Chapter 1 of 5

ガラッ八の八五郎はぼんやり日本橋の上に立っておりました。

御用は大暇、懐中は空っぽ、十手を突っ張らかしてパイ一にあり付くほどの悪気はなく、このあいだ痛めたばかりの銭形の親分のところへ行って、少し借りるほどの胆も据わりません。

夕映えの空にくっきりと浮いた富士を眺めながら、歌にも俳諧にも縁の遠い思案をしていると、往来の人はジロジロ顔を見て通ります。どう面喰らっても、身投げと間違える気遣いはありませんが、その代り、夕景の忙しい往来の邪魔になることは請合いです。

「おや?」

ガラッ八はガン首をあげました。自分の足許に南鐐が一枚チャリンと小さい音を立てて躍ったと思うと、眼の前をスレスレに、一梃の駕籠が通ります。

ガラッ八はそいつを拾って、無意識に駕籠を追いました。間違いもなく南鐐は、駕籠の中から落ちたものだったのです。

「ちょいと、若い衆――」

ガラッ八はそう言いかけた声を呑みました。

駕籠を追うともなく橋を渡って南へ、高札場の前へ来ると、またも駕籠から、チャリンと一枚。

「おッ」

拾って見ると、こんどは小判が一枚。

この山吹色の小判が、駕籠を担いだ後棒の注意も惹かず、織るような往来の人の眼にも触れず、二三間後から追っかけた、ガラッ八の手に拾われたのは、全く奇蹟に近い偶然でした。

いや、偶然ではなくて、それは後ろから跟けて来るガラッ八を目的に、わざと拾わせる心算で落したのかもわかりません。

しかし小判一枚となると、八五郎ならずともそれは大金です。夕陽にキラリとするのを指につまんで高々と宙に振りながら、ガラッ八は思わず駕籠の後を追いました。当然それは深々と垂れをおろした駕籠の中の客に返さるべきものだったのです。

「待ってくれ――その駕籠待ってくれ」

あわてて駆け出したガラッ八の足許へ、その軽率をとがめるように、カラリと落ちたのは、その頃の下町娘が好んで簪した、つまみ細工の美しい櫛ではありませんか。

「…………」

ガラッ八は完全に封じられてしまいました。駕籠の中からは、明らかに、ガラッ八の注意を促すために手当り次第に物を捨てているのでしょう。そうでもなければ、南鐐と小判と飾り櫛は、いかにも取合せが変てこです。

中橋から南伝馬町へ来ると、四文銭が一枚、コロコロと転がり落ちました。駕籠の中の客も、少し懐ろが怪しくなったのかと思うと、京橋を渡ったところで落したのは、二分金が一枚。

駕籠はそんなことに構わず、夕暮近い江戸の町をヒタヒタと急いで、芝口から宇田川町へ、浜松町へとさしかかります。

人足は次第に疎らになって、八五郎もあまり駕籠の側へは寄るわけに行きませんが、中から落す品は青銭になり、小粒になり、簪になり、五丁に一つ、三丁に一つの割合で絶えず八五郎の注意を惹き付けるのでした。

金杉を渡って、芝、田町へ差し掛ると、懐中鏡が一つ抛り出されたのを最後に、駕籠はピタリと停りました。が、駕籠の側に付いていた若い男が、何やら駕籠屋に耳打ちをすると、そのまま駕籠をあげて銀鼠色の夕靄に包まれた暮の街を、ヒタヒタと急ぎます。その頃から八五郎の追跡も一段と熱を加えて、もうすきっ腹も、疲れも忘れておりました。

高輪北町へ差し掛った頃は、すっかり暗くなりました。が、駕籠は灯も入れず、ただひたむきに急ぐばかりです。往来が暗くなったせいか、駕籠からはもう何にも落ちません。

「あッ、野郎ッ、挨拶をしろ。いきなり人に突き当って」

それは全く不意でした。東禅寺門前あたりから飛び出した遊び人風の男が一人、一生懸命に先を急ぐ八五郎にドカンと突き当ると、いきなり火のつくような剣突きを喰わせるのです。

「勘弁しねエ、過ちはお互だ」

八五郎は軽くあしらって一歩踏み出しました。

「何をッ、過ちはお互だッ? そっちから突き当って、よくもそんなことを言やがる。これでも喰らえッ」

パンパンパンと、ガラッ八の頬は鳴りました。小気味の良いほど手の早い男です。

「野郎、撲ったなッ」

モタモタと掴みかかる八五郎。

「撲ったがどうした、唐変木奴ッ」

つづいてまた四つ五つ、パンパンパンと打ってくる腕を辛くも引っ掴んで、ガラッ八得意の力業になりました。

「畜生ッ、こうしてくれよう」

相手はしかし恐ろしい早業でした。八五郎の胸倉を掴んで往来に引っくり返ると、仰向きになりながら手と足とを働かせて動きの遅い八五郎を滅茶滅茶に悩ませます。

「えッ、うるさい野郎だッ。――これが見えないか。御用だぞッ」

持て余し抜いた八五郎は、とうとう懐ろから十手を取出して、この厄介な挑戦者に見せる他はなかったのです。

「あッ、そいつはいけねエ」

相手はいっぺんに兜を脱ぎました。十手を見ると一も二もありません。八五郎の胸倉を離すと一足飛びに、どこともなく姿を隠してしまったのです。

「何という野郎だ。忌々しい」

八五郎は大舌打ちを二つ三つ、埃を払って駕籠を追いましたが、その時はもう肝腎の駕籠はどこへ行ったかわかりません。

あきらめ兼ねた八五郎は、それでも追っ手をゆるめず、品川へ入って、歩行新宿から南本宿まで飛びましたが、見覚えの駕籠は影も形もなく、犇々と身に迫るのは、噛み付くような空腹感です。

Chapter 1 of 5