一
「親分」
「何だ、八」
「腕が鳴るね」
ガラッ八の八五郎は、小鼻をふくらませて、親分の銭形平次を仰ぎました。
初夏の陽を除け除け、とぐろを巻いた縁側から、これも所在なく吐月峰ばかり叩いている平次に、一とかど言い当てたつもりで声を掛けたのでした。
「腕の鳴る面かよ、馬鹿野郎、近頃お湿りがないから、喉が鳴るんだろう」
「違えねえ」
平掌で額をピシャリ。この二三日スランプに陥っている平次から、この痛快な馬鹿野郎を喰らわせられるのが、ガラッ八にはたまらない嬉しさの様子です。
「八、あれを聞くがいい」
「何ですえ、親分」
「誰か来たようだ、とんだ面白い仕事かも知れないよ」
「…………」
「家の前を往ったり来たりしているだろう。入ろうか入るまいか、先刻から迷っている様子だ、――女の跫音だね」
平次の言葉が終らぬうちに格子が開いて、お静が取次に出た様子、若い女の低いが弾み切った声が聞えます。やがて通されたのは、二十歳そこそこの愛くるしい娘、何やら悩みに打ちひしがれて、部屋の隅に小さく俯向きました。
色白の頬が少し痙攣して、豊かな肩が揺れると、恐る恐る顔をあげて、相対した江戸一番の御用聞――銭形平次の顔をソッと見上げるのです。
「俺は平次だが、どんな用事で来なすった。思い切って打明けてみるがいい」
平次はこの娘の裡から善良なものを感じました。
「親分さん、父さんを助けて下さい。父さんは頸を縊って死ぬんだといって、どうなだめても聞いてくれません」
「なるほど、それは大変だろう、――お前の父さんというのは何だえ、稼業は?」
平次は娘の昂奮を外らさないように、心持せき込んで訊ねます。
「灸点横町(神田佐久間町)の多の市でございます」
「あ、蛸市か。すると姐さんはお浜さんかい、道理で――」
縁側からガラッ八が長い顎を出します。
「黙って引っ込んでいろ、馬鹿野郎ッ」
平次の一喝を喰らって、ガラッ八は頭を叩かれた蝸牛のように引っ込みました。
もっとも、娘の名乗るのを聞いて、ガラッ八が乗り出したのも無理のないことだったのです。灸点横町の多の市というのはお灸と鍼の名人で、神田中に響いた盲人ですが、稼業の傍ら高利の金を廻し、吸い付いたら離れないからというので、蛸市と綽名を取っているほど、強か者だったのです。
その娘のお浜の美しい話も、ガラッ八は聞き飽きるほど聞かされておりました。ポチャポチャして可愛らしくて、若い男の心をひしと掴まずにはおかない――という噂のお浜が、この物に怯えて雁皮紙のように顫えている娘とは思いもよりません。
「そうおっしゃるのも無理はございません。父さんは本当にお金を溜めるのに夢中だったんですから、――その命がけで溜めたお金が九百九十両、誰かに盗まれてしまいました」
「九百九十両?」
銭形平次は驚きました。九百九十両といえば、千両にたった十両欠けただけ、聞いただけでちょっとドキリとさせる大金です。
千両分限という言葉が、今の百万長者と同じ響きを持った時代、――十両から上の泥棒は首を斬られた時代に、灸点横町の裏長屋で、九百九十両溜める人間も溜める人間なら、それを盗む奴も盗む奴――と思ったのでした。
「父さんは――あの金を盗られては、生きている張合もないから、助けると思って殺してくれと、泣いたり暴れたり」
お浜の眼――訴えるように平次を仰ぐ黒い眼は、夕立を浴びたようにサッと濡れて、ハラハラと拭いもあえぬ涙が膝にこぼれました。
「順序を立てて詳しく話すがいい、ずいぶん力になってやらないものじゃない」
平次は膝を進めました。
「父さんはこの二十年の間、蛸市とか赤鬼とか、世間様から存分なことをいわれながら、一心不乱にお金を溜めました。ずいぶん痛々しい取立てもしたそうですが、その代り私たち父娘の身も詰められるだけは詰めたのです。爪に火を灯すと言いましょうか、三度の物も二度にして、十年越し、浴衣一枚買ったこともございません」
お浜は一生懸命さの中にも顔を赧らめました。着ている浴衣は、別れた母親譲りの品らしく、二三十年前江戸で流行った、洗い晒しの大時代物、赤い帯も芯がはみ出して、繕い切れぬ浅ましい品だったのです。
「そんなに金を溜めて、何をするつもりだったんだろう」
平次のような、宵越しの銭さえ持たない者には、烏金まで貸して溜める人間の心理が解りません。
「盲人の望みは検校でございます。眼が見えないばかりに、艱難辛苦して育った父さんは、人様に馬鹿にされる口惜しさが昂じて、一生のうちには、土に齧り付いても検校の位に上り、今まで馬鹿にした人達を、眼下に見てやろうと思い立ったのです」
「なるほどね」
「そのために配偶の私の母とも別れ、娘の私だけ引取って、母がその日の暮しにも困っているのを知りながら、十年越し仕送りもしませんでした」
「…………」
「二十年間、夢にも現にも、口癖にいったのは、――俺はきっと検校になる、どんな事をしても検校になる――と」
父親の恐ろしい執念は、お浜の口を通して、平次の身にも迫ります。
「検校の位になるには、千両要るということだが、お前の父さんはその用意の金を盗られたのかい。なるほど半狂乱になるのも無理のないことだ」
平次も次第に多の市父娘の苦悩が解って来ました。