Chapter 1 of 7

「へツへツ、へツ、へツ、近頃は暇で/\困りやしませんか、親分」

「馬鹿だなア、人の面を見て、いきなりタガが外れたやうに笑ひ出しやがつて」

江戸の名物男――捕物の名人錢形平次と、その子分の八五郎は、どんな緊張した場面にも、こんな調子で話を運んで行くのでした。

「でも、錢形の親分ともあらう者が、日向にとぐろを卷いて、煙草の煙を輪に吹く藝當に浮身をやつすなんざ天下泰平ぢやありませんか。まるで江戸中の惡者が種切れになつたやうなもので、へツ、へツ」

「粉煙草が一とつまみしか殘つてゐないのだよ。藝當でもやらなきや、煙が身につかねえ」

「煙草の煙を噛みしめるのは新手ですね。尤もあつしなんかは、猫が水を呑む時のやうに、酒を甞めて呑むてを考げえた。一合あると請合ひ一刻は樂しめますぜ」

親分も貧乏なら、子分も貧乏でした。八丁堀の旦那方を始め、江戸の岡つ引の大部分が、付け屆けと役得で、要領よく贅澤に暮してゐる中に、平次と八五郎は江戸中の惡者を顫へ上がらせながらも、相變らず潔癖で呑氣で、その日/\を洒落のめしながら暮してゐるのです。

「呆れた野郎だ、そんなことをしたら呑む下から醒めるだらう。それより鼻の穴から呑んで見ねえ、飛んだ利きが良いぜ」

「ところで、そんなに暇なら、少し遠出をして見ちやどうです」

八五郎は話題を變へました。相變らず事件の匂いを嗅ぎ出して、平次を誘ひに來た樣子です。

「どこだえ。正燈寺の紅葉には遲いし、觀音樣の歳の市には早いが――」

「いやに鬼門の方ばかり氣にしますね――、實は四谷伊賀町に不思議な殺しがあつたさうで、辨慶の小助親分が、錢形の親分を連れて來るやうにと、使ひの者をよこしましたよ」

「四谷伊賀町なら裏鬼門だ。が、赤い襠とは縁がないな」

「その代り殺されたのは、山の手一番の色娘に、もとを洗へば品川で勤めをしてゐたといふ、凄い年増ですよ。曲者は綺麗なところを二人、蟲のやうに殺して、かうスーツと消えた――」

