Back
元禄十三年
Table of Contents
元禄十三年
林不忘
Reading Settings
Font size
18px
Theme
Light
Dark
Sepia
Eye care
Line spacing
Reading mode
Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 3 of 5

3

「御苦労。いや、それでよくわかった。大儀、大儀――それではな、さっそく手配して、庭から屋内から、すっかり修理するようにいたせ。」

「しかし、」久野が不審気に、「そういう必要がないと吉良様が――。」

「よい。黙って聞け。壁は、なかなか乾かぬから、至急に塗りかえさせろ。」

「ですが、吉良さまがおっしゃるには――。」

「障子の貼りかえ、畳がえ、廊下、厠の掃除、万事念入りに、な。」

久野と十寸見が、不思議そうに、無言の顔を見合わせていると、美濃守が、神経をぴりりとさせて、

「早くせぬか。吉良は吉良、おれにはおれのやり方がある。」

そんなら訊かせになどやらなければいいのに、と、久野と十寸見は、不平だった。

四

広光院の内玄関に、人声が沸いて、吉良の一行が着いた。勅使の宿舎を、下検分に来たのだった。

その天奏の江戸入りの日も、近かった。吉良は、先日岡部から、この宿坊のことを訊きに来たとき、ざっと掃くくらいでよいといってやってあるので、手入れなどは何もできていないであろうから、それを機会に、美濃守をとっちめてやろうと、いくぶん今日をたのしみにしていた。

いうまでもなく、とり換え得るものはすべて新しくして、隅ずみまで細かい注意を払っておくべきなのだった。

今日になって騒いだとて、もうお着の日が迫っている。間に合わぬ――吉良は、完全に美濃守に復讐した気で、久しぶりに晴ればれと、広光院の門を潜った。

が、まず庭に、見事に手が届いているのが、吉良の腑に落ちなかった。そして玄関をはいると、新壁と、あたらしい畳のにおいが、鼻をついた。

「すっかりやってあるわい。」つぶやいた吉良は、裏切られたような別の怒りが、こみ上げてきた。「何からなにまで、法どおりに準備えおったらしいぞ。」

奥から、美濃守の大声が聞こえてきていたが、取次ぎが、吉良の来たことを知らせても、出てくる気配はなかった。

久野と十寸見に案内させて、各部屋を見て廻りながら、吉良は、歯を食いしばっていた。

「これでよい。何も申すことはござらぬ。美濃守は、手前以上に御存じでいらっしゃるから――。」

と、ふと、座敷の隅を見て、

「あそこには屏風が一双ほしいところじゃが――。」

閉めきった隣りの室から、声が聞こえてきた。

「兄上、ここを開けましたる次の部屋に置きます屏風は、狩野法眼永徳あたりが、出ず入らずのところと――。」

そのとおりだった。永徳とは、適ったことをいうやつ――誰だろう、と吉良は、不審に思った。

ぐっとつまって、立ちすくんだように黙っていると、隣室からは、美濃守の声で、

「これ、辰馬の申すように、永徳の屏風をひとつ、つぎの座敷へ入れておくのじゃ。」

係の者が、承知して、頭を下げているようすだった。

五

平茂が、目見得に伴れてきて、ちょっと顔を見た時から、吉良は、気に入ってはいた。

が、何となく、したしみ難いところがあった。といっても、妾奉公を承知で来ている女には違いなかったから、いずれは、先方から、そんな意味でのつとめを申し出るであろう、と、吉良は、そのままにして、迫らないでいるのだった。

夜になって、吉良が寝につく世話をしてしまうと、女は、さっさと自分の部屋へ退って行った。側女として来ているのに、そうすることが当然であるような、女の態度だった。しかし、格別避けているようでもなかった。何でも、はきはき返辞をするし、愛想はいいのだった。

名を訊くと、お糸といった。請人の平茂の話では、親元は、長谷川町のほうで仏具師をしているとのことだった。吉良には、お糸がどんなつもりでいるかわからなかったが、了解しているはずのことをことごとしくいいだすのも業腹だったし、それに、食べようと思えばいつでも食べられるものを、眼のまえに見ながら、いつでも食べられるだけに、そして好きなものだけに、いつまでも食べないでいるのも、老人らしい吉良の趣味に合わないでもなかった。

