Chapter 1 of 7

ガラッ八の八五郎は、こんないい心持になったことはありません。

親分の銭形平次の名代で、東両国の伊勢辰でたらふく飲んだ参会の帰り途、左手に折詰をブラ下げて、右手の爪楊枝で高々と歯をせせりながら、鼻唄か何か唄いながら、両国橋へ差しかかって来たのは真夜中近い刻限でした。

借着ながら羽織を引っかけて、懐中には羅紗の大紙入、これには親分の平次が、人中で恥を掻いちゃ――と一分二朱を入れてくれたのですから、自分の身上、六十八文と合せて、八五郎すっかりいい心持になったのも無理のないことです。

折柄の月夜、亥刻(十時)を過ぎると、橋の上もさすがに人足が絶えます。

「おや?」

ガラッ八は立止まりました。ツイ眼の前へ、人魂のようにフラフラと行くのは、後ろ姿ながら若くて美しそうな娘、何やら思案に暮れる様子で、深々と顎を埋め、襟の掛った秩父絹の袷、塩垂れてはいるが、赤い可愛らしい帯、すらりと裾を引いて、草履の足音も、ホトホトと力がありません。

娘はガラッ八の跟いて来るのに気が付かなかったものか、よろけるように欄干に凭れると、初冬の月を斜めに受けて、鉛色に淀んだ川の水を、ジイッと魅入られるように眺め入りました。

後れ毛を掻き上げるか弱い手、ホッと溜息を吐く様子までが、跫音を忍ばせたガラッ八には、手に取るごとく見えるのです。

娘はしばらく涙に暮れる様子でした。が、フト、後ろからガラッ八の近づくのに気が付くと、草履を脱いで、その上に何やら紙片を置き、簪を錘にして、

「南無――」

欄干へ攀じ登ったのです。

「危ないッ、待った」

後ろから飛付いたガラッ八、危うく欄干を越しそうにした娘の身体をもぎ離すと、それを抱き上げたまま、力余って後ろざまによろけます。

「あれーッ、放して下さい」

必死ともがく娘。

「とんでもねえ、放したらまた飛込むだろう。どんなわけがあるか知らねえが、死ぬのは不料簡――」

「いえいえ死ななきゃならないわけがある、お願いだから放して下さい」

華奢で骨細な娘ですが、必死の力を出すと、腕自慢のガラッ八にも容易には押え切れません。後ろから羽交締めに、欄干へ寄せないのが精一杯。

「死んで花実が咲くものか、――第一この寒空、死にようもあるのに、身投げは季節じゃねえ、――落着いて訳を話せ」

「お願いだから殺して下さい、どうせ生きてはいられない私」

身を揉むほどに、娘の身体がしっとり汗ばんで、薫蒸された脂粉の匂いが、揉み合うガラッ八をふんわりと押し包みます。

「どんなわけがあるにしても、こうなっては見殺しには出来ない、――俺も男の端くれだ、及ばずながら相談にも乗ってやろう、まず訳を話せ」

「…………」

「親も兄弟もあるだろう、後に残る者の歎きも考えてみるがいい」

「…………」

娘は次第に気が落着いたものか争うのを思い止まると、ガラッ八の胸に顔を埋めて、シクシクと泣き始めました。思い詰めた興奮が去ると、急に悲しみが蘇生ったのでしょう。

「一体、何が何で死ぬ気になったんだ、話してみるがいい」

「…………」

「色恋の沙汰か」

「…………」

娘は激しく頭を振りました。

「それとも、よくある話だ、主人の金を落したとか、盗まれたとか――そうでもない?」

「…………」

「じゃ、若い娘が死ぬほどのわけがないじゃないか、一体どうしたというのだ」

ガラッ八の手はいつの間にやら、娘の背を撫でて、その泣き濡れた顔を覗いております。

「――叔母さんが、身売りをしろって言うんです」

「何? 叔母さんが、身を売れって?――そんな馬鹿なことがあるものか、親の承知しない者を、叔母が何と言ったって――」

「でも、私は親がない子で、叔父さん叔母さんに藁のうちから育てられました。この暮のくり廻しが付かないから、吉原へ身を売れと言われると、いやとは申されません」

「…………」

「どうぞ殺して下さい。生きていても望みのない身体、小さい時死に別れた、真実の両親のところへ行くのが、せめてもの望みでございます」

顔を挙げた娘、涙はもう乾いておりますが、月の光に洗われたようで、その美しさというものはありません。せいぜい十八九にもなるでしょうか、言いようもなく哀れ深い姿です。

「とんでもねえ、身売りがいやだから死ぬというのは、若い者には無理のないことだが、どうせ金で済むことなら、何とか話し合いも付くだろう。ほんの少しばかりだが、これだけでも、持って行くがいい」

ガラッ八は懐中から羅紗の大紙入を出すと、その中から一分二朱と六十八文の全財産を懐紙に捻って、娘の懐中に押し込みました。

「でも、私の身の代金は、年一杯で手取り三十五両と、女衒が決めて行きました」

娘は少し困った顔を挙げます。

「なるほど、三十五両と一分二朱六十八文じゃ少し違いすぎる、――こうしようじゃないか、俺がこれから叔父さん叔母さんに逢って、この暮に入り用の金が、掛値のないところいくらか訊いて、それだけ工面してやろうじゃないか」

「いえ、そんなにまでされなくても――」

「そんなことで人一人――それもお前のような綺麗な娘の命を助けられるなら、俺も本望というものだ」

「暮に要る金はたった五両、わけがあって、私は知っております。手取り三十五両も入ったら、また博打の元手になることでしょう」

娘はやるせない姿でした。たった五両で死ぬ身が、我ながら疎ましかったのでしょう。

「五両ぐらいなら何とかなるだろう、俺の叔母の家はツイそこだ、来てみるがいい」

「でも――」

渋る娘の手を取るように、ガラッ八は叔母の家へ向いました。日頃ガラッ八の馬鹿馬鹿しさと純情さに打込んでいる独り者の叔母は、五両ぐらいのことは、何とかしてくれそうに思えたのです。

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