Chapter 1 of 8

「親分」

「何だ、八」

「腕が鳴るね」

ガラツ八の八五郎は、小鼻をふくらませて、親分の錢形平次を仰ぎました。

初夏の陽を除け/\、とぐろを卷いた縁側から、これも所在なく吐月峯ばかり叩いてゐる平次に、一とかど言ひ當てたつもりで聲を掛けたのでした。

「腕の鳴る面かよ、馬鹿野郎。近頃お濕りがないから、喉が鳴るんだらう」

「違げえねえ」

平掌で額をピシヤリ。この二三日スラムプに陷つてゐる平次から、この痛快な馬鹿野郎を喰はせられるのが、ガラツ八にはたまらない嬉しさの樣子です。

「八、あれを聞くがいゝ」

「何ですえ、親分」

「誰か來たやうだ、飛んだ面白い仕事かも知れないよ」

「――」

「家の前を往つたり來たりしてゐるだらう。入らうか入るまいか、先刻から迷つてゐる樣子だ、――女の跫音だね」

平次の言葉が終らぬうちに格子が開いて、お靜が取次に出た樣子、若い女の低いが彈み切つた聲が聞えます。やがて通されたのは、二十歳そこ/\の愛くるしい娘、何やら惱みに打ちひしがれて、部屋の隅に小さく俯向きました。

色白の顏が少し痙攣して、豊かな肩が搖れると、恐る/\顏をあげて、相對した江戸一番の御用聞――錢形平次の顏をソツと見上げるのです。

「俺は平次だが、何んな用事で來なすつた。思ひ切つて打明けてみるがいゝ」

平次はこの娘の裡から善良なものを感じました。

「親分さん、父さんを助けて下さい。父さんは頸を縊つて死ぬんだといつて、何うなだめても聞いてくれません」

「成程、それは大變だらう、――お前の父さんといふのは何だえ、稼業は?」

平次は娘の昂奮を外らさないやうに、心持せき込んで訊ねます。

「灸點横町(神田佐久間町)の多の市でございます」

「あ、蛸市か。すると姐さんはお濱さんかい、道理で――」

縁側からガラツ八が長い顎を出します。

「默つて引込んで居ろ、馬鹿野郎ツ」

平次の一喝を喰つて、ガラツ八は頭を叩かれた蝸牛のやうに引込みました。

尤も、娘の名乘るのを聞いて、ガラツ八が乘り出したのも無理のないことだつたのです。灸點横町の多の市といふのはお灸と鍼の名人で、神田中に響いた盲人ですが、稼業の傍ら高利の金を廻し、吸ひ附いたら離れないからといふので、蛸市と綽名を取つてゐるほど、強か者だつたのです。

その娘のお濱の美しい話も、ガラツ八は聞き飽きるほど聞かされて居りました。ポチヤポチヤして可愛らしくて、若い男の心をひしと掴まずには措かない――といふ噂のお濱が、この物に怯えて雁皮紙のやうに顫へて居る娘とは思ひもよりません。

「さう仰しやるのも無理はございません。父さんは本當にお金を溜めるのに夢中だつたんですから、――その命がけで溜めたお金が九百九十兩、誰かに盜まれてしまひました」

「九百九十兩?」

錢形平次は驚きました。九百九十兩といへば、千兩にたつた十兩缺けただけ、聞いただけで一寸ドキリとさせる大金です。

千兩分限といふ言葉が、今の千萬長者と同じ響を持つた時代、――十兩から上の泥棒は首を斬られた時代――に、灸點横町の裏長屋で、九百九十兩溜める人間も溜める人間なら、それを盜む奴も盜む奴――と思つたのでした。

「父さんは――あの金を盜られては、生きてゐる張合もないから、助けると思つて殺してくれと、泣いたり暴れたり」

お濱の眼――訴へるやうに平次を仰ぐ黒い眼は、夕立を浴びたやうにサツと濡れて、ハラハラと拭ひもあへぬ涙が膝にこぼれました。

「順序を立てて詳しく話すがいゝ、隨分力になつてやらないものでもない」

平次は膝を進めました。

「お父さんはこの二十年の間、蛸市とか赤鬼とか、世間樣から存分なことをいはれながら、一心不亂にお金を溜めました。隨分痛々しい取立てもしたさうですが、その代り私達父娘の身も詰められるだけは詰めたのです。爪に火を灯すと言ひませうか、三度の物も二度にして、十年越し、浴衣一枚買つたことも御座いません」

お濱は一生懸命さの中にも顏を赧らめました。着てゐる浴衣は、別れた母親讓りの品らしく、二三十年前江戸で流行つた、洗ひ晒しの大時代物、赤い帶も芯がはみ出して、繕ろひ切れぬ淺ましい品だつたのです。

「そんなに金を溜めて、何をするつもりだつたんだらう」

平次のやうな、宵越の錢さへ持たない者には、烏金まで貸して溜める人間の心理が解りません。

「盲目の望みは檢校でございます。眼が見えないばかりに、艱難辛苦して育つた父さんは、人樣に馬鹿にされる口惜しさが昂じて、一生のうちには、石に噛り付いても檢校の位に上り、今まで片輪者を馬鹿にした人達を、眼下に見てやらうと思ひ立つたのです」

「成程ね」

「その爲に配偶の私の母とも別れ、娘の私だけ引取つて、母がその日の暮しにも困つて居るのを知り乍ら、十年越し仕送りもしませんでした」

「――」

「二十年間、夢にも現にも、口癖にいつたのは、――俺はきつと檢校になる、どんな事をしても檢校になる――と」

盲人の恐ろしい執念は、お濱の口を通して、平次の身にも迫ります。

「檢校の位になるには、千兩要るといふことだが、お前の父さんはその用意の金を盜られたのかい。成程半狂亂になるのも無理のないことだ」

平次も次第に多の市父娘の苦惱が解つて來ました。

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