一
深川熊井町の廻船問屋板倉屋萬兵衞、土藏の修覆が出來上がつたお祝ひ心に、出入りの棟梁佐太郎を呼んで、薄寒い後の月を眺めながら、大川を見晴らした、二階座敷で呑んでをりました。
酌は醗酵し過ぎたやうな大年増、萬兵衞の妾でお常といふ、昔は隨分美しくもあつたでせうが、朝寢と美食と、不精と無神經のために、見事に脂肪が蓄積して、身體中のあらゆる關節に笑靨の寄るといつた、大變な大年増でした。
「あれまア、月が」
などといひながら、欄干の方へよち/\膝行つて、品を作つて柱に絡むとそのまゝ『美人欄に寄るの圖』にならうといつた――少なくとも本人はさう信じて疑はない性の女だつたのです。
九月十三夜の赤銅色の月が、洲崎十萬坪あたりの起伏の上に、夕靄を破つてぬツと出る風情は、まことに江戸も深川でなければ見られない面白い景色でした。
「成程こいつは良い。深川に生れて深川に育つても、こちとらの長屋の縁側からぢや、お隣りの物干が邪魔をして、こんなお月樣は拜めねえ」
棟梁の佐太郎は、主人萬兵衞と一緒に一本あけて、ホロツと來た樣子でした。氣性も身體も引緊つた四十男、そのくせお店の新造といはれてゐる萬兵衞の妾のお常の豐滿な魅力には、妙に誘惑を感じてゐるらしく、席を立つて女の背後に行くと、頬と頬とが觸れるやうに欄干に凭れて、パンパンと柏手を打つのです。
おとくい先のお妾にちよつかいを出すのと、お月樣を拜むのとは、全く別な人格と意圖とに出ることで、一緒にやらかしても、一向良心に恥ぢないのが、この時代の市井人のモラルでした。
わけても佐太郎は、四十過ぎの分別者のくせに、好い男で浮氣者でもあつたのです。
「お月樣は明日の晩も出るよ、――さア、親方の好きな熱いのが來たぜ」
萬兵衞は後ろから聲をかけました。西に殘る夕映えと、東から昇る月の光をたよりに、まだ灯は點けませんが、お常と佐太郎の如何はしい態度は、醉つた萬兵衞からもよく見えます。
「へエ、相濟みません。折角の十三夜だから、揚幕から出たお月樣を褒めてあげなきや」
佐太郎はそんな下らない洒落をいひながら、席に戻つて杯を擧げます。
「私は知つての通り酒が弱いから、とても親方と附き合つちや行けない、――ちよいと横になるから」
二本目の徳利から、一口呑みかけた猪口を下に置いて、萬兵衞はお常の膝を引き寄せて横になりました。五十を越したばかり、痩せて骨張つてはをりますが、精力的で金儲けが上手で、一代に江戸でも何番といはれた富を築いただけの強かさがあります。
その時番頭の忠助は、燭臺を持つて下から昇つて來ました。これは三十五六の柄の大きい、ぽーつとした感じの男ですが、調子にはなか/\如才ないところがあります。
「ちよいとお邪魔いたします」
忠助は縁に吊した三つの提灯に灯を入れて、フト主人の方を振り返りましたが、
「旦那、どうかなさいましたか。ひどくお顏色が惡いやうですが」
物々しく萬兵衞の顏をさし覗くのです。
「先刻から胸が惡くて叶はないよ。酒は親方と一本あけただけだが」
「あつしは何んともありませんがね。何んかお晝に召上がつたものでも惡かつたんぢやありませんか」
「さア、そんな心當りもないが」
主人の萬兵衞は、額に脂汗を浮べて、眞つ蒼な顏をしてをります。が、酒好きの佐太郎は、それには構はず、三本目の徳利を一人であけて、四本目が欲しさうな顏をしてをります。
その間にも萬兵衞は胸をかきむしつて苦しみ藻掻き、欄干に這ひ寄ると、大川尻の水の上へ、したゝか吐きました。ところが、ひどく元氣だつた相手の棟梁佐太郎も、その頃から苦しみ始め、これも七轉八倒の末、同じやうに吐いて、半刻ばかりのうちに、棟梁の佐太郎一人だけが死んでしまつたのです。
不思議なことに早く苦しみ出した主人の萬兵衞は、散々吐いた後は落着いた樣子で、佐太郎が息を引き取つた頃は、起き上がつてその容體などを訊ねるくらゐに元氣づいてをりました。
萬兵衞の養子の幸吉は、自分で飛んで行つて、町内の本道石原全龍をつれて來ましたが、その時はもう手遲れで、佐太郎を助ける道はなく、一應萬兵衞の手當をして歸りましたが、
「佐太郎は砒石の中毒だ。石見銀山鼠捕りかなんか、酒へでも入つてゐたのだらう。これは御檢屍を受けなければなるまい」
さういひ遺した不氣味な言葉が、養子の幸吉、番頭の忠助の心持を暗くします。
「全龍先生を追つ驅けるのだ。忠助どん早く、――金で濟むなら――家から繩付を出したくない」
主人の萬兵衞は、苦しさを忘れて起き上がりました。