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今日は、科学の時代といわれる。
宇宙ロケットがとび、人工頭脳がそれを操作する。原子力発電機が、北極の厚さ二千メートルの氷の上に設置され、生命をもったヴィールスが、結晶としてとり出される、まさに科学の時代である。
しかし、これほど、科学科学とさわがれる世の中でありながら、それでは「科学とはなにか」ときかれると、きわめてあいまいな返事をされる人のほうが多い。ロケットも、人工頭脳も、原子力発電も、科学によってつくられたものであって、科学そのものとは、いいかねる。
「科学は、自然界にあるものを、ものとして取扱い、その本体と、いろいろなものの間にある規則性、すなわち法則とをしらべる学問である」といった方がよい。しかしこれでも、なんのことかよくわからない、と言われるであろう。わからない方がほんとうであって、こういう抽象的な言葉で、わかったような気になられると、かえって困るのである。
それで、一つ例をあげて、説明してみよう。
ここに、一筋の川があったとする。その川岸をいろいろな人が、おとずれてくる。ある人は、「これは流れもそう速くなくて、よい川だ。この付近に工場を建てたら、舟便が使えて、ずいぶん便利だろう」と考える。この人は実業家であり、この川を、営利的に見ているわけである。
べつの人は、川岸に立って、あたりの景色をながめ、「ああ、いい景色だ。あのあたりの水の色がすばらしい」という。この人は画家であって、この川を美的に見ているのである。
もう一人の人は、しばらく川岸にたたずんでいたが、やがてしゃがんで、手の先を水に浸してみる。そして子供のころ裏の小川で遊んだことをおもい出す。「もうあの川にも、えびはいなくなっただろうな」と心の中でひとりごとをいう。この人は詩人であり、この川を詩的に見ているわけである。
ところが、これらの人たちとは、まったくべつな見方をする人もある。この川では、一分間にどれだけの水が流れているのだろう。表面と底とでは、流れの速さが、どれくらいちがうだろう。あのあたりの深い場所には、底の方に水が動かないところがありはしないか。あの浅瀬のところは、川底の砂が、かなり流されるだろう。こういう見方をする人は、科学者であって、この川を、科学的に見ているのである。
科学的とか、科学とかいっても、なにもむつかしいことではない。川を川として扱って、その様子を、私情を入れないで、なるべくくわしく見るだけのことである。
もっともこれだけでは、ものを知りたがっている人は満足しない。ものごとをよく知るためには、そのもの自身ばかりでなく、その動きまたは働きも見なければならない。そういう動きや働きのことを、科学では、現象といっている。いまの例でいえば、水はものであり、その流れは現象である。この言葉を使えば、科学は、ものの本性および現象の実態を見ることから始まるといえよう。
本体についても、現象についても、一部だけ見たのでは足りない。なるべく全般的に見る必要がある。象の鼻だけ見て、象だとおもったら、まちがいである。また鼻がぶら下っているときだけ見たのでは、象の鼻の働きはわからない。
川についていえば、流れの速さをしらべる場合、川の真中だけで測ったのでは、不十分である。川全体について測ってみると、まんなかが速くて、岸に近いところは遅いことがわかる。また、いろいろな深さについて測ってみると、底の方へゆくほど遅くなっている。いつ測っても、また場所をかえて測ってみても、いつもそうなっている。こういうふうに、川の流れには、ある規則性がある。こういう規則性のことを法則という。
ところで、この規則性は流れという一つの現象の中にあるだけではない。水の流れと、川岸や川床の浸蝕というようなべつべつの現象のあいだにも、関連性がある。
自然の川には、まっすぐな川は決してない。みなうねうねと曲っていわゆる蛇行をしている。そしてこの蛇行は、流速と浸蝕とのあいだに存在する規則性によって、川が自分でこういう形になるのである。
日本では、北海道の石狩川が、よくこの蛇行の例にされているが、世界的にいえば、アラスカのユーコン河などがその雄たるものである。人界を遠くはなれた見わたすかぎりの荒野の中を、大河が壮大にのたうちまわっている姿は、いかにも自然の力をおもわせるものである。
自然界には、まっすぐな川はないので、もしそんなものがあったら、それは人工的につくられたものである。火星にいわゆる火星人という地球上の人類よりも高等な生物がいるという話は、だいぶ前からあった。ことの起こりは、火星の表面にまっすぐな線がたくさん見えると、ある天文学者がいい出したことにはじまる。
そういうまっすぐなものなら、自然にできたものではなく、人工的につくられたものにちがいない。たぶん運河であろう。それも、地球から見えるくらいなら、よほど大きい運河にちがいない。そんな大土木工事ができるようなら、われわれ人類よりも、もっと高等な生物であろう。高等な生物ならば、頭脳が発達しているにちがいないから、頭は大きいであろう。そしてなんでも機械でやるだろうから、手足は退化していると考えられる。食べものなども、消化がよくて栄養価の高いものばかり食べているから、胃や腸は簡単な構造のものでよかろう。したがってお腹も、地球上の人間のように、太いずんどうになっている必要はない。こういうふうに考えたあげく、火星人という生物を想像した。
こういうふうに、いろいろ尾ひれがついて、そのほうが大きくなってしまったが、もとを正せば、まっすぐな線が見えたというだけのことである。その線自身も、その後の観測では、あやしくなってしまった。それにしても、火星人の唯一の根拠が、火星のスケッチ一枚だったということは、ちょっとおもしろい話である。通俗科学の知識が、ときには、フィクション以上のフィクションである場合もある。このごろ大流行の宇宙旅行の夢の中にも、これに類したことが、たぶんあるであろう。
