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丹下左膳 01 乾雲坤竜の巻
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丹下左膳 01 乾雲坤竜の巻
林不忘
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Chapter 1 of 24

夜泣きの刀

しずかに更けてゆく秋の夜。

風が出たらしく、しめきった雨戸に時々カサ! と音がするのは庭の柿の病葉が散りかかるのであろう。その風が隙間を洩れて、行燈の灯をあおるたびに、壁の二つの人影が大入道のようにゆらゆらと揺ぐ――。

江戸は根津権現の裏、俗に曙の里といわれるところに、神変夢想流の町道場を開いている小野塚鉄斎、いま奥の書院に端坐して、抜き放った一刀の刀身にあかず見入っている。霜をとかした流水がそのまま凝ったような、見るだに膚寒い利刃である。刀を持った鉄斎の手がかすかに動くごとに、行燈の映ろいを受けて、鉄斎の顔にちらちらと銀鱗が躍る。すこし離れて墨をすっている娘の弥生は、何がなしに慄然として襟をかきあわせた。

「いつ見ても斬れそうだのう」

ひとりごとのように鉄斎がいう。

「はい」

と答えたつもりだが、弥生の声は口から外へ出なかった。

「年に一度しか取り出すことを許されない刀だが、明日はその日だ――誰が此刀をさすことやら」

鉄斎というよりも刀が口をきいているようだ。が、ちらと娘を見返った鉄斎の老眼は、父親らしい愛撫と、親らしい揶揄の気味とでいつになく優しかった。すると弥生は、なぜか耳の付け根まであかくなって、あわてて墨をする手に力を入れた。うなだれた首筋は抜けるように白い。むっちりと盛りあがった乳房のあたりが、高く低く浪を打っている。

轟ッ――と一わたり、小夜嵐が屋棟を鳴らして過ぎる。

鉄斎は、手にしていた一刀を、錦の袋に包んだ鞘へスウッ、ピタリと納めて、腕を組んで瞑目した。

膝近く同じ拵えの刀が二本置いてある。

関の孫六の作に、大小二口の稀代の業物がある。ともに陣太刀作りで、鞘は平糸巻き、赤銅の柄に刀には村雲、脇差には上り竜の彫り物があるというところから、大を乾雲丸、小を坤竜丸と呼んでいるのだが、この一対の名刀は小野塚家伝来の宝物で、諸国の大名が黄金を山と積んでも、鉄斎老人いっかな手放そうとはしない。

乾雲、坤竜の二刀、まことに天下の逸品には相違ない。だが、この刀がそれほど高名なのは、べつに因縁があるのだと人はいいあった。

ほかでもないというのは。

二つの刀が同じ場所に納まっているあいだは無事だが、一朝乾雲と坤竜が所を異にすると、凶の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈、恐ろしい渦を巻き起こさずにはおかないというのだ。

そして刀が哭く。

離ればなれの乾雲丸と坤竜丸が、家の檐も三寸下がるという丑満のころになると、啾々としてむせび泣く。雲は竜を呼び、竜は雲を望んで、相求め慕いあい二ふりの刀が、同じ真夜中にしくしくと泣き出すという。

明日は、十月へはいって初の亥の日で、御玄猪のお祝い、大手には篝火をたき、夕刻から譜代大名が供揃い美々しく登城して、上様から大名衆一統へいのこ餅をくださる――これが営中年中行事の一つだが、毎年この日に曙の里小野塚鉄斎の道場に秋の大試合が催されて、高点者に乾雲丸、次点の者に坤竜丸を、納めの式のあいだだけ佩用を許す吉例になっている。もっとも、こういう曰くのある刀なのですぐに鉄斎の手へ返すのだけれど、たとえ一時にもせよ、乾坤の刀をさせば低い鼻も高くなるというもの。今年の乾雲丸はぜひとも拙者が――いや、それがしは坤竜をなどと、門弟一同はそれを目的に平常の稽古を励むのだった。

