一
谷中三崎町に、小大名の下屋敷ほどの構へで、界隈を睥睨してゐる有徳の町人丁子屋善兵衞。日本橋の目貫にあつた、數代傳はる唐物屋の店を賣つて、その金を高利に廻し、贅澤と風流と、女道樂に浮身をやつし、通と洒落と意氣事に、夜を以て日に繼ぐ結構な身分でした。
その丁子屋善兵衞が、下總のさる小藩の御用金を引受け、財政の窮乏を救ふ一助ともなつたといふ理由で、江戸御留守居の相談役を仰せ付けられ、苗字帶刀を許されて、綿鍋善兵衞と名乘ることになり、そのお祝はまた、一家一族は言ふまでもなく、谷中三崎町一圓の潤ひになつたと言はれました。
丁度九月九日重陽の節句の日、善兵衞は御禮言上のため龍の口の上屋敷に參上、留守宅では、殿樣から拜領の菊の御紋のお菓子折を開いて、内儀のお絹中心に、丁子屋の奉公人――手代から下女下男に至るまで、主人善兵衞の福徳を祝ふことになつたのです。
奧の一と間、妾のお小夜の部屋に集まつたのは内儀のお絹と、養ひ娘のお冬の三人。病身の内儀お絹は、萬事控へ目な差圖役に廻つて、家の中の取締りから、仕事萬端は、才智にたけて、實行力のある妾のお小夜が引受け、養女のお冬は、お人形のやうに虔ましく、その饗應を受けさへすればよかつたのです。
「では頂きませうか」
妾のお小夜は、萬事を取り仕きつて、六疊の部屋に、お茶の用意を整へました。青疊に煎茶の道具、廣々とした庭の籬に、紅紫白黄亂れ咲く菊を眺めて、いかにも心憎き處置振り、金と時間とに飽かした、豐かさが隅々までも行き屆きます。
本妻のお絹は三十五、昔は美しくも健康でもあつたでせうが、この三年ばかりは持病の癪の發作がひどく、その上強度のヒステリーで、蒼白く痩せ細つた顏も、針金のやうな手足にも、最早何んの魅力もなく、家の中の實權は、若くて綺麗で才氣走つて、その上押しの強い妾のお小夜に移つて行くのをどうすることも出來なかつたのです。
妾のお小夜は、曾て谷中のいろは茶屋に姿を見せたこともあり、その素姓は甚だ怪しいのですが、山下の小料理屋の女中をして居るうち、その拔群のきりやうを、丁子屋善兵衞に見出され、そのまゝ引つこ拔いて、三崎町の御殿――と土地の人は、憤怒と侮蔑とをなひ交ぜた心持で呼んで居りました、その豪勢な家に引取られ、内儀のお絹の思惑などはてんから無視して、第二妻の權位に据ゑられたのです。
年は二十三と言ひました。脂の乘りきつた非凡の美色で、取廻しの色つぽさと、物言ひの艶めかしさは、まことに天稟と言つてよく、丁子屋善兵衞の鍾愛も思ひやられました。
が、本妻のお絹は、丁子屋の家付きで、病身で意氣地がないやうでも、いざとなると主人の善兵衞にも頭の上がらないところがあり、我儘一杯に振る舞ひながら、お小夜にもこのヒステリーの大年増が、眼の上の瘤だつたことは言ふ迄もありません。
養ひ娘のお冬は、十八になつたばかりの、ポチヤポチヤした可愛らしい娘でした。大して美しいといふ程ではないにしても、その新鮮さは、枝からもぎ立ての桃のやうで、誰の眼にも好感が持てます。行く/\は手代の清八と娶合せて、丁子屋の跡取りにもといふ話もありましたが、近頃ハタとその沙汰の止んだのは、清八が女狂ひをするので、この娘に嫌はれたのだと言つたやうな、穿つた噂が飛んで居ります。
それは兎も角、妾お小夜の手で、お茶とお菓子は配られました。お茶はその頃の世界ではこの上もない贅と思はれて居る宇治の玉露、お菓子は殿樣から拜領したといふ、菊形の入の打物、白紙を敷いた腰高の菓子器の上に物々しくも供へてあるのです。
「あの御新造樣、旦那樣からお使ひが――」
取次いだのは下女のお若でした。美人と御馳走が何より好物の主人善兵衞は、一季半季の奉公人の選擇にまで審美眼を働かせて、これも、なか/\のきりやうでした。
「あいよ、――いづれ、今晩はお歸りが遲いといふお使ひだらう」
お小夜は面倒臭さうに立ち上がりました。
「頂きませうか知ら――」
若いお冬は、見事なお菓子に食慾をそゝられた樣子で、甘えた調子で、義理の母――お絹の顏を見ました。
「いえ、あの人を待たなきや惡い――」
本妻のお絹には、お小夜に對する遠慮があるのでせう。
「何をしてゐらつしやるんでせう。隨分、ゆつくりね」
お冬の言葉は、甘えた調子から、ほのかな非難の調子になりました。
「――少し寒くなつたやうね――陽がかげつたせゐか知ら」
お絹は痩せた肩を、寒々と縮めます。病身の中年女には、秋の夕暮の風がこたへるのでせう。
「袢纒を取つて參りませう」
「あ、では、あの薄い方を――氣の毒ね、御馳走をお預けのまゝ」
「あら」
お冬は自分の喰ひ辛棒を冷かされたやうな氣がして、フト顏を赤らめながら立ち上がつて、いそ/\と一つ置いて隣りの母親の部屋へ行きました。
その後ろ姿が隱れた頃。
「あ、さう/\」
内儀のお絹は、お勝手に大事な紙入を置いて來たことを思ひ出して、少しあわて氣味に立ち上がりました。紙入の中には小判が三枚と、質の良い珊瑚の六分玉が入つて居る筈だつたのです。