Chapter 1 of 5

「珍らしい事があるものだネ、東京の佐良井から手紙が来たよ」

「幽香子さんからですか」

「イヤ、あの厭な亭主野郎からだ」

「まあ」

愛子は、その可愛らしい眼を一杯にあけて、非難するような、だけど、少し道化たような表情を私に見せるのでした。

長い長い演奏旅行を了えて、私と、私の許婚の愛子は、ピアノを叩き過ぎて尖った神経とあわただしい旅に疲れた身体とを、暫らくこの淡路島の知辺に静養して居たときの事です。

模造紙の白い大きい封筒を破ると、その中からは、事務的な達筆で書いた手紙と、四つ折にした楽譜が二三枚出て来ました。

「オヤ、変なものを送って来たよ」

「何んの楽譜でしょう?」

「ピアノには相違ないが、可笑しいネ。一枚、一枚、皆んな違って居るようだが――これはベートーベェンのソナタ・アルバムから滅茶滅茶に引き千切った譜らしいよ」

「マア、何うなすったのでしょう」

愛子は、私の籐椅子の側へ、その驚き易い顔を寄せました。順序も何も構わずに、アルバムの中から引きむしられた楽譜は、どんなに無意味なものかという事は、ピアニストを許婚に持つ愛子には、解り過ぎるほど解って居たのです。

この怪奇な物語の筋を進める前に、私は引きむしられた楽譜を送って来た幽香子の事をお話して置かなければなりません。

幽香子、幽香子、何んという美しい淋しい名でしょう。これは私の義理の妹で、今は実業家佐良井金三の夫人になって居る、この世の中で、一番不幸な女です。何うして不幸せかというと、それは、幽香子の身に付いた、巨万の財産があったからで、そんなものがあるばかりに、実業家と称する佐良井金三の、何度目かの妻になる運命を背負わされてしまったのです。

幽香子は、相当に美しくもあり、私の妹分で一緒に育った関係から、ピアノもかなり上手に弾きましたが、内気で陰鬱で引っこみ思案で、実業家の夫人という肌合の女ではありませんでした。それがどうして、名題の悪で通って居る佐良井などと結婚したかというと、それにはいろいろ事情もあったのですが、兎に角、男前も口前も十人並以上で、その上三人分も智慧のある佐良井が、世間見ずの娘を口説き落すのは、朝飯前の仕事でしか無かったと言えば充分だろうと思います。

一旦の過ちから、こんな男に嫁いだ幽香子の不幸は申すまでもありません。いくらか芸術的な天分も持った憂鬱な幽香子と、金儲のためには、どんな事でもして退けようという肌合の佐良井とは、結婚後一ヶ月経たない内に、到底並び立ちそうもないことが判ってしまいました。

けれども、佐良井に取って、それは飼犬の毛並が少し気に入らない程の事件でもなかったのです。幽香子の持って居る巨万の富さえ自由になれば、幽香子は毎日メソメソ泣いて居ようと自分の室でピアノばかり叩いて居ようと、そんな事は一向関係した事では無かったのです。

「幽香子も可哀想だ」

「本当にお可哀想ですね」

私と愛子は、終始噂をして居りましたが、佐良井が厳重に監視して居るために、呼び戻すことも、離婚させることも出来ない有様になって居たのです。

幽香子の手紙、泣言たらたらな手紙は、一週間一本ずつは受取りましたが、佐良井の手紙というものは、活版刷の年始状と、暑さ寒さの見舞状以外に、私が受取ったのは後にも先にもこれが初めてです。

読んで見ると、暑さ見舞と無沙汰の詫が二行、その後へ(家内がこの楽譜を兄上のところへ送ってくれというから、お送り申し上げる。いつぞや拝借したのを、うっかり忘れて返さずに居たのだそうだ。どうぞ悪しからず、実は家内からお送りする筈だったそうだが、二三日前から病気で臥って居るので、私が代ってお詫を申上げる。女はどうも口やかましくて叶わない、ことに病気にでもなると、思い立ったらどうしても実行させずには措かない、困ったものだ。病気は多分時候あたりだろうと思うが、大した事ではない――云々)こんな事が、佐良井にしては珍らしく長々と書いてありました。