「変った女だ――。」

こっちからは手出しをすまい。どういう気か、黙って見ていてやろうと吉良は思った。

で、吉良の床をとって帰って行くお糸を、一度も引きとめはしなかった。朝、洗面の手つだいに顔を出すまで、呼びもしなかった。名ばかりの妾のまま、日が経って行っていた。

馬鹿にされているような気がしないでもなかった。

吉良のこころに、女性とのあいだにそういう話をすすめるという、忘れていた、若わかしい興味も起こって、

「は、ははは、一つ、今夜あたり口説いてみるかな――。」

口のなかでつぶやいて、苦笑している時だった。

明るい色が、控えの間のさかいに動いて、そこに何の屈託もなさそうなお糸の顔があった。

通りすぎるほど通っている鼻すじだった。それが、すこし険のある表情にしているのかもしれなかった。

敷居に、三つ指をついていた。

重い髪を、ゆらりと上げかけて、

「あの、立花様から、お使者の方がお見えになりましてございます。夜中ながら、お役柄の儀につきまして、ちょっとお上に伺いたいことがございますとか――お通し申しましょうか。」

お糸の白い額を見ながら、いったい、取次ぎにこの女を雇ったはずではなかった、と、吉良は思った。

じっとお糸に眼を据えて、無言でうなずいていた。

六

玉虫靱負は、立花出雲守の公用人だった。一間に案内されて、待っていた。

正面のふすまが、左右にひらいて、ふところ手の吉良が、せかせかした足どりではいって来た。

腰元らしい女をひとりしたがえているのを、玉虫は、平伏しながら、上眼づかいに見ていた。

「どうもおそく参上いたしまして――。」

「いや、なに、かまいません。」

吉良が、痩せた膝を座蒲団にならべると、女も、そのうしろに引きそうように、すわった。

用談を持ってきた客には、吉良は、気が短かった。

「お役目のことといえば、御主人出雲殿の饗応お添役についてでしょうが、どういう――。」

すぐ、吉良からきりだした。

用人の左右田孫三郎が、縁の障子の根に、ななめに顔を見せていた。

「申し上げます。ただ今、立花様より、家老へ白銀十枚――。」

「これは、これは。そうたびたび、恐縮ですな。」

吉良は、礼のための礼のように、冷淡をよそおっても、出雲守へ好意を示したいこころが、声に滲んでいた。

「お役上、何か御不審でも――。」

「は。御饗応にさし上げますお料理のことでございます。」

「その料理を――。」

「当日は、清らかなお席、生臭を断って精進精物でございましょうか。」

「いや、精物というは、潔きものという意です。堂上方が、初春慶賀のため御下向なさる。たとえ精進日であっても、江戸お着の当日は必ず御精進はいたされません。魚類は結構、と申すより、魚類でなければなりません。」

「ありがとうございました。じつは、お精進ものであると申すものと、いや、魚類だという者と、二派に別れまして――そのため、たしかなことを承りに上りましたようなわけで。」

吉良は、権威者らしい微笑を漂わせていた。

「精進だなどと、どなたがそんなことをいったかしらんが、断じて精進ではない。今申したように、精進日でも、魚類です。」

吉良の背ろに控えているお糸が、玉虫と同じように、終始緊張して聴いていた。

礼を述べて、起とうとする玉虫へ、吉良が、いった。

「元来このお役は、難しいといえばいうようなものの、先例もあり、いくらお手前でも、万事は上野が引き受けます。お指図をいたしますから、何なりとお訊き下すって、大丈夫安心いたされまするよう。一度ならず丁寧な御挨拶に預かり、かえって痛みいります。出雲殿へ、よろしく、申し伝えられたい。」

