Chapter 1 of 4

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大寒の盛りだといふのに、一向雪の降る氣配もなく、この二三日はびしやびしやと霙のやうな雨ばかり降つてゐた。晝間から町中を歩きつたので孝次郎はすつかりくたびれ果ててゐた。何處でもいゝから今夜ひと晩眠らせてくれる家はないかと思つた。出鱈目に、眼の前に來た市電へ乘つて、三つばかり暗い停留所をやりすごして、家のありさうな町へ降りてみた。息のつまりさうな、混みあつてゐる電車から、自分の躯を引きちぎるやうにして、雨の降つてゐる、泥濘のひどい道へ降りた。降りるなり、そばへ立つてゐる男に、孝次郎はこゝは何處ですかと聞いてみた。「こゝは瀬戸電の出るところですよ」さう云つて、その男は古ぼけた番傘をぱちんと開いて行つてしまつた。あまり降りる人も乘る人もないと見えて、電車が行つてしまふと、廣くて暗い街路には誰一人通つてゐる者もない。孝次郎は外套を頭から引つかぶつて、燈火の光つてゐる方へ濡れ鼠になつて後戻りして行つた。戸を閉した暗い家の檐下をひらつて歩きながら、孝次郎は測り知れないほどの空虚さが、淋しさの塊になつて、冷えた腹の芯に重くたまつてくるやうであつた。再び日本へかへれようなぞとは夢にも思はなかつただけに、佐世保へ上陸してからのこの一週間あまりは、孝次郎にとつて一年の歳月がたつたやうにも考へられた。

燈火の前まで來ると、やつぱりそこは飮み屋だつたが、此邉からまた燒野原になつてゐると見えて、その家はバラックだつたし、家の周圍は廣々とした蓮沼のやうに、燒跡の果しない擴がりが茫つと雨夜のなかに光つて見えた。孝次郎はがたぴしした硝子戸を開けて飮み屋へはいつた。

「あゝ、もう、おしまひですよ」

子供のやうに背の小さい親爺が、あわてて店の電氣を消した。孝次郎は暗い土間につつたつたまゝで、「すこしやすませて下さい」と足もとの板の椅子に腰をおろした。臺所の薄暗い燈火の光りで、土間の卓子や椅子が濡れてゐるやうに見えた。

「もう、何もないンでね」

「さうですか、旅から來たもので、この雨で弱つてしまつてねえ……いくら高くてもいゝんだが酒があつたら一杯飮ましてくれませんか、もうへとへとなんですがなア」

親爺は一寸の間沈默つてゐた。風が出たとみえて、ざあつと板屋根に吹きつけてゐる雨の音がはつきりしてきた。

「ねえ、をぢさん、一杯飮ましてくれませんか……」

孝次郎は冷い靴のさきを土間に何度か磨りつけながら、濡れた外套を椅子の背にかけた。

「熱くするかね?」

「えゝ、そりやア熱くして貰へればなほいゝです」

孝次郎は吻つとして濡れた首卷きをはづし、風呂敷包みと一緒にそばの椅子の上に置いた。十五六の男の子が水洟をすゝりながら臺所から出て來て店の硝子戸のねぢをかけてゐる。

「しまふところで氣の毒ですな」

孝次郎にはみむきもしないで、男の子は默つて臺所へ消えてしまつた。軈て親爺が熱く燗をしたコップと、何か煮びたしたやうなものを皿へ入れて暗い土間へ運んできた。

「どうも濟みませんねえ」

「大根といかの煮つけで、もうこれだけでね」

「いゝえ、何でもいゝんです」

孝次郎はすぐ財布を出して、折り疊んだ百圓札を親爺に渡した。

「それぢやア、二十五圓貰ひます」

「えゝ、どうぞ取つて下さい」

唇がつけられないほど熱い酒だつたが、冷い舌に沁みて、しびれるやうに甘美かつた。親爺は臺所の電氣を店の間のさかひの障子ぎはへ引つぱつて來た。

「見えるから大丈夫ですよ」

「それでも、あまり暗くちやアね」

「をぢさん、甘美い酒ですねえ」

「えゝ、以前は酒屋をしてゐたンで、少しはいゝ酒を使つてゐるンで……」

「やつぱり燒けたンですか」

「さうでがす」

「大變でしたね」

親爺は返事もしないで釣錢を持つて來た。孝次郎は急いで片手を上げると、「もう一杯、あと一杯貰へませんか――甘美い酒で、もう一杯飮みたいです」親爺は幾枚かの札をつかんだまゝ孝次郎を見てゐたが、「それぢや、これからもう二十五圓貰ひます」と云つて、指をなめながら三枚の札をとると、あとを臺の上へ置いて奧へ引つこんで行つた。

