三
ギリシアの全盛時代はペルシア戦争(紀元前四八〇年)に続く半世紀間で、アテナイが全ギリシアを支配し、ペリクレスがそれを指導していた。その全盛時代の最大の記念物がパルテノンである。ペリクレスがイクティノスとカリクラテスに命じてパルテノンの建立に着手させたのは紀元前四四七年で、九年後には一と通り完成してプイディアスの手に成ったアテネの本尊を安置したと伝えられている。それは長い間アテナイの悩みであったペルシアの侵略を徹底的に撃退した後の戦勝の気勢の旺溢の結果であって、国家的・民族的礼拝の標幟を示す意図から出たものであった。
けれども、その時初めてアクロポリスの上にパルテノンが建てられたのではなかった。アクロポリスの上にはそれより幾世紀も以前からアテネが祀られ、エレクテウムが建っていた。ホメーロスの謂わゆる「よく造られたエレクテウスの家」といい、また「富んだアテネの家」というのがそれであった。エレクテウス(エリクトニウス)は伝説上のアテナイ人の祖先で、身体は童形で首は蛇で、アテネとヘプイストスの子供だといわれる。アテネの神殿の付近に祀られたのもそれが為だった。
しかし、更に溯ると、アクロポリスには神殿の建てられる前に王城が築かれてあった。伝説ではそれをクレタのミノタウロスを退治した英雄テセウスの時代まで持った行くことになってるが、ギリシア民族の最古の記憶は最初の王ケクロプス(紀元前十一世紀?)の宮殿がアクロポリスにあったとしている。その頃の古い城壁の跡と推定されるものが今もプロピュライアの後方とアクロポリス博物館の後方に見られる。
王城の位置に最初のパルテノンとエレクテウムが建てられた時、アッティカはアテネの崇拝に依って政治的に統一されていた。しかし、その殿堂はクセルクセスのペルシア軍に侵入されて焼かれた。それから三十三年目にペリクレスはパルテノンの再建に着手したのだった。今から考えると、これほどの殿堂が十年とたたないうちに完成したというのは信じ難いようでもあるが、古い記録にも「急速の完成」を見たとあるから、本統かも知れない。いずれにしても、今日反証の根拠はない。
エレクテイオンの完成から約二十年たっていた。これはパルテノンがドリス様式を基調としたのに対し、純然たるイオニア様式で、殊にその南側の人口に我慢づよく頭に屋根を支えて立つ六人の娘の立像(カリュアティデス)によって有名である。これはギリシアには珍らしいモティフであるが、実物は姿態の美しさが頭の上の重そうな実感を(写真で見る時のように)起させる余裕を与えない。
プロピュライア(門の家)はペリクレスの晩年に出来たものといわれる。ドリス様式とイオニア様式の混合で、初めに見て通った表玄関の六本のドリス式円柱が五つの通路を作っていたが、今はその間を通さない。昔国家の正式の行列がパルテノンに向って行進する時は、その中央の通路を通った。屋根の上には青銅のアテネ・プロマコスの武装した巨像が立っていて、槍の尖の鍍金がコロナの岬角を迂回する航海者の目標になっていたというので有名だった。
その外にも、アクロポリスにはキモンの建てたプイディアス初期の作品なる鍍金したアテネの青銅巨像がプロピュライアの後方の広場に立っていた。
しかし、今はそういった物はすべて失われて、前にも述べた如く、アクロポリスの山上はただペンテリコスの大理石の堆積に過ぎない。