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パルテノン
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パルテノン
野上豊一郎
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Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 4 of 5

四

誰がアクロポリスを破壊したのか?

ペリクレスの晩年にはスパルタ戦争があったり、悪疫が流行したり(ペリクレス自身もそのために死んだ)して、アテナイは衰微に傾いたが、それでもアクロポリスの美観はまだ失われなかった。テュキュディデスに拠ると、アテナイの町でさえ壊れた石の一片だに見られなかったというから、最も神聖視されたアクロポリスの山上の整然たる美観は想像に余りあるものであったに相違ないが、それはローマ時代までも保たれ、最初の皇帝アウグストゥスはアテナイの町を飾り立て、アクロポリスの美観を保つように助力した。その以前にユリウス・ケーサルもアントニウスもアクロポリスを訪問した。アントニウスの如きはアテナイ市民の請いを容れてアテナイの主神アテネとの結婚式を挙げたりした。彼自身ディオニュソスを以って任じていたのである。しかしアクロポリスを最も尊重したローマ皇帝はハドリアヌスだった。彼は比類なきギリシア狂で、しばしばアテナイを訪問しては都市美の完成に努力し、オリュンピウスの称号をズェウスと共に分つほどの人気を博した。今でもアクロポリスの東麓にはハドリアヌスの門が遺っているが、門の内側(北西)にはギリシア文字で「これは嘗つてはテセウスの町であったアテナイである」と刻み、外側(南東)には「これはハドリアヌスの町で、テセウスの町ではない」と刻んである。その門から外の区域は彼の拡張した都市で、ハドリアノポリスの名で呼ばれていた。ハドリアヌスはそれほどの熱心なアテナイ保護者であったから、アクロポリスの美観は昔のペリクレス時代にも劣らずよく保たれたといわれている。それは紀元二世紀の前半のことであった。

紀元三世紀に入ると、北方の蛮族が南の方へ目を向けてギリシアは不安の状態になって来た。その頃はローマの勢力が弛んでいたので、皇帝ヴァレリアヌスの頃になると蛮族は南下してギリシアに侵入し、次の皇帝ガリエヌスの時代にはアテナイは包囲され、その次の皇帝クラウディウスの時代にはアテナイは遂に蛮族に占有された。その後再びローマ軍の手に恢復はされたけれども、アクロポリスの美観はその時かなりひどく損傷されただろうと推定される。

しかし更にひどい破壊は四世紀に入ってゴート民族の侵入によって行われた。殊にその世紀の末葉、皇帝テオドシウスの時代には、後にローマの大略奪をやったゴート王アラリクが、アクロポリスをめちゃくちゃに荒らした。殿堂は破壊され、神像は倒され、宝物は盗まれた。その状況はシュネシオス(新プラトン学派のキリスト教徒)によって五体を焼かれる殉教者に譬えられている。それを昔の盛装したアクロポリスを見物に出かけたパウサニアス(二世紀のギリシア人)の記述と比較すると、何という相違だろう!

けれども、五世紀の頃までは、アクロポリスは荒廃しながらも、まだアテネの殿堂としてのパルテノンを持っていた。それを根本的に変質させたのはキリスト教であった、それは外から働きかけた蛮族の破壊とはちがって、内側で仕向けた一層深刻な破壊で、パルテノンをキリスト教の礼拝堂に化してしまった。ペルシア軍の侵入を撃退したギリシア軍の名誉を主題とした殿堂の壁画は抹殺されて、キリスト教の聖徒の光栄がフレスコで描かれた。けれども破風と彫刻帯の浮彫は高い所にあったから当時はまだ手を付けてなかった。後年ロード・エルジンがそれを剥がしてイギリスへ持ち去った時、古代ギリシアの文化に憧憬の熱情を持っていた同国人バイロンは憤慨して、

But who, of all the plunderers of yon fane

On high, where Pallas linger'd, loth to flee

The latest relic of her ancient reign,

The last, the worst, dull spoiler, who was he ?

と叫んだ。けれども、ロード・エルジンは冒涜者の最後の者ではあったかも知れないが、最悪の者であったといえるかどうかは問題である。ヘラスの宗教の立場からいえば、最悪の者はキリスト教徒であったといえなくはない。

それ以上の悪質の冒涜はトルコ人によって行われた。トルコ人はアテナイに侵入するとパルテノンを回教のモスクに変形し、南西の一隅に尖塔を建てたりした。その後(一六八七年)アクロポリスに立てこもっていたトルコ軍を包囲してヴェネチアの砲兵隊から発砲した弾丸が、パルテノンの殿堂(それをトルコ軍は火薬庫にしていた)に命中して、今日見るが如き無慙な破損を与えた。侵略と戦争の無思慮がそこまで達すると沙汰の限りである。ギリシアが破壊された後では、ローマが西洋古代文化の唯一の宝庫となっている。今日、イギリスはローマの爆撃を手びかえているが、同様の思慮が十七世紀にも費されたとしたら、アクロポリスはもっと完全に保存されていたであろうにと惜まれる。破壊は一日にして行われ得るが、建設は容易ではない。殊にパルテノンの如き美しさは、少くともエジプトを除いては、世界の西半球のどこにも見出されないものであるから、人類の文化の記念物として当然もっとよい状態に保存さるべきものであった。

ギリシア自体が無力でその記念物を保存し得る能力がなかったので、近代に入ってその遺物を安全な場所に移すべきだという意見が擡頭した時、フランス人が最も熱心で、イギリス人がそれに次いで熱心だった。フランス大使ショアシュール・グウフィエ伯と副領事フォヴェル(画家)が逸早くパルテノンの彫刻を運び去り、つづいてイギリス大使ロード・エルジンが運び出した。バイロンを憤慨させたのはその時のことだった。それが褒むべき行為であったかどうかは別として、とにかく私たちはルーヴルとブリティシュ・ミュージーアムに行けば、プイディアスの作品が飽きるほど見られるのだから、便利は便利である。

しかし、できることなら、古代の記念物はすべてもとの場所に置いて見たいものである。

Chapter 4 of 5
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