Chapter 1 of 7

八五郎は獨りで、向島へ行つた歸り、まだ陽は高いし、秋日和は快適だし、赤トンボに誘はれるやうな心持で、フラフラと橋場の渡し舟に乘つて居りました。

懷中はあまり豐かでないが、新鳥越の知合を訪ねて、觀音樣へお詣りして、雷門前で輕く一杯呑んで、おこしか何んか、安くて嵩張るお土産を買つて、明神下の錢形の親分のところへ辿り着くと、丁度晩飯時になる――と言つた、まことに都合の良いスケジユールを組んで、舌なめずりをしながら、向う岸の橋場に着くと、船頭の粗相か、客が降り急いで、船を傾けたせゐか、乘合船は思ひも寄らぬ勢ひで、岸から張り出した足場へ、ドシンと突き當つたのです。

「あつ」

八分通り船を埋めて出た乘合は、先を急ぐともなく總立ちになつたところ、見事な煽りを喰つて、どつと雪崩れました。危ふく將棋倒しになるのは免れました。が、

「あれツ」

端つこに立つて居た八五郎は、側に居た若い女に獅噛みつかれて、一とたまりもなく船の外へ、横つ倒しに飛び出してしまつたのです。

「あ、ぷ、ぷ」

八五郎は少しばかり水を呑んだかも知れません。が、胃の腑が丈夫な上、その頃の隅田川は、底の小石が讀めるほど水が綺麗だつたので、大した神經を病む必要もなかつたのです。

川はもう淺くなつて居て、立てば精々膝つきり、命に別條のある筈もなかつたのですが、何分にも双手を懷中に突つ込んで、だらしのない彌造を二つ拵へて居たので、水中の働き思ふに任せず、船頭に襟髮を取つて引揚げられた時は、實に思ひおくところなくヅブ濡れになつて居りました。

「濟みません、親分。飛んだ粗相で」

相手が惡いと思つたか、船頭は鉢卷を取つて挨拶しました。

『――うぬがどぢのせゐぢやないか』と腹の中では思つたにしても、稼業柄ポンポン言ふことも出來なかつたのです。

「なアに、此方もうつかりして居たんだ。心配することはないよ」

八五郎は人の好い事を言ひながら、袖やら裾やらを絞つて居ります。

明る過ぎるほどの晝過ぎの陽を受けて、それは實に慘憺たる姿でした。困つたことに、人の氣も知らない彌次馬が、近くから遠くから、ヌケヌケとした顏で、或は素知らぬ顏で、燃え付くやうな好奇の眼を光らせて、雷鳴が鳴つても動きさうもありません。

「親分、飛んだことをしてしまひました。私はまア、何うしませう」

八五郎の濡れた鼻は、何やら床しい匂ひにときめきました。顏を擧げると直ぐ前に、やるせない小腰を曲めて、消えも入り度い風情に、丸い肩を揉んでゐるのは、二十二三の美しい年増――それは紛れもなく、ツイ今しがた渡船の中で、八五郎に突き當つた、當の相手だつたのです。

「なアに、大したことはありませんよ。逆上が下がつて、宜い心持で、――ハアクシヨン」

などと、八五郎は他愛もありません。

それほど相手は美い女であり、素直な痛々しい態度でもありました。

ほの温かくて、秋の空氣の中に、溶け入るやうな白い頬の魅惑、おど/\した大きい眼、丸ぽちやで、笑くぼが淀んで、阿里道子のえり子のやうな無邪氣な口調など、フエミニストの八五郎を、有頂天にさせるには充分でした。

「でも、それではお歸りになれません。私の家はツイ其處ですから、汚いところですけれども、一寸お立寄り下さいませんか」

女は惱ましさうでした。どんな理由があるにしても、男を誘ふ後ろめたさに、すつかりおど/\して、顏を擧げる氣力もないほど、打ちひしがれて居るのです。

「さうさせて貰ひませうか、ぢつとして居ると、風邪を引きさうで――」

八五郎は足踏をして見せました。

「用心なさいよ、親分。そいつは飛んだ命取りだ」

船頭は何方にも取れるやうなことを言つて、あらかた客で一杯になつた、歸り船の棹を突つ張ります。

Chapter 1 of 7