お糸は、何か胸中にうなずいている態で、玉虫を送りに、つづいた。

親抱きの松

一

饗応役の打合せに当てられた、城中の仕度部屋だった。

不意の声が、美濃守の首を捻じ向けた。

「岡部殿!」

吉良だった。

美濃守は、無言で、眼で訊いた。

「――――。」

「お手前は、私に何ごともお尋ねないが、元より御本役をお引受けなされたくらい、万事心得ておらるるであろうの。」

うそぶくように、美濃守が、

「ところが、何も知らぬ。われながら、笑止。」

「とすましておられて、それでよいのか。」

「よいも悪いも、知らぬことはどうにもならぬげな。」

憎さげに口びるを噛んで、吉良は、もう、顔いろが変りかけてきた。

「知らぬことは、どうにもならぬ? よく、さような口が――。」

「が、また、そこはよくしたもので、こうしておれば、貴殿のような親切な仁が、何かと教えてくれるであろうから、まあ、どうにかなるでしょう。などと考えて、あえてあわてませぬ。」

「多用です。お手前ごときを弄して、暇を欠かしてはおられん。が、当日さし上げるお料理の儀は、いうまでもなく御存じでありましょう。」

「それも御存じないから、呆れたものですな。」

「美濃殿!」

吉良は、この岡部美濃という人間は、莫迦なのか偉いのか、わからなくなって、焦だった声を出した。

「おふざけ召さるる場合でない。手前の落度になりますから、これだけ申し上げておく――お着の日、御饗餐は、魚類をいといます。精進料理ですぞ。」

美濃守は、弟の辰馬と、このごろまるで筆談のようなことをしているのだった。

今朝も、出がけに辰馬がそっと机上に書いておいた紙片を、美濃守は見ないふりをして、素早く読んできていた。

にっと、笑って、

「いや、吉良殿ともあろう者が、それはとんでもないお間違いです。精物というは、清らかなるものという意、堂上方が、初春の慶賀に御下向なさるに、何で精進料理ということがありましょうや。たとえ精進日であっても、江戸お着の当日は、けっして精進はいたされません。魚類で結構、どころか、魚類でなければならぬ。手前は、誰が何といっても、魚類を進ぜるつもりです。」

吉良は、背骨が棒に化ったように硬直して、唾を呑んでいるだけだった。

手が、自動的に、ひらいたり閉じたりして、袴の膝を握りしめていた。

二

「いえ、けっして、お思召しに添わないなどと、さようなことを申すのではございません。ただ――。」

押さえ来かかった吉良の手だった。それを、あまり強く払ったことに気づいて、お糸は、はっとしていた。

ここで、こんなことで露顕しては――と、お糸の糸重は、無理に艶やかな媚笑を作った。

「そのお約束で、御奉公に上っております糸でございます。何で御意に抗いましょう。殿様さえお心変りなさらなければ、末長く――でも、きっとすぐお飽きになって――。」

いいながら、いくら間者としても、心にもない言を――と思いながらも、糸重は、現在、良人、良人の兄、自分を苦しめている吉良へ、こんなことまで口にして、媚を、と、ぞっとした。

刺し殺したいほど、吉良への憎悪に燃えた。

「ただ、何だ――それなら、なぜ肯かれぬ、と申すのじゃ。」

蒲団にすわった吉良は、みょうに白けた顔で、眼が、異常に光っていた。

はらわれた手のやり場に困って、襟をかき合わせた。

乾いた音だった。

「妾が――意に添うも添わぬもないはず。理由を申してみい。」

いつものように、吉良の就寝を見て、自室へ引きとろうとしていた糸重だった。軽くあらそった衣紋の崩れをなおして、夜着の裾のほうに、遠くすわっていた。

「わけと申して、べつに――。」

吉良は、何気なくよそおっていた。が、老人らしくもなく、手出しして拒ねられたという照れ臭さが、寝巻きの肩のあたりに見られた。

しかし、お糸は、はじめから妾に来たのだった。妾に、こんな手間ひまのかかる女が、あってもいいものだろうか、と、吉良は、不思議な気がした。ばかばかしく思った。

いっそ暇を――が、そうもならなかった。それは、たんに未知へのあこがれかもしれなかったが、いつの間にか、愛着らしいもののできているのも、いなめなかった。平茂と、本人のお糸への、意地もあった。

何だか、考えこんでいる吉良を見ていて、糸重は、良人の辰馬の顔を思い出してみた。同時に、吉良が気の毒のような感情も、ふっと横切ったりした。

Chapter 3 of 5
|