一
「親分」
「何んだ、八。大層な意氣込みぢやないか、喧嘩でもして來たのか」
錢形平次は氣のない顏を、八五郎の方に振り向けました。
「喧嘩ぢやありませんがね、癪にさはつて癪にさはつて――」
「癪なんてものは、紙入に入れてよ、内懷にしまひ込んで置くもんだ――お前見たいに鼻の先へブラ下げて歩くから、餘計なものにさはるぢやないか」
「へツ、まるで心學の講釋だ。親分も年を取つたぜ」
八五郎は餘つ程蟲の居どころが惡かつたものか、珍しく親分の平次に突つかゝつて行きます。
「ハツ、ハツ、ハツ、八五郎にきめ付けられるやうぢや、全く年を取つたかも知れないよ。ところで何が一體癪にさはるんだ」
平次は無造作に笑い飛ばして、縁側に後ろ手を突いたまゝ、空の碧さに見入るのでした。七夕も近く天氣が定まつて、毎日々々クラクラするやうなお天氣續きです。
「だつて、口惜しいぢやありませんか。三輪の萬七親分が、先刻昌平橋であつしの顏を見ると、いきなり、『おや八兄哥、此邊にブラブラして居るやうぢや相變らず錢形のところに居候かい。俺のところの清吉なんか、八兄哥より二つ三つ若い筈だが、此間から入谷に世帶を持つて、押しも押されもせぬ一本立の御用聞だぜ。――尤も其處まで行くのは容易のことぢやあるまいがね――』と斯うだ」
「――」
「あんまり腹が立つから、いつそ十手捕繩を返上して、番太の株でも買はうと思つたが――番太の株だつて唯ぢや買へねエ」
こんなに腹を立ててゐる癖に、八五郎の調子には、吹出さずに居られない可笑味があります。
「ハツ、ハツ、ハツ、笑つちや氣の毒だが、腹を立てる度に番太の株を狙ふのは、江戸中の岡つ引にも、お前ばかりだよ。何處かに良い後家附きの株でもあるのかい。――それは兎も角、八五郎だつて立派な一本立の御用聞ぢやないか。今度三輪の親分に逢つたら、さう言つてやるが宜い。親分のところに泊つて居るのは、田舍から姪が來て、向柳原の叔母の家が急に狹くなつたからだ。手頃の貸家があるなら世話して下さいよ、家賃なんかに絲目は附けないから――と言つたやうな具合にな」
「それくらゐのことを言つたんぢや、腹の蟲が納まりませんよ」
「大層機嫌の惡い蟲だね。ぢや、三輪の兄哥がびつくりするやうな手柄を立ててよ、お神樂の清吉が目を廻すやうな女房を貰ふんだね」
「そんなのはありますか、親分」
「大ありさ、江戸は廣いやね。――綺麗な女房の方は俺の鑑定ぢや納まるまいが、大きな仕事なら丁度良いのがあるぜ」
「へエ」
「例へば、近頃三輪の親分が追ひ廻してゐる、痣の熊吉だ。下谷淺草から神田小石川へかけて二三十軒も荒し、人間も五六人斬られてゐるが、どうしても捉まらねエ」
平次の言ふのは尤もでした。去年の暮あたりから風の如く去來する怪賊、金高にて二三千兩もかせいだことでせうが、文字通り神出鬼沒で、江戸中の岡つ引が、束になつて追ひ廻しても、何んとしても捉まりません。
「そいつはあつしも心掛けて居るが、首筋に火の燃えるやうな眞赤な痣のある人間なんか、滅多に見付かりませんよ」
兇賊は何んの變哲もない小男で、黒い覆面をしたつきり、町人風の小氣のきいた樣子で、大抵宵のうちに入り、往來がまだ賑やかなうちに、何處ともなく逃げうせるのが特徴とされて居ります。
もう一つの特長は覆面の下から見える左首筋に、小判形の眞赤な痣のあることと、それから、恐しく手の利くことと、身體が人間離れがしてゐるほど輕捷なことです。
「で、まるつきり見當が付かないのか」
「へエ、首筋に痣のある人間さへ見付かればワケはないんだが」
「馬鹿だなア――、何時までもその氣だから、三輪の親分に嘗められるんだ」
平次は『此子誨ゆべからず』と言つた顏をするのです。
「外に手蔓も引つ掛りもないぢやありませんか」
「ぢや訊くが、自分の首筋に眞赤な痣のあることを知らない人間はあるだらうか」
「ありませんね、鏡といふものがあるんだから」
「覆面に顏を隱して、人の家へ押込まうと言ふ太い奴が、首筋の赤い痣を隱すことを知らないとはどういふわけだ」
「成程ね」
「痣なんか目當てに搜しちや、熊吉は一生捉まらないよ。――これだけ言つたら、何んとか工夫のつけやうがあるだらう。三輪の萬七親分にあつと言はせるつもりで、熊吉を擧げて見るが宜い」
「へエ――」
平次は精一杯の激勵をするのでした。でもなければ、一本立にならうなどといふ望みを起す八五郎ではありません。