地球上の話にもどって、川が曲っているところでちょっと注意してみると、いつでもカーヴの外側の岸近くは、内側の岸近くよりも、水がはやく流れている。陸上競技のトラックで、一列横隊で走るとしたら、外側を走る選手は、遠まわりになるので、はやく走らなければならないのと同じことである。
ところで、はやく流れている水はたいていにごっている。洪水のときは必ず濁流である。これは、はやく流れる水は土や泥をもってくるからである。山奥の渓谷では、きれいな水の急流もよく見られるが、これは川底の土や泥がすでにみな洗い流されていて、運ばれる土砂がなくなっているからである。
ところが、にごった水をくんでおくと土や泥は下に沈んで、水は澄んでくる。流れが止まればもちろんであるが、流れがおそくなっても、土や泥の一部は沈澱する。それで川は流れのはやいところで川床を削り、おそくなったところに土砂を堆積する。
川が曲っている場所では、カーヴの外側の岸は、流れがはやいために岸も川底も削られやすい。岸の方は流れがつきあたるためにとくによく削られる。ところが、内側のほうは流れがおそいので、上流からもってきた土砂が堆積する。その結果、カーヴの内側がだんだん埋められて、外側が削られてゆく。したがって、川の曲ったところでは、カーヴが自分でだんだん発達する。
天然の川は、はじめから少しはうねうねしている。絶対にまっすぐな形の川ができるような地形はない。ところが、いま述べたような理由で、そのうねうねは、しだいに自分で発達する。それで、現在われわれが見る川は、みな蛇行をしている。これは、流速と浸蝕という二つの現象のあいだの規則性によって起こるのである。こういうふうに、いろいろの現象のあいだには規則性が存在するが、それがすなわち科学の法則である。
川にはこういう性質があるから、皆さんが、もし川沿いの土地を買われる場合は、なるべくカーヴの内側すなわち川に向ってつき出た側の土地を買われるほうがよい。何年かするうちに、だんだん土地がふえてゆく。もし反対に、カーヴの外側の土地を買ったら、孫の代くらいには、大分せまくなるので、損をする。
いま誰かが、川岸に立って川の姿を見ているとする。そして、この蛇行の原理におもいあたって、なるほどそうかと、一人で合点したとすると、その人は、科学者である。ところでその人が、それでは内側の土地を買ったほうがよいと考えたら、とたんに実業家にかわるわけである。
そのほかにも、川の流れのことをしらべているうちに、ちょっと周囲をながめて、ああ美しい景色だなとおもったら、科学と芸術とが共存していることになる。ついでに土地の値段のことも考えたら、商業もその中にはいりこんでくる。
科学は、人間の精神活動のなかの一つの部面であって、芸術とか、営利とかいう外の活動面と衝突したり、矛盾したりするものではない。また科学はそれ以外の精神活動を支配するものでもない。科学を生活の中にとり入れる場合には、このことをよく知っておく必要がある。
「科学とはなにか」ということを知らないと、むやみと科学をありがたがったり、あるいはその逆に科学を不当に軽視したりすることになる。いまの時代に、科学を軽視する人などいるはずがないといわれるかもしれない。しかし、そんな人はたくさんいるので、科学振興とか、科学的政治とか、という言葉を振りまわしながら、ちっとも科学を使おうとしない政治家たちなど、その代表的な人たちであろう。
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科学はものの本体を知るばかりでなく、そのものの動き、すなわち現象を見て、さらにいろいろな現象の間にある規則性を探る学問であると前にいった。
これはそのとおりであって、まちがいではない。しかし、ここで一つ注意しておくべきことがある。本体や現象を知るとはいったが、そのすべてを知るという意味ではない。もし科学がそんなものであったら、それはあまりにも強力なものになるであろう。
人間も、自然界に存在しているという意味では、ものであり、精神作用もつまるところは、現象である。科学がもし、ものの本体と現象との真の姿を、全部解明するものであったら、その発達の究極では、科学は万能になるであろう。そうすると、人間の全生活が、科学によって支配されることになるわけで、これは恐ろしいことである。しかし、その心配はいらない。
科学は一瞬に百万人の人間を殺す水爆をつくることができる。そういう意味では、非常に強力なものである。しかし、現代の科学の全知能を集結しても、一人の恋人の心をとらえることはできない。そういう意味では非常に微力なものである。
科学には、こういうふうに、強力な面と、微力な面とが入りくんでいる。その理由は、科学は自然現象のすべてを対象とするものではなく、自然現象の中のある部面だけを取扱う学問であるからである。ここでも、また今後も自然現象という言葉は、ひろい意味に使っているので人間もふくめての話である。
科学には、非常に強力な面と弱体な面とが、入りまじっているのであるが、ふつうには、強力な面だけが、人々の注目を浴びやすい傾向がある。そして弱体の面が見逃されるので、科学が万能のように、おもわれがちなのである。
この点については、きっと異論が出ることであろう。恋人の心をとらえるというような、人間の精神作用についてはそうかもしれない。しかし自然現象に対しては、科学は非常に強力なもので、どんな問題でも、科学の力によって解決されるはずだという考え方である。
この問題は、「はずだ」という言葉の意味のとり方で、どうにでもなるが、じっさいには、解けない、あるいは解決の非常に困難な問題が、自然現象の中にもいくらもある。そのよい例が、第一回目のアメリカの人間ロケットである。人間を大気圏外の空間にまで打ちあげ、それを無事に回収したのであるから、これは科学の強力さを、いかんなく示した大実験であった。しかしこの実験で、注目すべき点が一つあった。それは天候不良のために、第一回の発射が、途中で中止されたことである。