孝次郎はポケットをさぐつて、煙草を出すと、それに火をつけて甘美さうに吸つた。疲れてゐるせゐか眼が乾いてしまつてまばたきをするのが痛い。湯氣の出てゐるコップの上に顏をつけると、柔いぬくもりがぷうんとくる酒の匂ひといつしよに、人の世の愉しみを誘ひに來る。孝次郎は乾いた眼の奧に沁み出るやうな一滴の涙を感じた。始めて孤獨な涙が瞼を靜かに突きあげてきた。親爺が二杯目の熱いコップを皿の上に乘せて持つて來た時には、孝次郎はいい氣持ちに醉ひがまはりかけてゐた。

「をぢさん、何處かこのへんに宿屋はないでせうかね? 明日の朝の汽車で東京へ行くのですが、寢るだけ寢さしてくれる家はないでせうかね」

「さうさ……宿も大半燒けてしまつたンでなア」

「さうでせうね……」

親爺はぼそぼそとさつきの子供と話をしてゐる樣子だつたが、「一軒心あたりがあるから聞きにやりませう」と云つてくれた。孝次郎は地獄で佛とはこのことだと思つた。

「濟みませんなア」

「さア、泊めるかどうか知らンが、聞いてみンことにはねえ」

「どんなところでもいゝンですよ。何しろこの雨ぢやア……」

「名古屋も大半燒けちまつたでねえ……」

「さうですねえ、自分はこのあひだ張家口から戻つて來たばかりで、吃驚しました」

「兵隊で行つてなすつたのかね?」

「さうですよ」

「そりや、御苦勞さんでしたなア。――私の息子もビルマへ行つて戰死しました」

「さうですか、大變でしたねえ」

トラックでも走つてゐるのか、水飛沫が硝子戸へぶつつかつてゐる。二杯目のコップを引き寄せて、孝次郎は消えた吸ひさしの煙草に火をつけてまた吸つた。

「貴方がた、こゝで寢泊りをしてゐるンですか」

「さうでがす。末の息子と二人でこゝへ寢てゐます」

「お神さんは?」

「こゝから二時間ばかり行つた半田と云ふところにゐます」

「男ばかりでよく出來ますね」

「大したものをつくるわけでもないから……」

息子が戻つて來た。息子はぼそぼそと父親と話してゐる。親爺のうなづきかたが、あまり香ばしくもなささうであつた。

「駄目ですか?」

「もう止めて、宿屋はしてゐないさうでね」

「困つたなア」

「此邉はまるきり旅館がないンで……」

「さうですかねえ」

これ以上孤獨ではゐられないやうなあせりかたで、孝次郎は二杯目の酒はゆつくり飮んだ。

「明日の朝、汽車へ乘るのかね?」

「えゝさうです」

「さうさ、二疊の狹い處だが、よかつたらこゝで夜明しするつもりで泊つてゆくかね?」

「そりやア結構ですなア――お氣の毒ですが、さうさして貰へば有難いですよ」

泊つてもいゝとなると、氣が拔けたやうに孝次郎はじわじわと躯が疲れてきてゐるのを感じた。

「そこは寒いからこつちへ來て行火にでもあたんなすつたら……」

孝次郎は店の間に自分の荷物をひとまとめにして、コップとおでんの皿を持つて燈火の方へ行つた。

「蒲團もこれきりで、何もないンでね」

燈火の下でみる親爺の顏は、案外、年齡よりも老けてはゐたが、如何にも好人物さうである。息子は父親と共に苦勞してゐるとみえて、しなびた顏立ちで、いつも癖のやうに水洟をすゝつてゐる。二疊の奧は物置と臺所と一緒になつてゐる樣子で、そこから雨風がしぶくやうに時々さつと冷く吹き込んできた。

板壁と障子だけの簡單な造作で寒々としてゐたが、戸外にゐるよりはましである。汚れて模樣もわからないやうな蒲團の中に、猫がまるまつてゐる位の小さい電氣炬燵がしつらへてあつた。孝次郎は濡れて固くなつた靴をぬぐとその小さい行火に足をさし込んだ。親爺も寢酒を一杯やるとみえて、孝次郎と同じやうにコップ酒を疊の上に置いて、息子にうるめ鰮の小さいのを七輪で燒かせた。

