゐました。彼はニヤサ湖から、タンガニイカ湖へ進み、モエロ湖やバングエオロ湖まで探りました。しかし、その長い間の艱難のために、彼の身体も次第に弱つてきまして、タンガニイカ湖の東北岸のウヂヂといふ、アラビア人の隊商が集る町まで、何度か引返さなければなりませんでした。

そのウヂヂから、千八百六十九年五月三十日に出された手紙を最後に、彼の消息は再びぱつたりととだえてしまひました。この二度目の消息不明は、大きな不安の念を与へました。イギリスをはじめヨーロッパ中にその噂はひろまり、世間の注意をひきました。いくら待つても何の消息も得られませんでした。

アフリカの父リヴィングストーン、三十年間もアフリカの暗黒と戦ひ続けてきた偉大な探検家、その人の安否が、今や全く謎となつたのであります。多くの人々は彼の死を信ずるやうになりました。

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