4
糸重は、泣いていた。
吉良が、いつになくやさしく、
「何を泣く――?」
一寸逃れを、いわなければならなかった。
「ほしいものがございます。それさえ下されましたら――。」
「ほほう、物が欲しい。」吉良は、にこにこして、「子供よのう。必ずともに寵愛いたす――との証拠にな。面白いぞ。して何が所望じゃ。」
とっさの思いつきに、困って、
「あの――。」
と、部屋中を走った糸重の視線は、違い棚の扇箱にとまった。
「あれか。はっはっは、あの扇箱か。」
糸重は、あわてた。
「はい――いえ、あれに、扇をお入れ下さいまして――そうして、その扇に、ちょっと好みがございます。」
ほっとして、いった。
三
「骨は――と、木を用いて、変り材のごとく観すること、か。厄介なことを思いつきやがったなあ!」
職人のひとり言だった。
吉良からの注文書を置くと、すぐ、奇科百種新述と標題のある工学書を参考して、
「ええと、何だって?――木地を塗りて玳瑁あるいは大理石の観をなさしむる法、とくらあ。まず材をよく磨きてのち、鉛丹に膠水、または尋常の荏油仮漆を和せたる、黄赤にしてたいまい色をなすところの元料を塗る。さてこれに、血竭二羅度、焼酎十六度よりなる越幾斯にて、雲様の斑点を模彩す。かつ、あらかじめ原色料をよく乾かすよう注意、清澄たる洋漆を全面へ浴びせるべし。」
常磐橋の東の、石町一丁目にあって、御影堂として知られた、扇をつくる家だった。京都五条の橋の西の御影堂が本家で、敦盛の後室が落飾して尼になり、阿古屋扇を折って売り出したのが、いまに伝わっているといわれていた。おうぎ形の槻板に、大きく屋号を書いた招牌が、さがっていた。
そこの工作場だった。
扇工は、その、指南書のさきを読みつづけた。
「大理石の様模をあたうるには、随意ところの一色を塗り、これに脈理を施して天然のものに擬し、後に落古を被せて艶出しするを善とす――。」
そして、この式にしたがって、扇の骨に加工しているのだった。
それができ上れば、吉良の意に任す――それまでは、枕を交すことはできない、と、糸重が、難題として、吉良に持ちかけた扇子なのだった。
風流人をもって自ら許している吉良だった。この糸重の申し出を、面白い――と笑って、さっそく御影堂へ注文しないわけにはいかなかった。
義兄美濃守が、無事に饗応役を果すまで――それまでにでき上らない扇でさえあれば、何でもよかった。なるたけ時日の費りそうな、むずかしい扇を、でたらめに考え出した。扇が、例の扇箱に納められて、吉良から下げられない前に、美濃守は、役目を解かれるに相違なかった。そうすれば、糸重は、そっと吉良から脱けて、元のままのからだで辰馬の許へ帰れるはずだった。
吉良は、この扇のことを、女との交渉のまえの、ちょっとした遊戯として、興がっていた。
毎日のように、御影堂へ催促が飛んだ。もうできかかっているのだった。
四
立花出雲守の使者に渡すはずのお次第書を、糸重は、こっそり懐中していた。
お次第書は、追加の御沙汰といって、当の式の順序を認めた、重要な書類だった。饗応役のもっとも大切な一日を、具体的に説明しているものだった。
人気のないのを見すまして、背戸の柴折り戸をあけた。
いつものように、宵闇に紛れて、折助すがたに装った辰馬が、ぼんやり佇っていた。
手早く、お次第書を渡しながら、糸重が、
「これは、饗応役の一ばん大事の日のことを、細ごまと書いた、申せば、お役のこつなそうにございます。立花様から受取りに来られれば、失くなったことがわかって、おっつけ騒ぎになりましょう。」
辰馬は、頬被りの奥から、
「ほかに、心得は?」
「当日は、必ず大紋烏帽子のこと――。」
「その他――気が急く。」
垣根を離れて、行こうとするので、
「それから勅使院使さまがお上りのとき、吉良とお取持役おふたりが、お出迎えなされます。」
「うむ。それで?」