「妹へ楽譜などを貸した覚えは無いがね」

「お忘れになって在らっしゃるのかもわかりませんワ」

「物忘れは私のことだから保証の限りでないが、それにしても、ソナタ・アルバムから引き千切った譜を、たった二三枚封入するのは可怪しい――」

どうかしたら幽香子は、結婚生活を不愉快に思うのが嵩じて、気が変になったのでは無いかとも思いましたが、それならば鵜の目鷹の目で女房のアラを探して居る、夫の佐良井が黙って居る筈もありません。

「オヤ、待ってくれ、これは変だ――よ」

何んの気もなく楽譜を弄んで居ると、曲は一向珍らしくも何んともないものですが、所々に、赤鉛筆で印が付けてあるのが目につきます。

楽譜の心覚えや演奏上の注意やを書き入れるのは、誰でもやることですが、この赤鉛筆の印しはそんな種類のものではありません。

或特定の音符や記号などに、注意の為に鉤を描いたもので、表情記号などは、一綴りの文字の内から、一つの文字を選んで外のとまぎれないように、その傍へクッキリ赤い印が付いて居るのです。

「愛子さん、これは、何んか仔細があるらしいよ、私は読んで見るから、一寸そこへ書いてくれないか」

愛子は万年筆を取って、けげんな顔に私を見上げました。

「いいか、最初は、音名のBだ、日本のロだネ。

次は日本名のホ、即ちEだ。――

それから、アレグロのL。

最後はペダルのP。

これで何んとか読めないか」

「BELP…………」

「BELPはおかしいな、そんな字は無い、して見るとなんか偶然に付けた印かも知れないね」

私はそう申しました。どっか腑に落ちない所もありますが、その上考えて見ようという根気も無かったので、そのままに投ってしまいました。

暗号では無いか?

という考えが、フト閃めきましたが、私の頭は楽譜を読むようにはよく慣らされて居りますが、どうも暗号を読むには適しません。そんな小面倒な事は、考えただけでも、頭痛がして来そうになるのです。

私は新聞二三種へ目を通して、葉巻を一本つけ換えて、淡路島名物の涼風に吹かれ乍ら、いい心持でウトウトして居ると、いきなり、

「BELP――外に何んとか読みようは無いものでしょうか」

愛子はまだそう言って居ります。

「例えば――」

「ビーという音名を、独逸風にハアと読むと言った様に。――」

「何? ハアと読む、ではBELPではなくて、HELPではないか。HELP、ヘルプ、助け。――アッこれは大変だ、助けてくれという意味かも知れないよ、どれ一寸見せてくれ、次の頁にはもう赤い記号は無いか」

私は忙しく愛子の手から楽譜を取り上げました。

次の頁を開くと、そこには、三つだけ赤い鉛筆の印が付いて居ります。それを拾って読むと、エスプレシイヴォのS。

ポコのO。

スケルツォのS。

「SOS、そんな字はあるかい、愛子さん、字引を持って来てくれ」

「アラ、それは難破船の救助符号じゃありませんか」

「あツ、そうだ」

私は思わず椅子から飛上りました。

「東京へ行くんだ、直ぐ。何んか大変な事があったに相違ない、自分で手紙を書けないので、こんな暗号を工夫して送ったんだ、――あの亭主の佐良井は、オタマジャクシを読めないから、何んにも知らずに、唯の楽譜だと思って送ったんだろう」

「どうしましょう」

「直ぐ東京へ行くんだ。一時間も、一分間も早く、幽香子は無事で居てくれればいいが。――」

足下から鳥が立つとはこの事でしょう。私と愛子は、その日の内に淡路島を出発し、不安と焦燥にさいなまれ乍ら、船から汽車へのあわただしい旅に上りました。私が幽香子を愛して居るように、愛子も亦心からこの内気で物優しい姉を慕って居たのです。

HELP、SOS、私の頭の中には、この七つのローマ字とオタマジャクシが、妖精のように入り乱れて踊り狂いました。

「幽香子、幽香子、無事であってくれ」

二人は異常な圧迫感に、食事も摂らず、眠りもせず、際限もなく生欠伸をしました。淡路から東京へ私は一年に三四度ずつは往復しますが、後にも前にもこんなに遠いと思った事がありません。

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