Chapter 1 of 8

昼頃から降り続いた雪が、宵には小やみになりましたが、それでも三寸あまり積って、今戸の往来もハタと絶えてしまいました。

越後屋佐吉は、女房のお市と差し向いで、長火鉢に顔をほてらせながら、二三本あけましたが、寒さのせいか一向発しません。

「銭湯へ行くのはおっくうだし、按摩を取らせたいにも、こんな時は意地が悪く笛も聞えないね」

「お前さん、そんな事を言ったって無理だよ、この雪だもの、目の不自由な者なんか、歩かれはしない」

そんな事を言いながら、ちょうど三本目の雫を切った時でした。ツイ鼻の先の雨戸をトン、トン、トンと軽く叩く者があったのです。

「おや――」

お市は膝を立て直しました。宵とはいってもこの大雪に、往来の方へ向いた、入口の格子を叩くならまだしも、川岸へ廻って、庭の木戸から縁側の雨戸を叩く者があるとすると、全く唯事ではありません。

「どうしたんだい」

と、佐吉。

「雨戸を叩く者があるんだよ。こんな晩にいやだねえ、本当に」

「開けてみな、貉や狸なら、早速煮て食おうじゃないか。酒はまだあるが、肴ときた日には、ろくな沢庵もねえ」

佐吉は少し酔っているせいもあったでしょう。爪楊枝で歯をせせりながら、太平楽を極めますが、いくらか酒量の少ない女房のお市は、さすがに不気味だったとみえて、幾度も躊躇いながら、それでも立上がって、雨戸へ手を掛けました。

同時に、もう一度トン、トン、トンと軽く叩く音、続いて若い女の声で、

「ここを開けて下さいな――」

と、大地の底から響くようなか細い声が、ハッキリ雨戸の外に聞こえるのです。

「誰だえ」

お市は心張棒を外すと、思い切ってガラリと開けました。

角兵衛獅子の親方を振り出しに、女衒の真似をやったり、遊び人の仲間へ入ったり、今では今戸に一戸を構えて、諸方へ烏金を廻し、至って裕福に暮している佐吉の女房です。鬼の亭主に鬼神で、大概の物に驚くような女ではありませんが、この時ばかりは全くギョッとしました。

外は真っ白――。

人間はおろか、貉も狸もいる様子はなかったのです。

好い加減に積った雪は、狭い庭を念入りに埋めて、その上に薄月が射しているのですから、その辺には、物の隈もありません。庇の下はほんの少しばかり埋め残してありますが、物馴れたお市の眼には、そこに脱ぎ捨ててある、沓脱の下駄までハッキリ読めるのです。

「誰も居はしない。変だねえ」

「そんな事があるものか、今も人の声がしていたじゃないか」

「そう言ったってお前さん、猫の子もいないよ」

お市はそう言いながら、戸袋に左手でつかまったまま、まだサラサラと降る雪の中へ、何の気もなく顔を突き出したのでした。

「あッ」

恐ろしい悲鳴。

驚いて佐吉が立上がった時は、お市の身体は、もんどり打って、雪の庭へ――、真っ逆さまに落ちてしまったのでした。

「何て間抜けな事をするんだ。怪我をしないか」

佐吉はそう言いながら、縁側へ飛出して差し覗くと、お市の身体は雪の中に転落して、ノタ打ち廻りながら、

「お化けだッ」

辛くもそう言ったきり、がっくり崩折れてしまった様子です。見ると、頸筋から噴き出した恐ろしい血潮が、お市の半身と、その辺の雪を物凄まじく染めておりますが、見渡したところ、縁の下にも、庭の中にも、お化けはおろか、人間の片らも見えません。

佐吉はそれでも、漸く気を取直して、女房の身体を縁側へ抱き上げましたが、いつの間にやら、行灯を蹴飛ばして、灯を消してしまった事に気が付きました。

「お駒、大変だッ、灯を持って来い」

少し離れているお勝手へ怒鳴ると、

「ハ、ハイ」

居眠りでもしていたらしい、下女のお駒は、手燭を持って飛込んで来ましたが、その時はもう、何もかも済んでおりました。お市はすっかりこと切れて、三十女の豊満な肉体を、浅ましく歪めたまま夫の膝に抱き上げられ、越後者の、身体だけは丈夫そうな下女のお駒は、手燭を持ったまま、ガタガタ顫えているのでした。

Chapter 1 of 8