一〇 国際連盟脱退以後の歩み
日本がはなはだしく不穏当に、国際連盟から脱退してからは、専制政治にむかって、軍人はじめ政治家は、その方向を定めていた。天皇の親族だというところから、軍人らは、近衛文麿を内閣首相にたてた。また軍人は、大政翼賛会を創立して、ナチ政治をまねた。三国同盟をつくって、英・米・仏らを敵にまわした。ついに大東亜宣言を発して、ヨーロッパのヒットラーの弟子分となった。
世人は一般に浮かれていたが、私は悲観した。私は大政翼賛会は、憲法違反であると公言した。ドイツの必敗を論じたてた。三国同盟条約の欠点を指摘した。大東亜宣言を違憲だと説いた。それでも、なんびとも迫害はしなかった。官憲から捕縛もされなかった。その私は、終戦後、内閣総理大臣の名で公職から追放された。
昭和十二年、「支那事変」が起ったとき、欧米は、日本は「中国に関する九ヶ国条約」に違反する国であると、強く日本を攻撃した。これに対して政府は、「九ヶ国条約は現に有効に存在するが、同条約の成立時代とは国際事情が変っているから、日本政府は、同条約を守ることはできない。」と説明した。これは「条約は反古紙にひとしい。」と勝手にふみにじったドイツと同じで、列国から増悪されるのは、知れきったことである。
これに対して私は、国際法の学理にもとづく見解を発表した。「九ヶ国条約無効」と題して、日英両文で、「日支の両国は、交戦関係にある。二国の交戦は、二国間の条約を自動的に無効にした。日本はもはや、同条約に拘束されるものではない。日本はそれを守る義務がない。守ろうとしても、不能である。」これは、国際法の学理である。この一著は、軍部や政府の不法の外交や政治を非難したものであって、彼らのために助言したり、支援したりしたものでは、もちろんない。ところが、私の右の学理による著書は、戦後になって、追放調査委員会から調査された。そうして「日本の対支行動を正当化し、支那事変に理念的基礎をあたえるものと認める。」と裁断され、私は追放されたのである。私は、右の審査を軽薄と憤った。「理由なし」として弁明書を出したが、取り合われなかった。私は世の中からまったく引っこみ、大磯に風光と書物を友として、かろうじて生きていたのである。
一九五二年八月二十日蜷川新
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