Chapter 1 of 8

新吉は眼の前が真っ闇になるような心持でした。二年越し言い交したお駒が、お為ごかしの切れ話を持出して、泣いて頼む新吉の未練さを嘲るように、プイと材木置場を離れて、宵暗の中に消え込んでしまったのです。

――父親が聴いてくれないから、末遂げて添う見込みはない。出世前のお前さんに苦労をさせるより、今のうちに切れた方がいい――というのは、十八や十九の若い娘の分別というものでしょうか。

――父親が不承知は今に始まったことではない、版木彫りの下職に、なにほどの出世があろう――と詰め寄ると、お駒は唯もう父親の不承知一点張で、取付く島もないような冷たい顔をして、――これからは逢っても口を利いておくれでない、つまらない噂を立てられると、お互のためにもならないから――そんな念入りな事まで言って、美しいおもかげだけを残して、一陣の薫風のように立去ったのでした。

「新さん」

不意に、後ろから声を掛けた者があります。

「…………」

黙って材木から顔を離して振り返ると、肩のあたりへ近々と、お駒の継母のお仙が、連れ子の少し足りない定吉と一緒に、心配そうに立っているのでした。濡手拭を持っているところを見ると、町内の銭湯へ行った帰り、夜遊びに出た愚かな倅と一緒になったのでしょう。もう十九にもなる定吉は母親の後ろから顔を出して、大の男の泣くのを、世にも不思議そうに眺めております。

「新さん、お前さんは可哀想だね。――聴いちゃ悪いと思ったけれど、出逢頭で、逃げることも隠れることも出来ないんだもの、みんな聴いてしまったよ」

「…………」

「あの娘はね、あのとおりの気性者だから、お前さんの気持も考えずに、ポンポン切れ話をするんだろう」

「…………」

「新さん、お前さんの前だから言うんじゃないが、私は蔭ながら随分骨を折った積りさ。生さぬ仲の遠慮はあるにしても、あんまり勝手で見ていられないから、――どんな事があっても、新さんを捨てちゃ冥利が悪い、もう一度考え直すように――ってネ」

お仙は新吉の背でもさすってやりたい様子でした。房五郎の後添い、お駒のためには継母に相異ありませんが、本当によく出来た人で、三十八九にしては若々しい容貌と共に、町内でも褒めものの女房だったのです。

「…………」

新吉は恐ろしい激情に打ちひしがれて、口もきけない様子でした。二十一にもなっているくせに、気の弱い生れ付きで、男前でも立派でなければ、親分手合の房五郎の娘と、割ない仲になるような、大した貫禄の人間ではなかったのです。

「新さん、短気を起しちゃいけないよ、またそのうちに良い話があるかも知れない。――私じゃ大した力にもならないが、夫の罪亡ぼしもあることだから、出来るだけの事はしてあげたい」

せめてこの母親の半分もお駒に真心があったら――と新吉はまた新しい涙を誘われました。

「おっ母ア、帰ろうよ」

倅の定吉は、二人の話に退屈して、グイグイと母親の袖を引きます。

「とにかく、あまりクヨクヨしない方がいいよ。今まで通り、時々は家へも遊びにも来るんだネ。明日の晩は節分で、夫は参会があって浅草へ出掛けるし、私は定吉と明神様へお詣りに行くから、その間に来て、よくお駒と話してみてはどう? お駒だって、父親の言う事や、持参付の聟の事ばかり考えているわけでもあるまいから」

「えッ、持参付の聟? それは一体誰のことです」

思いも寄らぬ話に、新吉は愕然とした様子でした。お駒が急に冷淡になって、愛想尽かしと言ってもいいほどツケツケ物を言った原因が、継母のお仙の口からはっきり知ったような気がしたのでした。

「おっ母ア、帰ろうよ」

定吉はグングン母親の手を引きました。十九と言っても、智恵の足りない子はかえって身体の育ちがよく、十三十五の町の少年達と遊んでいますが、身体だけ見れば、立派な一人前の若い衆で通る恰幅だったのです。

Chapter 1 of 8