その試合の前夜、鉄斎はこうして一年ぶりに刀を出してしらべている。

「お父様、あの、墨がすれましてございます」弥生にいわれてぽっかり眼をあけた鉄斎、サラサラと紙をのべながら、夢でも見ているように突然にいい出した。

「明日は諏訪が勝ち抜いて、この乾雲丸をさすにきまっておる。ついでだが、そち、栄三郎をどう思う?」

諏訪栄三郎! と聞いて、娘十八、白い顔にぱっと紅葉が散ったかと思うと、座にも居耐えぬように身をもんで、考えもなく手が畳をなでるばかり――返辞はない。

墨の香が部屋に流れる。

「はっはっは、うむ! よし! わかっとる」

大きくうなずいた鉄斎老人、とっぷり墨汁をふくんだ筆を持ちなおすが早いか、雄渾な字を白紙の面に躍らせて一気に書き下した。

本日の試合に優勝したる者へ乾雲丸に添えて娘弥生を進ず

小野塚鉄斎

「あれ! お父さまッ!」

と叫んで弥生の声は、嬉しさと羞らいをごっちゃにして、今にも消え入りそうだった。

広やかな道場の板敷き、正面に弓矢八幡の大額の下に白髪の小野塚鉄斎がぴたりと座を構えて、かたわらの門弟の言葉に、しきりにうなずきながら、微笑をふくんだ眼を、今し上段に取った若侍の竹刀から離さずにいる。

乱立ちといおうか、一風変わった試合ぶりだ。

順もなければ礼もない。勝負あったと見るや、一時に五、六人も跳び出して、先を争って撃ってかかるが、最初に一合あわせた者がその敵に立ち向かって、勝てば続けて何人でも相手にする。しかし一度引っこむと二度は出られない。こうして最後に勝ちっ放したのが一の勝者という仕組みである。

出たかと思うと。すぐ参った! とばかり、帰りがけに早々お面をはずしてくる愛嬌者もある。早朝から試合がつづいて、入れ代わり立ちかわり、もう武者窓を洩れる夕焼けの色が赤々と道場を彩り、竹刀をとる影を長く板の間に倒している。

内試合とは言え、火花が散りそう――。

時は、徳川八代将軍吉宗公の御治世。

人は久しく泰平に慣れ、ともすれば型に堕ちて、他流には剣道とは名ばかりで舞いのようなものすらあるなかに、この神変夢想流は、日ごろ、鉄斎の教えが負けるな勝て! の一点ばりだから、自然と一門の手筋が荒い。ことに今日は晴れの場、乾坤の刀――とそれに!

道場の壁に大きな貼り紙がしてある。

勝った者へ弥生をとらせる! 先生のひとり娘、曙小町の弥生様が賭競りに出ているのだ。なんという男冥利、一同こころひそかに弓矢八幡と出雲の神をいっしょに念じて、物凄い気合いをただよわせているのもむりではない。誰もが一様に思いを寄せている弥生、剣家の娘だから恨みっこのないように剣で取れ――こう見せかけながら、実は鉄斎の腹の中で技倆からいっても勝つべき若者――婿として鑑識にかなった諏訪栄三郎という高弟がひとりちゃんと決まっていればこそ、こんな悪戯をする気にもなったのだろうが、これは栄三郎を恋する娘ごころを思いやって、鉄斎老人が、父として粋をきかしたのだった。

「誰だ? お次は誰だ?」

今まで勝ち抜いて来た森徹馬、道場の真中に竹刀を引っさげて呼ばわっている。いろんな声がする。

「かかれ、かかれ! 休ませては損だ」

「誰か森をひしぐ者はないか――諏訪! 諏訪はどうした? おい、諏訪氏!」

「そうだ、栄三郎はどこにいる!」

やがてこのざわめきのなかに、浅黄刺子の稽古着に黒塗日の丸胴をつけた諏訪栄三郎が、多勢の手で一隅から押し出されると、上座の鉄斎のあから顔がにっこりとして思わず肩肘をはって乗り出した。

と、母家と廊下つづきの戸の隙間に、派手な娘友禅がちらと動いた。

栄三郎は、浅草鳥越に屋敷のある三百俵蔵前取りの御書院番、大久保藤次郎の弟で当年二十八歳、母方の姓をとって早くから諏訪と名乗っている。女にして見たいような美男子だが、底になんとなく凜としたところがあって冒しがたいので、弥生より先に鉄斎老人が惚れてしまった。

ぴたり――相青眼、すっきり爪立った栄三郎の姿に、板戸の引合せから隙見している弥生の顔がぽうっと紅をさした。まだ解けたことのない娘島田を傾けて、袖屏風に眼を隠しながら一心に祈る――何とぞどうぞ栄三郎さま、弥生のためにお勝ちなされてくださいますよう!