さうして、親爺も熱いコップを吹き乍ら飮んでゐる。裄の長いジャンパアを着てゐるので、如何にも實直さうな男だつた。孝次郎はアルマイトの煙草のケースを出して親爺に進めた。

「お世話になりますねえ、全く、この雨には閉口しました。――信州から出て來て人を尋ねたンですが、その家もなくてね……」

「信州は何處です」

「松代の在です」

「兵隊はどうでしたね?」

「えゝ、自分は幸福な方でせうなア……何しろ、生きてかへりたいと一生懸命でしたからね。――自分は、生きてゐたいと思つて、そればかり工夫をこらしてゐましたよ。もう、自分はこれで死ぬンだ、駄目だと思つたらいけないです。どんなことをしても生きてやると云ふ氣持ちさへあれば生きることが出來ます」

「そりやアさうだらうねえ」

「自分は二度兵隊にとられたンですが、二度とも病院行きを考へて助かりました。正直、死にたくはないですからねえ」

「ほう、そんなことが出來るンですか?」

「軍隊位いんちきな處はありませんよ。自分は二度目に召集が來た時は、もう、これでは生きることはむづかしいと思ひました。何しろ、毎日毎日、筏を組んで漂流する練習ばかりしたンですから、そんな事をしてゐるうちに段々自分は怖くなつてきて逃げ出したくなりました……」

「さうさ、どうも、此の戰爭はたゞでは濟まんと考へてゐたが、えらい不始末をしでかしたものさねえ、何しろ向うみずで、勘のやうなもので戰爭を始めたンだから。――可哀想に、私の女房も、息子は死ぬし、家は燒かれるし、娘の亭主も中國へ行つて、いまは子供ごと背負ひ込みで、それに、この子も岡崎の工場で怪我をして腕一本なくしてしまつて……それでもう女房の奴、氣が變になつてしまつてね、氣病みとでも云ふのか、半年ばかりぶらぶらして一向に埓のあかん女子になりましてねえ」

孝次郎は鰮を燒いてゐる息子の方を見た。左手で器用に魚を燒いてゐる。洋服姿なので、云はれるまで氣がつかなかつたけれども、息子が何をするにも無口でひつそりしてゐるのはそのせゐなのかと孝次郎は痛ましく思つた。酒の醉ひも手傳つてか、この親爺の坦々とした話を聞いてゐると、昨日や今日の知りあひでないやうな、何となく長い間の昵懇な間柄でもあるやうな親しさが湧いてきた。

終戰と同時に、北京へ近い、小さい藁生鎭と云ふ部落に集結して、孝次郎の部隊はそこで三ヶ月ばかり暮した。大量に支給された靴下や煙草なぞを部落民に賣つては食物を買つてゐた。部落民はすこしも日本兵をきずつけないで親切でさへあつたのだ。三ヶ月の間、山の中にゐた或る部隊なぞはそつくり八路軍に降伏して行つたと云ふことも孝次郎は風評に聞いた。――孝次郎は始めから此の部隊の兵隊ではなかつた。途中からまぎれこんだと云つてもいゝ程で、孝次郎の原隊はもうとつくに船に乘つて南の何處かの島へ行つてゐなければならない筈だつた。

原隊といつしよに山海關にゐる時、毎日筏を組む練習で段々怖くなりかけてゐた孝次郎は病氣になることを考へついて、或日軍醫の診斷を受けてみた。假病と云ふことが判ればひどい事になると考へ出すと、胸の動悸は早くなり、軍醫の前で顏をあげてゐることが出來なかつた。若い軍醫は孝次郎の脈を計つてお前の心臓は馬鹿に不整脈だな、何時もかうなのかと云つて、一週間も寢ればいゝだらうと診斷してくれたのである。孝次郎の職業は繪描きだつたので、若い軍醫は孝次郎に花の繪を描いてくれと頼みに來たりした。――孝次郎は軍人のなかで、軍醫だけには好意を持つことが出來た。優しくて繪が好きなものが多いと思つた。

病院へはいつて早々、川魚の刺身を食べて孝次郎はひどい下痢をしてしまつた。間もなく北京の病院にうつされたのだけれど、そこの軍醫も亦孝次郎に繪を求めて來た。孝次郎は本當の繪描きではなかつたけれど、繪を描くことは好きであつた。百姓の生れで中學を出ると、須坂の材木會社に勤めてゐたが、繪が好きで、たまに東京へ出ると展覽會をみたり、繪具を買ひあつめるのが愉しみであつた。最初に軍隊から戻つて來た時、田舍で妻を貰ひ、二年目にまた今度の召集だつたのだ。

