一
「親分、世の中はだんだん悪くなって来ますね」
ガラッ八の八五郎は妙なことを言い出しました。鼻毛を抜いて、手の甲に一本ずつ植えて、それを、畳の上でプーッと吹くといった、太くて粗い神経の持主の言葉ですから、この――世の中が悪くなった――と言ったところで、大した真剣味はありません。
「たいそう考えちゃったね。何が一体悪くなったんだ」
平次は日本一の機嫌でした。手掛けた事件は全部片が付いたし、女房のお静は若くて綺麗だし、秋の陽は申分なく晴れたし、一年三百六十五日、こんな好い心持の日は滅多にあるものではありません。
「第一に米が高え」
ガラッ八は不器用らしく指を折りました。
「可笑しなことを言うぜ。米の高えのを気にするようになれば、人間も一人前だ――手前なんざ、たった一人口で、下の婆さんに炊いて貰っている身体だ。どんなに暴れ食いをやったって一日一升とは食う道理はねえ」
「仰せの通りだが、湯へ入っても、髪結床へ行っても、米の高え話を聴かされると、あっしのような不自由を知らねえ人間も、ツイ人付き合いに、同じせりふが言ってみたくなるじゃありませんか。――憚りながら米なんざ、両に一升したって驚く八五郎じゃねえ」
「水ばかり呑んでいる積りなら気が強い――とね」
「交ぜっ返しちゃいけねえ。親分、ところで次の一つは」
「女房の来てのねえことじゃあるまいね。この節は女の子の相場も高くなったよ」
「そんな間抜けなものは要らねえ――憚りながら、女房と心張棒には当分用事のねえ世帯だ」
「合の手が多過ぎるよ。その――世の中が悪くなったという、もう一つの証拠は何だ」
銭形平次も少し真剣でした。
「ろくな御用がねえ事ですよ。ね親分、十手の錆なんざ、小唄にもならねえ」
「馬鹿野郎。世の中が良くなればこそ、こちとらに仕事がなくなる道理じゃないか。罰の当った言い草だ」
「だがね、親分。世間に悪人が根絶やしになる道理はねえから、銘々、人の目に付かないところで、そっと悪事を働いてるんじゃありませんか」
「たいそう考え深くなったじゃないか。――だが、そんな事を言った日にゃ、この世の中が恐ろしくて、一日も暢気な顔をしちゃいられなくなるよ」
平次は事もなげに言いましたが、八五郎の言うことが、長い間の経験で、間違っているとは言い切れません。平次は名御用聞と言われているだけに、この世の中には、どんなに悪事を企んでいる奴が多いことか、その中のほんの一部が実行され、そして、またその一部分だけが露顕することをよく知っていたのです。
ちょうどそんな話をしている時、この世にも不思議な事件が、向うから飛び込んで来たのでした。
「おや、八、どうやら世直しが飛び込んで来たらしいぜ。朝っぱらから女の声だ。明神様にかこつけて、御用聞の家へ来る客は、きっと面白いネタを持込んで来るよ」
そんな事を言っている平次は、やがてお静の案内した、四十前後の女――三崎町の桶屋、久兵衛の女房お夏というのを迎え入れました。
「銭形の親分さん。お上の御用の多いところへ、こんな事を持込んじゃお気の毒ですが、どうぞ聴いてやって下さい――実は」
お夏は不安そうに四方を見廻しました。縁側に近く八五郎のガラッ八が、まだ鼻毛を気にしているのです。
「あれですかえ。お神さん」
「…………」
「御存じの八五郎で、一本立の御用聞には違いありませんが、何を聞かしたって大丈夫ですよ」
「親分さん、変なことがあるんですよ。――主人のへ言ったって、取り合ってくれませんから、明神様へお詣りをすると言って、出て来たんですが」
「…………」
平次はガラッ八と顔を見合せました。ツイ今しがた話していた、同じ文句が、お夏の口から不用意に飛出したのが可笑しかったのです。
「変なことにもいろいろあるが、どんなことがあったんで、お神さん」
促し顔の平次。人の話を引出したり、堅い唇をほぐすことにかけては、稼業柄のうまさがあります。