Chapter 1 of 9

心中でもしようといふ者にとつて、その晩はまことに申分のない美しい夜でした。

青葉の風が衣袂に薫じて、十三夜の月も泣いてゐるやうな大川端、道がこのまゝあの世とやらに通じてゐるものなら、思ひ合つた二人は、何んのためらひもなく、水の中へでも火の中へでも飛び込み度くなることでせう。

神田鍋町の雜穀問屋、三芳屋彦兵衞の甥の音次郎と、同じ店に奉公人のやうに働いて居る、遠縁の娘お京は、晝の内に打合せて置いた通り、その晩の亥刻半(十一時)に、元柳橋の橋の袂で落ち合ひました。

死ぬ約束で同じ店に居る二人が、手に手を取つて脱け出して來るのは容易でなく、萬一人に見とがめられて、引戻されでもすると恥の上塗りですから、音次郎は本所から深川へかけて、お得意先を廻るといふのが口實。最後に相生町の叔母さんの家で宵を過して、元柳橋へ駈けつけた時は、もう相手のお京が、橋の袂の柳にもたれて、苛々しながら待つて居るのでした。

朧月に透して見るまでもなく、磁石と鐵片のやうに、兩方から駈け寄つた二人が、往來の人足の疎らなのを幸ひ、犇と抱き合つた時、

「まア、よかつた」

お互にさう言つたのも無理のないことです。

「誰にも見付かりはしなかつたかえ」

音次郎は少し離れて、月の光に惚々とお京の顏を透しながら訊くと、

「え、皆んなはもう私が寢たことと思つてゐるでせう。いつものやうにお仕舞をして、叔父樣の肩を揉んで、戸締りを見廻つて、自分のお部屋へ入つて――、それからそつと脱け出して來たんですもの」

この期に臨んでもさすがに若い娘は行屆きます。

「大層綺麗だよ、今夜は」

そんな中でも嗜みの化粧をして、晴れ着の銘仙の袷、死出の旅は、嫁入りするやうな晴れがましさでせう。

「でも」

お京は身を揉んで、極り惡さうに、男の懷中に顏を埋めます。夜風の匂ふのは、娘の體温に薫蒸された、掛香らしい匂ひ。

「私は本所のお得意先から預かつて來たお金が三十兩、これをお店へ屆けずに死んでは氣になるけれど――」

音次郎は内懷中深く忍ばせた財布の中の、三十兩の小判に氣が遺る樣子でしたが、今更それはどうすることも出來ません。

やがて二人は、元柳橋の橋の下に繋がれた小舟を一隻、纜を解いて川の中流に漕ぎ出しました。音次郎は少しばかり櫓がいけるのと、岸から川へ飛び込んで、うつかり人に騷がれでもしては、とんだ恥を曝すことになるので、大川の中流を二人の死場所と定めたのです。

「お京さん、淋しくはないかえ」

櫓の手を止めた音次郎は、滅入るやうな淋しさと、燒きつくやうな焦燥と、全く違つた二つの感情にさいなまれて、舟縁に危ふく縋りついてゐる、お京の側へ膝を突きました。

夜の上げ潮が靜かに兩國橋の方へ、二人を乘せたまゝの小舟を流して行きますが、たま/\山谷堀へ通ふ猪牙舟が、心も空の嫖客を乘せて、矢のやうに漕ぎ拔ける外には、二人の注意を捕へるものもありません。

「いえ、――私は嬉しいの、音次郎さん」

膝行り寄つたお京は、赤ん坊のやうな素直な心持で、音次郎の首つ玉に、犇々とすがりつくのです。どつと留めどのない涙が、死に化粧の白粉を流して、男の襟へ首筋へと注ぎます。

「死ぬ前に、もう一度顏が見たいな、お京さん」

「でも」

「こゝに幸ひ、本所の叔母さんのところから借りて來た提灯がある。お互の顏の見納めに灯を入れて見ようぢやないか」

さう言ひながら音次郎は、懷中提灯を取出すと、火打鎌を器用に鳴らして、二人の袖を風除けに、どうやら灯を入れました。

「音さん」

「お京さん」

提灯を舟縁に掛けて、手を取り合つた二人の顏を、灯は下からほの/″\と照し出します。

面長で色白で、久松型の弱々しさはありますが、音次郎の男振りは全く大したものでした。それに比べるとお京の方は、美人といふほどのきりやうではなく、眼鼻立ちの素直なだけ、さして取柄はありませんが、娘盛りの脂が乘きつてゐるのと、性格の純良さが沁み出して、いかにも可愛らしい娘です。

歳は二十五と十九、どちらも厄で、『死』へのひたむきな道行を選んだのは、三芳屋の主人彦兵衞が、一人娘お萩の聟に、甥の音次郎を選んだために、音次郎と一昨年の秋ごろから戀仲になつて居たお京が、ひたむきな熱情で此處まで引摺つて來たやうなものでした。

それは兎も角、時を過して居るうちに、川の中の二人の姿は、次第に人目について來る樣子です。小舟が兩國橋に近づくと、橋の上の夜の人通りもあり、それに吉原へ急ぐお店者などが、猪牙を急がせて、引つきりなしに水の上を通るのです。

「それぢや、お京さん」

「音さん、私は、私は」

聲は嗚咽に途ぎれて、二つの若い肉體は、避け難い死への本能的な反抗に絡みつくのです。

「人に見られると面倒だ。宜いかえ、お京さん」

「音さん」

「南無」

お二人の身體はもつれ合つたまゝ、夜の眞黒な水の中へ、音も立てずに陷ち込んでしまひました。

その反動でユラリとなつた小舟の中には、舷にかけた提灯が一つ、淋しく瞬いて、空つぽになつた船の中を照して居ります。

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