Chapter 1 of 6

「あツ危ねえ」

錢形の平次は辛くも間に合ひました。夜櫻見物の歸りも絶えた、兩國橋の中ほど、若い二人の袂を取つて引戻したのは、本當に精一杯の仕事だつたのです。

「どうぞお見逃しを願ひます」

「どつこい待ちな、――そんな身投げの極り文句なんか、素直に聞いちや居られねえ」

「死ななきやならないわけがございます。どうぞ、親分」

爭ふ二人、平次は叩きのめすやうに、橋の欄干に押付けました。

「頼むから靜かにしてくれ。俺は横山町から驅け付けたんだ。息が切れて叶はねえ、――意見をするのが面倒臭くなると、二人を縛つて欄干に晒し物にする氣になるかも知れないぜ」

「親分さん」

「解つたよ。三百八十兩の大金を巾着切にやられて、主人への申譯、言ひ交した女と一緒に、ドブンとやらかさうといふ筋だらう」

「えツ」

「お前は、増屋の養子徳之助、――此方はお富といふんだつてね」

「さう言ふ親分さんは?」

「神田の平次だ」

「あツ、錢形の――」

徳之助とお富は、死ぬ筈の身を忘れて、町の家並に傾く櫻月の薄明りの中に、江戸第一番の御用聞と言はれた平次の顏を見直しました。

「横山町の店からの使ひで飛んで行つて見ると、――一度店へ歸つたお前が、お富と牒し合せて飛出したといふ騷ぎの眞つ最中だ。いづれは心中ものだらうと思つたが、永代へ行つたか兩國へ行つたか、それとも向島へ遠走りをしたか見當がつかねえ、――兎も角、近間の兩國へ驅け付けて、幸ひ間に合つたからいゝやうなものの、これが永代へでも伸された日にや、今頃は三途の川で夜櫻を眺めて居るぜ、危ねえ話だ」

さう言ふ平次の言葉を聞いて、

「――」

二人はゾツと襟をかき合せました。助けられた今になつて見ると、三途の川の夜櫻が、あまり氣味のいゝものではなかつたのです。

「さア行かうぜ。――店ぢや皆さんも大心配だ。わけても増屋の旦那は、三百八十兩のことも忘れて、徳之助に若しもの事がなけりやいゝが――と居たり起つたり、神棚に燈明をあげたり、見るも氣の毒な程の氣の揉みやうだ」

「申譯もございません、――でも、私は此儘店へ歸つては濟まないことがございます」

「はてネ」

月明りの僅かに殘る欄干に凭れたまゝ、徳之助は苦悶に打ちひしがれて、濡れでもしたやうに、しよんぼりと語り續けました。

十三の年、親を喪つた徳之助は、遠縁の増屋に引取られて、養子分で二十一まで働きましたが、増屋の主人三右衞門の慈愛が深まるにつれて、朋輩の嫉妬が激しく、三百八十兩の大金を失つても、主人の三右衞門は許してくれるでせうが、番頭手代は、決して腹の中では、許してくれないだらうと――かう言ふのです。

その上、今日まで内證にして居た、お富との仲が、この心中騷ぎで一ぺんに知れたら、他の奉公人の手前、主人の三右衞門も、素直に許してはくれないかも解らず、いづれにしても、二人揃つて増屋の敷居を跨ぐのは、どうも遠慮しなければならないやうに思はれる、と言ふのでした。

「それは一應尤もだが、金は働いて返す折もあるだらうし、二人の仲は、いづれは知れずに濟まねえだらう。店へ歸つて、大恩ある主人に安心させるのが、何よりの孝行といふものではないか」

平次は口を酢つぱくして説き勸めますが、若くて一徹な二人は、心中の仕損ひの顏を、ノメノメと元の店へは持つて行く氣になりさうもありません。

「それでは、私のお父さんは、直ぐ其處の濱町に居ります。行つて相談して見ませうか」

お富はかう言ふのです。漸く十九になつたばかり、増屋の奉公人には相違ありませんが、女隱居の相手をしてゐる可愛らしくも清らかな娘で、徳之助と並べると、歌舞伎芝居の道行を見るやうな、一種の情緒を醺し出さずには居ません。

死出の晴着のつもりでせう。薄化粧に、一帳羅らしい銘仙を着て、赤い帶も、黒い髮も、水へも火へも飛込みさうな、純情無垢の象徴に見えて、平次の目には危つかしくてならないのでした。

「それはいゝが、店では心配してゐるだらう」

平次はまだ、増屋の大騷ぎが目に見えるやうな氣がするのです。

「親分――横山町へは、あつしが一と走り行つて來ますよ。二人を濱町へ連れて行つちや何うでせう」

月の隈の中から、長い/\影法師を曳いて現れたのは、錢形平次の子分、ガラツ八の八五郎の忠實な姿でした。

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