Chapter 1 of 30

緒言

此の集を出すに方つて、子規居士と余との関係を思ひ出さずに居られぬ。居士は余の俳句の指導者である。而して是れは誰れも知る所で、今、改めて言ふの要もないから嘗て居士の生前に余の物した一二の文を摘記して、いさゝか今昔の感を叙する代りとした。

憶ふ昔と云ふ程でもないが、明治二十五年の一月其頃寄宿舎に居た子規子始二三の人が俳句と云ふものを作るので、僕も少々真似がして見たくなつて、

四十五の夢をさまして初日の出

元日や仏に成るも此の心

と遣つたが、どうも恥しいので人に見せられない。其後暫くたつて、一寸子規子に見せた。すると、是はほんたうの発句になつて居て中々面白い、と意外の賞賛(実は奨励)であつたので、僕も遂に乗気が出来て来た。それから宿題や競吟などと毎日のやうに勉強して、傘百句唐辛子百五十句などと随分沢山作つた。然るに諸子からは余り評判が好くないのみならず、自分で今度は出来たと思つた句が不首尾で、是れはいけないと思つた句にお点がつく。一向何の事か分らない。少々腹も立つて来た、畢竟するに標準と云ふものがなかつたからで、ありやうはまだ一部の句集も熟読して居なかつたのである。そこで、どうかして一番諸子の意表に出る進歩がして見たく、それには古人の句集を読むのが好からうと思ひ、其頃諸子仲間で猿蓑を貴んで居ることを知つて居たから、内々之を研究した。其傍に作つた句が、

山寺は松より暮るゝ時雨かな

しぐるゝや母屋の小窓は薄月夜

初霜を戴き連れて黒木売

から/\と日は吹き暮れつ冬木立

吹きはづす板戸の上を霰かな

此外まだ四五句もあつたらう。或る日之を子規子に見せて、今度は責任を以て作つた、批難があるなら答弁すると冗談半分に云つた。そこで子規子はつく/″\と吟じて居たが、頗る御機嫌顔になられて、成程是は大分様子が変つた、どれも面白い、どうしたのかと問はれたから、実は内々猿蓑を読んだと白状して大笑ひになつた。是が何でも同年の十月頃であつて、やつと諸子の仲間入が出来たのである。其後二三年間、即ち碧子虚子々などの勇将が現はれて来らるゝまでは僕も少々威張つて居た。(ホトヽギス三十二年七月号碧子の俳句評釈の文中摘記)

僕は子規子に対して、年齢と経歴とに於ては郷里の長者先輩である。寄宿生としては監督したこともある。又漢詩を添削したこともある。是が今以て子規子より翁又は先生の称呼を甘受せねばならぬ所以である。併し、人も知る如く俳句に於ては僕は子規子の徒弟である。子規子は僕の師である。先達である。兎も角も僕が今日俳人否俳人らしく人に云はるゝやうになつたのは全く子規子の賜である。子規子なかつせば僕は勃率たる理窟一点張の人で終はるのであつた。故に内藤素行を生んだのは父母で、内藤鳴雪を造つたのは子規子である。尤も其教を受けたと云ふも、諄々然として講明し、俛焉として聴従したと云ふでもない。毎々団欒して句作したり、又句の批評を受けなどして屡々蒙を啓いたことは勿論であれど、此外多くは意見が衝突して議論したのである。甚しきは喧嘩に近き争ひをしたこともある。而して其当時僕は何所までも自ら信ずる所あつて屈せなかつた。然るに早きは一月遅きは一年もたつと十の八九は子規子の説に服して来る。今日まで満十年の間此の如き教化を受けたことは実に幾度であるか、分からぬ。而して其時々子規子に向つて自白し降参したことも多いが、まだ明言する機会を得ぬのもあるやうだ。要するに講説批評で注入せられるよりは、斯く討論の末自ら悟つた方が明瞭である。堅固である。(ホトヽギス三十五年六月号獺祭書屋俳句帖抄に就きての文中摘記)

下の子規居士の画と句とは居士の病革まる少し以前に乞ひ得たもので永き紀念として附載した。(編注 本集では割愛した)

此の集の編纂に就いて水巴子の労を執られたことの多大なるは余の深く感謝する所である。

明治四十一年十二月六日鳴雪記

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