勝負は時の運とかいう。が、よもや! と思っていると、チ……と竹刀のさきが触れ合う音が断続して、またしいんと水を打ったよう――よほどの大仕合らしい。

と、掛け声、跫音、一合二合と激しく撃ちあう響き!

あれ! 栄三郎様、勝って! 勝って! と弥生が気をつめた刹那、ッ――と倒れるけはいがして、続いて、

「参った! お引きくだされ、参りました」という栄三郎の声、はっとして弥生がのぞくと、竹刀を遠くへ捲き飛ばされた諏訪栄三郎、あろうことか、板の間に両手をついている!

わざとだ! わざと負けたのだ! と心中に叫んだ弥生は、きっと歯を噛んで駈け戻ったが、こみ上げる涙は自分の居間へ帰るまで保たなかった。障子をあけるやいなや、弥生はそこへ哭き伏した。

「わたしを嫌ってわざと負けをお取りになるとは、栄三郎さま、お恨みでございます! おうらみでございます。ああ――わたしは、わたしは」

胸を掻き抱いて狂おしく身をもむたびに、緋鹿子が揺れる。乱れた前から白い膚がこぼれるのも知らずに、弥生はとめどもない熱い涙にひたった。

この時、玄関に当たって人声がした。

「頼もう!」

根岸あけぼのの里、小野塚鉄斎のおもて玄関に、枯れ木のような、恐ろしく痩せて背の高い浪人姿が立っている。

赤茶けた髪を大髻に取り上げて、左眼はうつろにくぼみ、残りの、皮肉に笑っている細い右眼から口尻へ、右の頬に溝のような深い一線の刀痕がめだつ。

たそがれ刻は物の怪が立つという。

その通り魔の一つではないか?――と思われるほど、この侍の身辺にはもうろうと躍る不吉の影がある。

右手をふところに、左手に何やら大きな板みたいな物を抱えこんで奥をのぞいて、

「頼もう――お頼み申す」

と大声だが、夕闇とともに広い邸内に静寂がこめて裏の権現様の森へ急ぐ鳥の声が空々と聞こえるばかり。侍はチッ! と舌打ちをして、腋の下の板を揺り上げた。

道場は大混乱だ。

必ず勝つと信じていた栄三郎が森徹馬と仕合って明らかに自敗をとった。弥生を避けて負けたのだ! 早く母に死別し、自分の手一つで美しい乙女にほころびかけている弥生が、いま花の蕾に悲恋の苦をなめようとしている! こう思うと鉄斎老人、煮え湯をのまされた心地で、栄三郎の意中をかってに見積もってあんな告げ紙を貼り出したことが、今はただ弥生にすまない! という自責の念となり、おさえきれぬ憤怒に転じてグングン胸へ突きあげてくる。

鉄斎は起って来て、栄三郎をにらみつけた。

「これ、卑怯者、竹刀を取れ!」

栄三郎の口唇は蒼白い。

「お言葉ながらいったん勝負のつきましたものを――」

「黙れ、黙れ! 思うところあってか故意に勝ちをゆずったと見たぞ。作為は許さん! もう一度森へかかれッ!」

「しかし当人が参ったと申しております以上――」

「しかし先生」徹馬も一生懸命。

「エイッ、言うな! 今の勝負は鉄斎において異存があるのだ。ならぬ、今いちど立ち会え!」

この騒ぎで誰も気がつかなかったが、ふと見ると、いつのまに来たものか、道場の入口に人影がある。玄関の侍が、いくら呼んでも取次ぎが出ないのでどんどんはいりこんで来たのだ。

相変わらず片懐中手、板をさげている。

鉄斎が見とがめて、近寄っていった。

「何者だ? どこから来おった!」

「あっちから」

ぬけぬけとした返事。上身をグッとのめらせて、声は優しい。一同があっけにとられていると、今日の仕合に優勝した仁と手合せが願いたいと言う。

名は! ときくと、丹下左膳と答える。流儀は? とたたみかけると、丹下流……そしてにやりとした。

「なるほど。御姓名が丹下殿で丹下流――いや、これはおもしろい。しかし、せっかくだが今日は内仕合で、他流の方はいっさいお断りするのが当道場の掟となっておる。またの日にお越しなさい」

ゲッ! というような音を立てて、丹下左膳と名乗る隻眼の侍、咽喉で笑った。

「またの日はよかったな。道場破りにまたの日もいつの日もあるめえ。こら! こいつら、これが見えるか」

片手で突き出した板に神変夢想流指南小野塚鉄斎道場と筆太の一行!

