Chapter 1 of 16

看護婦は湯にはいりに出かけた。

岡部啓介はじっと眼を閉じていた。そして心の中で、信子の一挙一動を追っていた。――彼女は室の中を一通り見渡した。然し何も彼女の手を煩わすものはなかった。火鉢の火はよく熾っていた。その上に掛ってる洗面器からは盛んに湯気が立っていた。床の間にのせられてる机の上には、真白な布巾の下に薬瓶が並んでいた。机の横には、吸入器や紙や脱脂綿や其他のものがとりまとめて置いてあった。草花の鉢の土も適度に湿っていた。終りに彼女は、病人の額にのせられてる氷嚢にそっと触ってみた。指先に冷りとした感触を受くると同時に、氷の塊りが触れ合う軽い音がした。彼女はあわてて手を引込めた。それから枕頭の硝子の痰吐を覗いた。円く塊まって浮いている痰の中に、糸を引いたような血の条が交っていた。

彼女が眼を挙げると、彼女の顔を見つめている啓介の大きな眼に出逢った。

「あら、眠っていらしたんじゃないの?」

「いや。」と啓介は答えた。

「先刻から?」

啓介は首肯いた。

「看護婦さんが出かける時から?」

啓介はまた首肯いた。それからこう云い出した。

「あの看護婦は実に現金だね。僕の容態が少しよくなると、看護服をぬいで普通の着物ばかり着ているが、また容態が悪くなると、看護服を着出すからね。この一週間許りは看護服ばかり着ている。」

信子は庭の方へ眼を外した。縁側の障子にはまってる硝子で四角に切り取られた庭は、陰欝に曇った寒空の下に荒凉としていた。雪と霜とに痛んで枯れはてている芝生の間には、湿気を帯びた真黒な土が処々に覗き出していた。

「お前は、」と啓介は云った、「泣いてるね。」

「いいえ。」と信子は答えた。そして鼻を一つすすって、彼の方を振り向いた。

「では眼を大きく開けてごらん。」

彼女はちらと微笑の影を口元に浮べて、眼を大きく見開いた。すると急に、眼の底が熱くなって、大粒の涙がはらはらと溢れ落ちた。彼女は其処につっ伏してしまった。

「そら泣いてるじゃないか。」

彼女は肩を震わしていた。あたりは静かだった。

「もう泣かなくてもいい。」と啓介はやがて云った。「僕が悪かった。許してくれ。僕は時々妙な気持に囚えられる。それは日が陰ってくるような気持ちだ。今迄明るかったものが、急に陰欝になってくる。凡てが頼りなく淋しく思われてくる。すると、自分を思い切って呵責みたいような、また一方では何かに縋りつきたいような、訳の分らない感情に巻き込まれてしまう。腹を立ててるのか悲しんでるのか、自分でも分らない。多分その両方だろう。お前が一人でじっと坐っているのを見ると、お前を泣かしてみたいような……そら、僕達はよく二人で、夕方なんか黙って庭に眼を落しながら、心では暮れてゆく淋しい空を眺めて、いつまでもじっとしていたことがあったろう。しまいにお前は、いつのまにか涙を流していたね。……ああいうお前の姿を見たいような気になってくる。そしてまた一方ではそういう自分の心に一種の残忍な苛ら立ちを感じてくる。一体僕は何を求めているんだろう? 自分でも分らないんだ。そしてよくお前の心を痛めるようなことを云ったりしたりする。許してくれ。実際長い間こうして病気で寝ていると、何処か心の中に平衡が失われてくるものだ。お前を苦しめてるのなら許してくれ。僕はお前の幸福を願っている。此度はもう僕も助からないかも知れないと……。」

「いえ、いえ、そんなことを仰言っちゃいや。」

信子は彼の蒲団の襟を両手に握りしめて、耳を塞ごうとでもするように強く頭を打ち振った。こみ上げてくる咳を押し止めて彼が顔を渋めると、彼女は急いで痰吐を取り上げた。それから枕頭のハンケチで彼の顔を拭いてやった。額には粘り気のある汗が出ていた。それを拭き取ると、氷嚢をよくあてがってやった。

