蔭から糸を引く者
やや暫く経つと、同じ清水の傍に、山浦丈太郎が差かかりました。
山路は馴れた強健な足取りですが、秋の陽に照り付けられて、さすがに喉が渇いたものか、水の音を聞くと、吸い寄せられたように、岩清水の下に腰をおろしたのです。
山馴れのした丈太郎は、直ぐ側にある蕗の葉を一枚取って、裏表を透して汚れのないのを確かめると、器用に曲げて、盃を作りました。樋の下へそれを差出して、チョロチョロと溜る水を享楽する風情でしたが、一杯になると頤の方を持って行って、ガブリと一口、
「――――」
首を曲げて、プーッと吐き出しました。
「あいや、御武家」
後ろから声を掛けられると、
「拙者か」
ギョッとし乍ら、悪びれた色もなく振り返ります。
「その水を呑んではなりません」
六十近い雲水の僧、何時の間にやら飛付いて山浦丈太郎の腕を止めて居るのです。
「御僧、なぜお止めなさる」
「その清水には、毒が投じてござるぞ」
「えッ」
「現にツイ今しがた、その水を呑んで毒に中てられ、重態に陥った旅人がござる。幸い愚僧が通り合せ、木蔭に抱き入れて介抱いたしたが、まだ正気が付かぬところへ、又もや人の気配、驚いて飛んで参ると、御貴殿がその水を呑もうとして居られる」
「忝けない」
「病人はそこの木蔭に寝かせて置いたが、愚僧一人では何んとしても手が及ばない。貴殿も暫く看護って下さらぬか」
「心得申した」
指さす一と叢の木立の中へ、
「御僧、病人は何処で御座る」
「それ、その木の下」
二人は大きな日影を作る木の下へ入りました。が、差覗くまでもなく、其処には何んにも見えません。
「あッ」
「どうなされた御僧」
「確かに此処に寝かして置いた筈だが、ハテ、不思議」
「どんな方?」
「十七八の、まだ前髪立の若い武家で」
「フーム」
山浦丈太郎は妙に思い当ります。箱根の間道へ、今日に限ってわけ登る十七八の若い武家、それが自分を敵と覗う、万田龍之助でないと誰が保証するでしょう。
丁度その時、其処から少し離れた草叢の中、大きな断崖を一つ隔てたところに、正体も無い万田龍之助を寝かして、頻りに介抱している女がありました。
「お滝さん、ヘッヘッヘッ、うまくやっているぜ」
「あッ――けえ六親分かい、おどかしちゃいけない、そんなところへ、汚ない面なんか出して」
「汚い面は御挨拶だね」
「こんなところへおびき出して、この若いのを締めたのはお前さんだろう」
白糸のお滝は、美しい顔を挙げて、押っ冠せるように極めつけました。
「冗談だろう、その武家をおびき出したのは俺だが、締めたのは俺じゃねえ」
「はてね」
「雌の方を知ってるかい、お滝さん」
「知らないよ」
「はてね」
厄介の貝六も仔細らしく雁首を曲げました。
「こいつは油断が出来ないよ。手柄争いは私と親分達ばかりじゃない。蔭にもっと凄いのが居て、恐ろしい事を企らんで居るに違いない」
「――――」
「私も、赤崎さんも、お前さんも、その糸で操られて、銘々一番賢い積りで見得を切って居るのさ」
「誰だい、その糸を引いてる野郎は」
「判らない、少しも判らないから口惜しいじゃないか」
お滝はそう言って二子山のあたりを仰ぎました。もう傾きかけた陽、約束の八月十五日の日没へ一刻半ともありません。