や! 道場の看板! さては、門をはいりがけにはずして来たものと見える。おのれッ! と総立ちになろうとした時、

「こうしてくれるのだッ!」

と丹下左膳、字看板を離して反りかえりざま、

カアッ、ペッ!

青痰を吐っかけたは。

はやる弟子を制して大手をひろげながら、鉄斎が森徹馬をかえりみて思いきり懲らしてやれ! と眼で言うその間に左膳は、そこらの木剣を振り試みて、一本えらみ取ったかと思うと、はやスウッ! と伸びて棒立ち。裾に、女物の下着がちらちらする。やはり右手を懐中にしたままだ。カッとした徹馬、

「右手を出せ」

すると、

「右手はござらぬ」

「何? 右手はない? 隻腕か。ふふふ、しかし、隻腕だとて柔らかくは扱わぬぞ」

左膳、口をへの字に曲げて無言。独眼隻腕の道場荒し丹下左膳。左手の位取りが尋常でない。

が、相手は隻腕、何ほどのことやある?……と、タ、タッ、飄ッ! 踏みきった森徹馬、敵のふところ深くつけ入った横薙ぎが、もろにきまった――。

と見えたのはほんの瞬間、ガッ! というにぶい音とともに、

「う。う。う。痛う」

と勇猛徹馬、小手を巻き込んでつっぷしてしまった。

同時に左膳は、くるりと壁へ向きなおって、もう大声に告げ紙を読み上げている。

「栄、栄三郎、かかれッ!」

血走った鉄斎の眼を受けて、栄三郎はひややかに答えた。

「勝抜きの森氏を破ったうえは、すなわち丹下殿が一の勝者かと存じまする」

宵闇はひときわ濃く、曙の里に夜が来た。

日が暮れるが早いか、内弟子が先に立って、庭に酒宴のしたくをいそぐ。まず芝生に筵を敷き、あちこちに、枯れ枝薪などを積み集めて焚き火の用意をし、菰被りをならべて、鏡を抜き杓柄を添える。吉例により乾雲丸と坤竜丸を帯びた一、二番の勝者へ鯣搗栗を祝い、それから荒っぽい手料理で徹宵の宴を張る。

林間に酒を暖めて紅葉を焚く――夜は夜ながらに焚き火が風情をそえて、毎年この夜は放歌乱舞、剣をとっては脆くとも、酒杯にかけては、だいぶ豪の者が揃っていて、夜もすがらの無礼講だ。

が、その前に、乾坤の二刀を佩いたその年の覇者を先頭に、弥生が提灯をさげて足もとを照らし、鉄斎老人がそれに続いて、門弟一同行列を作りつつ、奥庭にまつってある稲荷のほこらへ参詣して、これを納会の式とする掟になっていた。

植えこみを抜けると、清水観音の泉を引いたせせらぎに、一枚石の橋。渡れば築山、稲荷はそのかげに当たる。

月の出にはまがある。やみに木犀が匂っていた。

――丹下左膳に、ともかくおもて向ききょうの勝抜きとなっている森徹馬が打たれてみれば、いくら実力ははるか徹馬の上にあるとわかっていても、その徹馬に負けた栄三郎を今から出すわけにはゆかない。栄三郎もこの理をわきまえればこそ辞退したのだ。何者とも知れない隻腕の剣豪丹下左膳、そこで、刀痕あざやかな顔に強情な笑をうかべ、貼り紙を楯に開きなおって、乾雲丸と娘御弥生どの、いざ申し受けたいと鉄斎に迫った。いや、あれは内輪の賞で、他流者には通用せぬと説いても、左膳はいっこうききいれない。老いたりといえども小野塚鉄斎、自ら立ち向かえば追っ払うこともできたろうが、今日は娘の身にも関係のあること、ここはあやして帰すが第一、それには乾雲丸さえ許せば、よもや娘までもと言うまい――こう考えたから、そこは年輩、ぐっとこらえて、丹下を一の勝ちとみとめた。