「その節、吉良は、高家筆頭の格式でお掛縁とやらまで出ますそうでございますが、兄上さまと立花様は、本座に――。」
「本座――ではわからぬ。どこだ、本座と申すのは。」
「何でも、おひき出しと申す場所だと――。」
「よし。お抽斗だな。」
去りかけた辰馬が、引っかえしてきて、
「扇は、は、ははははは、まだであろうな。」
「はい。まだでございます。でも、もうすぐ――危のうございますので、変り骨だけでは心細いと、あとから、いま一つ、難題を加えてやりました。吉良の知行、下野の稲葉の里に、親抱きの松というのがございまして、常から吉良が自慢にいたしております。いつぞや順礼がその松の下で相果てましたので、土地の者が、葬いのしるしに、それなる老木の傍に若松を一本植えましたところが、小松が枝を伸ばして、親松の幹を押さえましたそうで――さながら枝で支えようとしております恰好から、吉良が命名けまして親抱きの松と呼んでおります。これから考えつきまして、扇面いっぱいに、三万三千三百三十三の松の絵を、梨地蒔絵で、幸阿弥風に――面倒な注文でございますが、御影堂では、夜も昼も、職人から主人からかかりきりで、それもやがて、仕上げに近いと聞きましてございます。心配でございますが、どうすることもならず――。」
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一
お白書院に、飾りつけができていた。
大広間上席、帝鑑の間、柳の間、雁の間、菊の間と、相役が席についた。
静寂が、城中に渡って、柳原大納言、正親町中納言、甘露寺中納言の三卿が、お上りという時だった。
服装のことなど、教えてないはずだから、場違いの長裃でも着けていはしまいか――そうだと面白いのだが、と、吉良が、美濃守の姿を求めると、立派に大紋烏帽子だった。
吉良は、拍子抜けがして、美濃守が前へ来ても、このあいだからのように、何か一こと敵意を示してやるだけの気にも、なれなかった。
口を切ったのは、美濃守だった。
「御次第書とかいうものがあろうかの。見せられい。」
横柄なことばつきになっていた。
吉良は、無言で、相手を凝視めた。
「おい、御次第書は、どうした。ないのか。本役の美濃である。一応、眼を通しておかなければ、不都合だ。さし出すがよい。」
眼に見えて、吉良は、ふるえてきた。
「ござらぬ。」
「紛失いたしたな。」
「いや、持っておる。が、このほうは高家筆頭じゃ。わしが見ておれば、それで充分。お手前に関係したことではない。」
「なに、御饗応のお次第書が、本役のおれの知ったことではないと――。」
吉良は、生えぎわに汗を見せて、
「まあさ、そう大きな声をされんでも――今にも天奏衆がお着きになる。その銅鑼声がお耳にはいっては、おそれ多い。」
が、美濃守は、たたみかけるように、
「御老中連名のお次第書だ。天奏衆御出発の用意等、出ておるであろう。こちらから老中へ返納いたす。出せ!」
どうして、お次第書などというものがあることを、この美濃は知っているのだろう――吉良は、相手になるまいとした。
美濃守は、にやりとして、
「これだけの心得がなくて、本役をお受けできるか――勅使両山御霊屋へ御参詣、お目付お徒士頭が出る。定例じゃぞ。十三日が、天奏衆御馳走のお能。高砂に、三番叟。名人鷺太夫がつとめる。御三家、老若譜代大名、諸番がしら、物頭、お医師まで拝観、とある。おぼえておけ。」
吉良は、死人のような顔いろになって、美濃守を白眼んで立った。
二
「や、どうも、おっそろしく混みいった注文だったもんで、すっかり手間を食っちゃいましたが、やっとできましたよ。」
京都の御影堂本家の主人は、店に、本尊法然の像をまつって、時宗だったから、僧形で妻帯していたが、円頂で扇をつくって京の名物男だった。
それに、負けず劣らずだった、江戸の御影堂は、坊主ではなかったが、口の荒い職人膚だった。やはり、一風かわった人物だった。