「苦しかなくって?」

「いいや。」

「それならいいけれど、なるべく静にしているようにって先生も仰言っていましたから。」

「うむ、これから余りお饒舌は止そう。それに……、ああ僕はどうしてこうなんだろう。何か云うと、屹度お前を悲しませることばかりしか口に出て来ないんだ。」

彼は眼を閉じた。眼窩が落ち凹んで、鼻と頬骨とが目立って聳えていた。鼻の下と顎とには、薄ら寒い髯が伸びかかっていた。

「足をさすって上げましょうか。」と信子は云った。

「いや、今別にだるくないから。」

信子は彼の顔を暫く見ていたが、それから、其処に在った雑誌を膝の上に取り上げた。いい加減の所を披いて、見るともなく行を辿っていると、四角な活字の面がちくちくと彼女の眼を刺戟した。その刺戟に馴れてくると、各々の行が静かな波動をなして浮き上ってきた。彼女はその波動に頭をうち任して、何にも考えまいとした。

「信子!」……その声に喫驚して彼女が顔を上げると、啓介がじっと彼女の方を見ていた。

「お前はね、」と啓介は云った、「僕がもし死んだらどうするつもり?」

彼女ははっと息をつめて眼を見張った。

彼はまた云った。

「僕は死にはしない、大丈夫だ。然しもし万一死んだとしたら、お前はどうするつもり?」

彼は唇の片隅に微笑らしい影を浮べて天井に眼をやっていた。それを見て信子は一寸心を落付けた。そして深く溜息をしながら答えた。

「私、またカフェーにでも出ますわ。」

啓介は彼女の方へ顔を向けた。額の氷嚢が滑り落ちたのを彼女が取ろうとすると、彼は頭をずらしながら、その手をつと握りしめた。彼の顔には穏かな光りがさしていた。彼は彼女の顔にやさしい眼を据えた。

「よく云ってくれた。お前はいつも正直だね。大抵の女は、男からこんなことを聞かれると私も死んでしまいますとかなんとか答えるものだ。然し死にはしない。お前は本当のことを云ってくれる。今の僕にはそれが一番嬉しい。」

信子は俄に頬の筋肉を引きつらして、肩を震わした。彼の言葉から或る残酷な傷を心に受けたかのように、そして自ら訳が分らずに、而も否定の意味でではなしに、激しく頭を振った。それから眼を閉じた。きっと寄せた両の眉根に、痛ましい肉の脹らみがぽつりと出来ていた。

啓介は驚いてその顔を見つめた。

「どうしたんだ、え?」

彼女は答えなかった。

「僕が嬉しいと云ったのが悪い?」

「いいえ、いいえ、」と彼女は云った、「そんなことじゃないの。……だって、あんまりですもの……。」

啓介は漠然と、彼女の感情の動きを理解した。然し彼の心には、或る晴々としたそして痛いような明るみがさしていた。

「余りいろんなことを考えないがいい。」と彼は云った。「お前は長い間の看病に弱りすぎている。……然し真実は貴いものだ。真実を回避しようとしてはいけない。僕の云った本当の意味は、今にお前にも分る。」そして彼は水枕の上に頭を仰向に落付けた。「額の氷を新らしくして来てくれない?」

「ええ。」と彼女は答えて、なお暫く坐っていた。それから氷嚢を持って立っていった。

彼はまじまじと天井を眺めた。室の中は薄暗くなりかけていた。彼は心の中にさしている落付いた明るみを取逃すまいとするようにして、仄白い天井板に眼を据えていた。

信子が氷嚢を取代えて戻って来ると、啓介は涙ぐんでいた。彼女が、氷嚢の紐を台木に懸けて彼の額に適度に当てがってくれる間、彼は眼を閉じていた。

「木下君はまだ帰って来ないか。」と彼は尋ねた。

「ええ、まだですわ。」

「この頃よく写生に出かけるようだね。」

「何でも、非常にいい景色を見付けたとか仰言っていらしたわ。」

二人はそれきり黙っていた――看護婦が湯から戻ってくるまで。

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