で、書院から捧持して来た関の孫六の夜泣きの名刀、乾雲丸は丹下左膳へ、坤竜丸は森徹馬へと、それぞれ一時鉄斎の手から預けられた。

参詣の行列。

泣きぬれた顔を化粧いなおした弥生が、提灯を低めて先に立つと、その赤い光で、左膳はじっと弥生から眼を離さなかったが、弥生は、あとから来る栄三郎に心いっぱい占められて気がつかなかった。

やがて、ぞろぞろと暗い庭をひとまわりして帰ると、それで刀を返上して、ただちにお開き……焚き火も燃えよう、若侍の血も躍ろう――という騒ぎだが、この時!

自分の坤竜丸と左膳の乾雲丸とをまとめて返しに行くつもりで、しきりに左膳の姿を捜していた徹馬が、突如驚愕の叫びをあげた。

「おい、いないぞ! あの、丹下という飛入り者が見えないッ!」

この声は、行列が崩れたばかりでがやがやしていた周囲を落雷のように撃った。

「なにイ! タ、丹下がいない?」

「しかし、今までそこらにうろうろしてたぞ」

たちまち折り重なって、徹馬をかこんだ。

「彼刀をさしたままか?」

その中の誰かがきくと、徹馬は声が出ないらしく、

「うん……」

続けざまにうなずくだけ――。

乾雲丸を持って丹下左膳が姿を消した。

降って湧いたこの椿事!

離れたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる狂瀾怒濤、現世の地獄をもたらすかも知れないと言い伝えられている乾坤二刀が、今や所を異にしたのだ!

……凶の札は投げられた。

死肉の山が現出するであろう! 生き血の河も流れるだろう。

剣の林は立ち、乱闘の野はひらく。

そして! その屍山血河をへだてて、宿業につながる二つの刀が、慕いあってすすり泣く……!

非常を報ずる鉄斎道場の警板があけぼのの里の寂寞を破って、トウ! トトトトウッ! と鳴りひびいた。

変異を聞いて縁に立ちいでた鉄斎、サッと顔色をかえて下知をくだす。

もう門を出たろう!

いや、まだ塀内にひそんでいるに相違ない。

とあって、森徹馬を頭に、二隊はただちに屋敷を出て、根津の田圃に提灯の火が蛍のように飛んだ。

同時に、バタン! バタン! と表裏の両門を打つ一方、庭の捜査は鉄斎自身が采配をふるって、木の根、草の根を分ける抜刀に、焚火の反映が閃々として明滅する。

ひとりそのむれを離れた諏訪栄三郎、腰の武蔵太郎安国に大反りを打たせて、星屑をうかべた池のほとりにたった。

夜露が足をぬらす。

栄三郎は裾を引き上げて草を踏んだ。と、なんだろう――歩にまつわりつくものがある。

拾ってみると、緋縮緬の扱帯だ。

はてな! 弥生様のらしいがどうしてこんなところに! と首を傾けた……。

とたんに?

闇黒を縫って白刃が右往左往する庭の片隅から、あわただしい声が波紋のようにひろがって来た。

「やッ! いた、いたッ! ここに!」

「出会えッ!」

この二声が裏木戸のあたりからしたかと思うと、あとはすぐまた静寂に返ってゾクッ! とする剣気がひしひしと感じられる。

声が切れたのは、もう斬りむすんでいるらしい。

散らばっている弟子達が、いっせいに裏へ駈けて行くのが、夜空の下に浮いて見える。

ぶつりと武蔵太郎の鯉口を押しひろげた栄三郎、思わず吸いよせられるように足を早めると、チャリ……ン!