八五郎の話には身振りが入ります。

「お前に言はせると、殺された女は皆んな綺麗で、無事に生きてゐる女は皆んなお多福だ、――先ア歩きながら話を聽かうよ」

明神下から九段を登つて、四谷伊賀町へはかなりの道のりですが、初冬の陽ざしが穩かで、急ぎ足になると少し汗ばんで來るのも惡い心持ではありません。

「ね、親分、もとはと言へば遠眼鏡が惡かつたんですよ。あんな物がなきや、二人の女が殺されずに濟んだ筈です」

「へエ――、遠眼鏡ね。そいつは年代記ものだぜ。遠眼鏡の人殺しなんてえのは」

「眼鏡で叩き合ひをやつたわけぢやありませんよ。かういふわけで――」

「――」

「四谷伊賀町に、三千石の大身で伊賀井大三郎樣といふ旗本がありますがね、無役で裕福で、若くて好い男で、奧方が見つともなくて、道樂強いと來てるからたまりませんや」

「まるでお前とあべこべだ」

「その殿樣が近頃和蘭舶來の素晴らしい遠眼鏡を手に入れ、二階の縁側から、あちらこちらと眺めるのを樂しみにしてゐた――といふのがことの起りで」

「――」

平次も默つてしまひました。話がどうやら重大らしくなつて行くのです。

「その遠眼鏡の中へ、いきなり滅法綺麗な娘の姿が映つてとけるやうにニツコリしたとしたら、どんなもんです、親分」

「俺はそんな覺えはないよ」

「殿樣はブルツと身ぶるひして、その晩から寢込んでしまつた」

「風邪を引いたのか」

「この道ばかりは錢形の親分でも見立てがつかねえ、――手つ取り早く言へば、戀の病ですよ。三千石の殿樣が、町内の小間物屋の娘お君坊に惚れてしまつたんだから厄介だ」

「大層古風なんだね」

「お君は山の手一番と言はれた好い娘ですよ。年は十九で色白で愛嬌があつて、色つぽくて、粉細工のやうに綺麗だ――裏へ出て洗濯か何かして、腰を伸ばして家の中の妹と話をして、思はずニツコリしたところを、二三十間先から遠眼鏡で見た殿樣は、自分へ見せた笑顏だと思ひ込んでしまつた、――恐ろしい早合點ですね」

「――」

「それから夢中になつて、朝から晩まで二階に登つて、遠眼鏡と首つ引だ。奧方の彌生樣はあばたで大嫉妬と來てるからたまらない。早くも殿樣の素振りに氣が付いて、目當てが町内の小間物屋の若くて綺麗な評判娘とわかると、殿樣の胸倉を掴んで、遠眼鏡をねぢり合ふ騷ぎだ」

「早く筋だけ話せよ。お前の話には、相變らず無駄が多くてかなはない」

「筋だけ運んぢや木戸錢になりませんよ。四谷は遠い、ゆつくり聽いて下さいよ」

「講釋の氣でゐやがる」

「殿樣は人橋を架けて清水屋に掛け合ひ、娘お君を奉公に出せといふ無理難題だ。奉公といふのは、申す迄もなく手掛け奉公だが、清水屋には行く/\はお君と一緒にするつもりで、親類から貰つた市太郎といふ養子がゐる」

「面倒だな」

「その人橋の中には、伊賀井家へ出入りしてゐる植木屋辰五郎の女房で、お瀧といふ凄いのがゐる。こいつはもと品川で勤めをしてゐた三十女で、以前は武家の出だといふが、自墮落の身を持崩して、女の操なんてものを、しやもじの垢ほどにも思つちやゐない。伊賀井の殿樣に惡智慧をつけて、八方から清水屋の父娘を責めさいなんだ。金づく、義理づく、それでもいけないとなると、今度は腕づくで脅かした」

三千石の裕福な殿樣が、吹けば飛ぶやうな裏町の小間物屋に加へた壓迫の手は、殘酷で執拗で惡辣を極めたのでした。

品川の女郎上がりのお瀧――恥も外聞もとうの昔に摺りきらしてしまつた凄い年増が軍師で、十九娘のお君が、好色の旗本の人身御供に上るまでの經繹は、平次にはよくわかるやうな氣がするのです。

ガラツ八の話はまだ續きます。

「――一方では伊賀井の殿樣の奧方――彌生の方は、御主人の氣違ひ沙汰に取逆上て、これは本當に氣が變になり、一と間に押し込められて、體のいゝ座敷牢暮しをするやうになつた。それをまたいゝことにして、いよ/\清水屋を説き落し、大枚三百兩の支度金まで投げ出して、いよ/\明日の晩は、お君を伊賀井家に乘込ませると決つた――昨夜になつて、肝心のお君は自分の家の裏口で、植木屋の女房のお瀧は、お湯の歸りをそこから一丁とも離れてゐない御假屋横町の入口で、背中から一と突きにやられて死んでゐるぢやありませんか。お瀧なんぞいゝ氣味だが――」

「何んと言ふ口をきくのだ」

「へエ、相濟みません。お瀧はどうせ百まで生きてゐたつて、人樣のためになる人間ぢやないが、清水屋の娘のお君が可哀想でなりません。それを狙つて爪を磨いだ旗本の殿樣なんか穀つぶし見たいなものだが――」

「少しはたしなめよ八、人に聽かれたらうるさいことになるぞ」

「相濟みません。が、あつしは本當のことを言つてゐるんだ――山の手一番と言はれた娘を、十九で殺しちやもつたいなさ過ぎます。ね、親分。十手冥利にこいつは是が非でも下手人をあげて、思ひ知らさなきや蟲が納まりませんよ」

八五郎の拳骨は、冬の陽を受けて宙に躍るのです。

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