北京の病院を出ると、今度は混成部隊にはいつて、張家口に行き、そこで一ヶ月ばかり何をするともなく日が過ぎていつた。――終戰となつて、藁生鎭にうつつてからは、もう軍隊のあの怖ろしい規律なぞなくなり、兵隊は只の人間の集團にすぎなくなつてゐた。長い忍耐が兵隊の心を荒ませてゐたのだ。勳章を貰ひそこねたが命は助かるぞと云つてみんなを笑はせた男もゐたけれど、孝次郎は終戰となつたことに救はれるやうな吻つとした氣持ちを感じた。秋が深まるといつしよに、このあたりも蟲の音がしげくなり、兵隊の望郷は一日一日つのつていつた。兵隊の各自は遠い以前の、自分の職業がなつかしくてたまらなかつた。朝になると夢占の話がはずむ。たつた此間まで砲車彈藥車とともに轣轆として續いた規律ある軍隊の流れは、終戰と同時に落ちぶれた集團となつてしまつた。――孝次郎は誰にも目立たないやうに、いつも話の仲間からはづれて孤獨を守つてゐた。自分の生命をこれほどいとしいと思つた時はなかつた。おちぶれた集團のなかの馬鹿な爭論に卷きこまれて、かすり傷一つこしらへるのも怖ろしくてたまらないのだ。兵隊の或る仲間では賭博が流行しはじめた。孝次郎はその仲間にトランプを描いてくれとせがまれて仕樣ことなしにトランプを描いてやつたが、間もなくそのトランプで二人の兵隊が歩哨の銃を向けあふ結果になつたりして、孝次郎はますます小さくなつて暮した。毎日が無爲な退屈で淋しい日常だつた。早く故郷へ歸つて、あの材木會社の拭きこんだ事務机で熱い茶を飮む幸福にめぐりあひたいと、孝次郎は空想した。昔の同輩がみななつかしかつた。厭な奴だと思つてゐた人間までが戀しくてたまらなかつた。とりわけ家に殘して來た初代のおもかげは瞼に描くたびに皮膚がしびれてくるやうななつかしさで、逢ふ日の樂しい場面がはつきりと心に浮んで來る。何處の港へ着くのかはわからないけれども、着いたら電報を打つて驚かしてやりたい。平凡な田舍女だが、別れるときのあの取り亂した姿は孝次郎の胸をかきむしつた。背の低いぼつてりした肉づきが夢のなかで時々孝次郎の首を抱きにきた。待つて待ちくたびれてゐるに違ひない。母は初代は三人前も働く女だと自慢してゐたが、その力は、自分をしつかり愛してくれてゐる力なのだと孝次郎は初代が不憫であつた。疲勞で斃れる馬なぞを見ても、三人力で働いてゐる百姓姿の初代を思ひ出して、孝次郎はものがなしくなるのだつた。孝次郎は兵隊になつても前線と云ふものを知らなかつたけれど、そんな處へ行けば、自分のやうな小心なものは發狂してしまふに違ひないと思つた。病院生活をしてゐる間に、孝次郎は前線から送られてきた數百人の負傷兵を見た。どの兵も苦痛に呻吟してゐた。なかには汚れた血色のない頬に涙を流してゐる者もゐた。だが、あの負傷兵の鼻を突きあげるやうな臭氣を生涯忘れる事は出來ない。これは正常な人間の營みではない。これは異常な事なのだと孝次郎は心のなかで、まるで地獄の世界だと思つた。――板の間にぴつしりと毛布一枚で寢かされてゐる負傷兵は悲慘な姿のまゝで軍醫を呼んでゐる。擔架に寢てゐるものは連れてこられたまゝそのまゝ息を引きとるものさへあつた。あまりの苦痛のために狂人になつてしまふ負傷兵もゐた。孝次郎はこの慘めな兵達をみて、人間生活の貧弱な才分と云ふものを、動物よりも劣つてゐるとしか考へやうがなかつた。この兵隊達が故郷を出る時は、故郷の人達は旗を振つて送つてゐるのだ。自分も亦數人の肉親や知人に送られたのだけれども、その時、どの人も、行つて來いよ、御奉公頼むぞと云つた言葉が孝次郎には忘れられない。御奉公すると云ふのは、武器を持たないでライオンの柵のなかを掃除に行くやうなものだつた。皆、大なり小なり傷ついて送られてかへつて來る……殺菌劑と排泄物のあのすさまじい匂ひだけでも人の心を焦々させるやうだつた。そのうへ兵隊はみんな虱だらけだ。

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