「うわあッ!」

一人斬られた。

――星明りで見る。

片袖ちぎれた丹下左膳が大松の幹を背にしてよろめき立って、左手に取った乾雲丸二尺三寸に、今しも血振るいをくれているところ。

別れれば必ず血をみるという妖刀が、すでに血を味わったのだ。

松の根方、左膳の裾にからんで、黒い影がうずくまっているのは、左膳の片袖を頭からすっぽりとかぶせられた弥生の姿であった。

神変夢想の働きはこの機! とばかり、ずらりと遠輪に囲んだ剣陣が、網をしめるよう……じ、じ、じッと爪先刻みに迫ってゆく。

刀痕鮮かな左膳の顔が笑いにゆがみ、隻眼が光る。

「この刀で、すぱりとな、てめえ達の土性ッ骨を割り下げる時がたまらねえんだ。肉が刃を咬んでヨ、ヒクヒクと手に伝わらあナ――うふっ! 来いッ、どっちからでもッ!」

無言。光鋩一つ動かない。

鉄斎は? 見ると。

われを忘れたように両手を背後に組んで、円陣の外から、この尾羽打枯らした浪人の太刀さばきに見惚れている。敵味方を超越して、ほほうこれは珍しい遣い手だわいとでもいいたげなようす!

焦立ったか門弟のひとり、松をへだてて左膳のまうしろへまわり、草に刀を伏せて……ヒタヒタと慕い寄ったと見るまに、

「えいッ!」

立ち上がりざま、下から突きあげたが、

「こいつウ!」

と呻いた左膳の気合いが寸刻早く乾雲空を切ってバサッと血しぶきが立ったかと思うと、突いてきた一刀が彗星のように闇黒に飛んで、身体ははや地にのけぞっている。

弥生の悲鳴が、尾を引いて陰森たる樹立ちに反響した。

これを機会に、弧を画いている刃襖からばらばらと四、五人の人影が躍り出て、咬閃入り乱れて左膳を包んだ。

が、人血を求めてひとりでに走るのが乾雲丸だ。しかも! それが剣鬼左膳の手にある!

来たなッ! と見るや、膝をついて隻手の左剣、逆に、左から右へといくつかの脛をかっ裂いて、倒れるところを蹴散らし、踏み越え、左膳の乾雲丸、一気に鉄斎を望んで馳駆してくる。

ダッ……とさがった鉄斎、払いは払ったが、相手は丹下左膳ではなく魔刀乾雲である。引っぱずしておいて立てなおすまもなく、二の太刀が肘をかすめて、つぎに、乾雲丸はしたたか鉄斎の肩へ食い入っていた。

「お! 栄ッ! 栄三――」

そうだ栄三郎は何をしている? 言うまでもない。武蔵太郎安国をかざして飛鳥ッ! と撃ちこんだ栄三郎の初剣は、虚を食ってツウ……イと流れた。

「おのれッ!」

と追いすがると、左膳は、もうもとの松の根へとって返し、肉迫する栄三郎の前に弥生を引きまわして、乾雲丸の切先であしらいながら、

「斬れよ、この娘を先に!」

白刃と白刃との中間に狂い立った弥生、血を吐くような声で絶叫した。

「栄三郎様ッ、斬って! 斬って! あなたのお手にかかれば本望ですッ……さ、早く」

栄三郎がひるむ隙に、松の垂れ枝へ手をかけた左膳、抜き身の乾雲丸をさげたまま、かまきりのような身体が塀を足場にしたかと思うと、トンと地に音して外に降り立った。

火のよう――じんの声と拍子木。

それが町角へ消えてから小半刻もたったか。麹町三番町、百五十石小普請入りの旗本土屋多門方の表門を、ドンドンと乱打する者がある。

「ちッ。なんだい今ごろ、町医じゃあるめぇし」寝ようとしていた庭番の老爺が、つぶやきながら出て行って潜りをあけると、一拍子に、息せききって、森徹馬がとびこんで来た。

「おう! あなた様は根津の道場の――」

御主人へ火急の用! と言ったまま、徹馬は敷き台へ崩れてしまった。

土屋多門は鉄斎の従弟、小野塚家にとってたった一人の身寄りなので、徹馬は変事を知らせに曙の里からここまで駈けつづけて来たのだ。

何事が起こったのか……と、寝巻姿に提げ刀で立ち現われた多門へ、徹馬は今宵の騒ぎを逐一伝える。

――丹下左膳という無法者が舞いこみ、大事の仕合に一の勝ちをとって乾雲丸を佩受したこと、そして、さしたまま逃亡しようとして発見され鉄斎先生はじめ十数人を斬って脱出した……しかも、刀が乾雲丸の故か、斬られた者は、重軽傷を問わずすべて即死! と聞いて、多門はせきこんだ。

