Chapter 1 of 8

「旦那よ――たしかに旦那よ」

「…………」

鬼になった年増芸妓のお勢は、板倉屋伴三郎の袖を掴んで、こう言うのでした。

「ただ旦那じゃ解らないよ姐さん、お名前を判然申上げな」

幇間の左孝は、はだけた胸に扇の風を容れながら、助け舟を出します。

「旦那と言ったら旦那だよ、この土地でただ旦那と言や、板倉屋の旦那に決ってるじゃないか。幇間は左孝で芸妓はお勢さ、ホ、ホ、ホ――いい匂いの掛け香で、旦那ばかりは三間先からでも解るよ。お前さんが側へ来てバタバタやっちゃ、腋臭の匂いで旦那が紛れるじゃないか、間抜けだねエ――」

「なんて憎い口だ」

左孝は振り上げて大見得を切った扇で、自分の額をピシャリと叩きました。このとき大姐御のお勢が、片手に犇と伴三郎の袖を掴みながら、大急ぎで眼隠しの手拭をかなぐり捨てたのです。

伴三郎の思い者で、土地の売れっ妓お勢に対しては、左孝の老巧さでも、二目も三目もおかなげればなりません。

「それ御覧、旦那じゃないか」

お勢は少しクラクラする眼をこすりました。二十二三でしょうが、存分にお侠で、この上もなく色っぽくて、素顔に近いほどの薄化粧が、やけな眼隠しに崩れたのも、言うに言われぬ魅力です。

「眼隠し鬼は手で捜って当てるのが本当じゃないか。匂いを嗅いで当てるなんて、犬じゃあるまいし――私はそんな事で鬼になるのは嫌だよ」

伴三郎はツイと身をかわして、意地の悪い微笑を浮べております。

これは三十そこそこ、金があって、年が若くて、男がよくて、蔵前切っての名物男でした。本人は大通中の大通のような心持でいるのですが、金持の独りっ子らしく育っている上に、人の意見の口を塞ぐ程度に才智が廻るので、番頭達も、親類方も、その僭上ぶりを苦々しく思いながら、黙って眺めているといった、不安定な空気の中にいる伴三郎だったのです。

「あら、旦那、そんな事ってありませんワ」

お勢は少し面喰らいました。

「でも、俺は匂いを嗅ぎ出されて鬼になるなんか真っ平だよ」

「それじゃ、もういちど鬼定めをしようか、その方が早いぞ」

白旗直八は如才なく仲裁説を出しました。昔は板倉屋の札旦那の倅でしたが、道楽が嵩じて勘当され、今では伴三郎の用心棒にもなれば、太鼓も打つといった御家人崩れの、これも三十男です。

「それがいい、それがいい」

雛妓や、若い芸妓達――力に逆らわないように慣らされている女達――は、こう艶かしい合唱を響かせました。

杯盤を片付けた、柳橋の清川の大広間、二十幾基の大燭台に八方から照されて、男女十幾人の一座は、文句も不平も、大きな歓喜の坩堝の中に鎔し込んで、ただもう、他愛もなく、無抵抗に、無自覚に歌と酒と遊びとに、この半宵を過せばよかったのです。

遊びから遊びへ、果てしもない連続は、伴三郎にも倦怠でした。――何か面白いことはないか、と、褒美を懸けて考え出したのが、この頃の子供達がやる「眼隠し鬼」という、およそ通や粋とは縁の遠い遊びだったのです。

この遊びは刺戟的で馬鹿げていて、思いのほか皆んなを喜ばせました。鬼が危ない手付きで追い廻すと、伴三郎と直八とそれに幇間の左孝、芸妓大小取交ぜて十人あまり、キャッキャッと金魚鉢をブチまけたように、花束を砕いたように、大広間一パイに飛廻るのです。

中には、首っ玉へ齧り付かれたり、髪を毟られたり、わざと畳に滑って転げたり、きわどいことまでして見せました。板倉屋伴三郎は、それを苦り切った顔で、実は面白くて面白くてたまらない様子で見ているのでした。

雛妓達も客も芸妓も皆んな並べて、

「――いっちく、たっちく太右衛門どんの乙姫様は、湯屋で押されて泣く声聞けば、ちんちんもがもが、おひゃりこ、ひゃりこ――」

と声を揃えて歌いながら数え、一人ずつ抜かして、最後に残った一人を鬼にするのです。

残った二人は白旗直八と幇間の左孝、二人とも、鬼になりたくてなりたくて仕様のないという人間――雛妓を追い廻して頬摺りするのを鬼の役得と心得ている人間でした。捕まえてさんざん厭がらせをした上、わざと名を間違えると、いつまでも鬼でいられるという術もあったのです。

Chapter 1 of 8