辰馬が、吉良家から来たといって、でき上った扇を受け取りに行くと、奥の、手文庫のようなものから、自分で出してきた。
手のうえに置いて、離すのが惜しいといったように、惚れぼれと眺めた。
辰馬は、屋敷侍らしい着つけで来ていた。口も、そんなようにきいて、
「いかさま、見事――眼の果報じゃ。」
「なにしろ、凝ってこって凝り抜いたもんでわしょう? どうですい、この扇骨の色は。十本物だが、磨きは、自慢じゃあねえが、蘭法でも、ちょいと新しい式でね、いや、職人泣かせでしたよ、まったく。」
「うなずかれる――。」
「吉良のお殿様が、何を思いたって、こんな途方もねえものをお誂えになったか知らねえが――。」御影堂は、急に、声を落とした。
「噂ですぜ。うわさだから、間違ったらごめんなさい。お妾が、いうことを肯かねえで、こんな変ったものを考え出して、それができたら、へへへへ――するてえと、今まで殿様あお預けを食ってらしったんですね。ざまあねえや。道理で、値は構わねえから、早く、早くと――。」
「松がまた、よく描けておるな。」
辰馬は、扇を手にして、眼のさきにかざしてみた。
「細かい松じゃな。うむ、どこからどこまで、いい細工だて――これで、松の数は、三万三千三百三十三あるのか。」
「ございますとも。虫眼鏡で、お算え下さいまし――殿様がお待ちかねです。あっしも、もうすこし、ゆっくり見ていてえが、お持ち帰り願いましょう。」
「見れば、見るほど精巧なる出来栄に、殿も、およろこび下さろう。代は、後から屋敷へ取りにまいれ。」
「ええ、そんなもの、いつだって――。」
歩きかけた辰馬の手から、自然らしく、扇が落ちて、土間を打った。
辰馬が、おとしたのだった。
扇面が破れて、一、二本、骨が折れた。
「お! これは、とんだ――。」
叫んだ時、御影堂が、足袋はだしで駆け降りて来た。
「何をしやがる! 直すのに、また何日かかると思うんだ――。」
「粗相だ。許せ!」
もう一度、よろめいて、わざとでないように、扇を踏みにじりながら、辰馬は、微笑をふくんで、逃げ出していた。
三
勅使が、玄関に着こうとしていた。吉良上野介は、お掛縁に控えて、最後に、すべての配りはよいかと、あたりを見廻した。
岡部美濃守が、じぶんとおなじように、玄関に着座しているのに、気がついた。
いままでは、強情我慢で、そしてまた、どこからか聞きだしてきては勤めてきたが、身についていないということは、争えないと吉良は思った。
仕方がなかった。それが、ここに現われたのだった――そう考えて、吉良は、ちょっとおかしかった。
吉良は、高家筆頭だから、そこにいるのが当然だったが、
「岡部が、ここに出しゃばっておるとはなにごと! 今に、顔の上らないほど、手きびしくたしなめてやろう――。」
扇箱以来の美濃守への不愉快さが、吉良に、この報復の機会を得たことを、痛快がらせた。横眼に、美濃守を見やって、待っていた。
勅使の一行が、近くへ来たとき、吉良は、わざと低声だった。
「美濃殿――。」
聞こえないらしかった。
「美濃殿!」
のっそりと、美濃守が、答えた。
「何じゃい。」
「お席が違いますぞ。」
「はあ?」
吉良は、面白くなってきた。
「お席が違う。」急調子に、「お席が違うというに。これ、お席――。」
「なに? 何をぶつぶついわれおる。」
美濃守は、大きな肩を丘のように据えて、動こうともしなかった。
「本座にお直りなさい、本座に!」
「本座? 本座とはどこですかな。」
「しっ! さような大声を――早く、本座へ!」
「わからぬことをいうなっ。本座とはどこだ。」
「何を申す!」吉良が、きっとなった。「急場になって、本座はどこだなどと訊いておるどころではない! ええいっ! 本座へ控えるのだ、本座へ。」
つと起った美濃守が、小腰をかがめて、すり足に、見事に、お抽斗へ直るのを見ると、吉良は、かっとした。
美濃守は、はじめから知っていて、自分を揶揄していたのであったことに気がついた。