「老先生もかッ」

「ざ、残念――おいたわしい限りにございます」

「チエイッ! 御老人は年歳は年齢だが、お手前をはじめ諏訪など、だいぶ手ききが揃っておると聞いたに、なななんたる不覚――」

徹馬は、外へ探しに出ていて、裏塀を乗り越えるところを見つけて斬りつけたが、なにしろこの暗夜、それに乾雲丸の切先鋭く、とうとう門前町の方角へ丹下の影を見失ってしまった。こう弁解らしくつけたしたかれの言葉は、もはや多門の耳へははいらなかった。

お駕籠を、と老爺が言うのを、

「なに、九段で辻待ちをつかまえる」

と、したくもそこそこに、多門は徹馬とつれ立って屋敷を走り出た……。

行く先は、いうまでもなく根津曙の里。

その曙の里の道場。

奥の書院に、諏訪栄三郎と弥生が、あおざめた顔をみつめあって、息づまる無言のまま対座している。

鉄斎をはじめ横死者の遺骸は、道場に安置されて、さっきから思いがけない通夜が始まっている。二人はその席を抜けて、そっとこの室へ人眼を避けたのだ。悲しみの極を過ぎたのだろう、もう泣く涙もないように、弥生はただ異様にきらめく眼で、憮然として腕を組んだ栄三郎の前に、番を破られて一つ残った坤竜丸が孤愁を託つもののごとく置かれてあるのを見すえている。

遠く近く、ジュウン……ジュンという音のするのは焚き火に水を打って消しているのである。いきなり障子の桟でこおろぎが鳴き出した。

「まったく、なんと申してよいやら、お悔みの言葉も、ありませぬ」

一句一句切って、栄三郎は何度もいって言葉をくり返した。

「御秘蔵の乾雲丸が先生のお命を絶とうとは、何人も思い設けませんでした。がしかし、因縁――とでも申しましょうか、離れれば血を見るという乾雲は、離れると第一に先生のお血を……」

「栄三郎様!」

「いや、こうなりましたうえは、いたずらに嘆き悲しむより、まず乾雲を取り返して後難を防ぐのが上分別かと――」

「栄三郎さまッ!」

「それには、私に一策ありと申すのが、刀が刀を呼ぶ。乾雲と坤竜は互いにひきあうとのことですから、もし、私に、この坤竜丸を帯して丹下左膳めをさがすことをお許しくださるなら、刀同士が糸を引いて、必ずや左膳に出会いたし……」

「栄三郎さまッ!」

「はい」

「あなたというお人は、なんとまあお気の強い――刀も刀ですけれど弥生の申すことをすこしもお聞きくださらずに」

「あなたのおっしゃること――とはまたなんでございます?」

「まあ! しらじらしい! あなたさえ今日勝つべき仕合にお勝ちくださったら、こ、こんなことにはならなかったろうと……それを思うと――栄三郎様ッ、お恨み、おうらみでございます」

「勝負は時の運。私は他意なく立ち合いました」

「うそ! 大うそ!」

「ちとお謹み――」

「いいえ。あなたのようなひどい方がまたとございましょうか。わたしの心は百も御承知のくせに、女の身としてこの上もない恥を、弥生は、きょう初めて……」

「弥生様。道場には先生の御遺骸もありますぞ」

「ええ……この部屋で、父はどんなに嬉しそうににっこりしてあの貼り紙を書きましたことか――」

「――それも、余儀ありませぬ」

「栄三郎さまッ! あ、あんまりですッ!」

わッ! と弥生が泣き伏した時、廊下を踏み鳴らしてくる多門の跫音がした。

おののく白い項をひややかに見やって栄三郎は坤竜丸を取りあげた。

「では、この刀は私がお預かりいたします。竜は雲を招き、雲は竜を待つ、江戸広しといえども、近いうちに坤竜丸と丹下の首をお眼にかけましょう――」

こうして、戦国の昔を思わせる陣太刀作りの脇差が、普通の黒鞘武蔵太郎安国と奇妙な一対をなして、この夜から諏訪栄三郎の腰間に納まることとなった。

Chapter 1 of 24
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