Chapter 1 of 5

「八、丁度宜いところだ。實は今お前を呼びにやらうかと思つてゐたところよ」

「へエ、何んか御馳走でもありますかえ」

錢形平次は、斯んな調子で八五郎を迎へました。この頃の暑さで、江戸の惡者共も大怠業をきめて居るらしく、珍らしく御用の方も閑だつたのです。

「呆れた野郎だ。御馳走ならお前を呼ぶものか、一人で喰ふよ」

「へエ、御親切なことで」

「今のは小言だよ、――昨日向柳原のお前の叔母さんが來て、お靜を相手に半日口説いて行つたよ」

「有難いことで」

「たまには年寄の言ふことも聽くものだよ。叔母さんは苦勞人だ、なか/\面白いことを言つたぜ」

「へエ?」

「甥の八五郎も三十に近いから、一日も早く嫁を持たせて、冥途の姉にも安心させ度いと思ふが、あの樣子では嫁に來てくれ手もあるまい。何とか世間並のたしなみだけでも身につけるやうに、折々は叱つてやつて下さいと――ね」

「へエ」

「聞けばお前は、晝の着物のまゝで、床にもぐり込んだり、褌で顏を拭いたりする相ぢやないか」

「叔母さんはそんな事を言ひましたか」

「あんな躾はした覺えはないが、色氣がないにしても困つたものだ――と大こぼしよ」

「色氣の方は滿々としてゐるんだが」

「尚ほ惡いやな」

平次は叔母に頼まれただけの小言を一と通り取り次ぎましたが、これが誠に儀禮的で、言ふ方も言はれる方も一向身につきません。

「その躾で思ひ出したわけぢやありませんがね、矢の倉の御鞍打師辻萬兵衞といふのを親分は知つてゐるでせう」

ガラツ八は妙なことを言ひ出しました。

「知つてるとも、公儀御用の御鞍打師だ。鞍打師は外にもあるが、人間が一國で几帳面で、義理堅くて口やかましくて、早い話が、うるさい方では江戸一番と言はれた男だ」

「そのうるさい男が、金が溜つて商賣が繁昌して、娘が綺麗で申分のない暮しをして居るのに、毒を呑んで自害したとしたらどんなもので?」

八五郎はこんな人じらしな事を言つて、長んがい顎を撫で廻すのです。

「貧乏人が死に急ぎするとは限るまいよ。金持だつて死に度くなる事があるだらうぢやないか」

「あつしが一向死に度くならないところを見ると、それも一と理窟ですがね。――鞍師辻萬兵衞が裝束も改めず、書置も殘さず、あの躾の良いのが怪し氣な寢卷を着て、湯呑で毒を呑んで死ぬなんざ變ぢやありませんか、親分」

「さう言はれると、行つて見なきやなるまいかな、八」

「矢の倉は錢形の親分の繩張り内ですよ、辻萬兵衞の死んだのが殺しだつた日にや困つたことになりますよ、親分」

「脅かすなよ」

そんな事を言ひ乍らも、事件の妙な匂ひを感じたものか、平次は出かける支度をしました。

矢の倉の辻萬兵衞、――公儀御鞍打師で、職人ではあるが、それは大した見識でした。わけても主人の萬兵衞は、一と理窟ある男で、町内の口きゝであるばかりでなく、わけても奉公人――即ち徒弟の養成に妙を得た男で、此處で三年なり五年なり辛棒した人間は、廣い江戸中何處へ行つても、先づ食ひはぐれはないと言はれるほど、良い訓練を身につけて居たのです。

その辻萬兵衞が、寢卷を着たまゝで毒死するといふことは、八五郎の頭で考へても、これは唯事ではありません。

Chapter 1 of 5